時間の本質を解明するための大学院に進学するかどうか迷っていたアンナの部屋に、突然少年が現れる。またあの日時計の不思議な作用だ。少年はアンナにあるミッションを果たすよう伝えに来たと言い、アンナは再び異世界に旅立つ・・・。ルーマニア人能楽研究者で翻訳者でもあるラモーナ・ツァラヌによる連作短編小説!
by 金魚屋編集部
口と鼻の中に砂が入っている。
空気が熱く、息ができない。
アンナは咳き込みながら目を開いた。ひっきりなしに砂が風で吹きつけられるので周りが見えない。手の甲で眼をこすったが、肌も皮膚も髪も服も砂まみれで痛みが増す一方だった。
遠くで獣が吠えるような声がした。アンナは身震いした。緊張して耳を澄ますとどうやら風の音のようだ。強風ががらんとした場所を吹き抜けてゆくような音。
痛みで溢れた涙でようやく周りが見えるようになった。
廃墟になった街にいた。
鳥肌が立った。
昔はどんな建物だったのかもう特定できない壁の残骸が、半分砂に覆われて立ち並んでいる。真上はアーケードのような構造だが梁が支えていた屋根は跡形もなく、その向こうに夕暮れの空が見えた。空気が燃えるように熱い。夕方でもこんなに熱いなら昼間は灼熱地獄だろう。
〝ここは一体どこ?〟
声が出なかった。獣の吠えるような声はまだ聞こえていたが、自分で言葉を発することができない。
アンナは空がよく見えそうな場所へ向かった。一歩踏み出すごとに足が数センチ砂に沈み込み、歩くだけで一苦労だ。
ようやく開かれた場所にたどり着いたアンナは言葉を失った。太陽が間もなく地平線に沈むところだったが砂に覆われた廃墟の先は見わたす限りの砂丘だった。
〝何が起こったの? 世界はどうなっちゃったの?〟
動くもののない死の世界だった。アンナは今までいた世界に戻りたいと思った。日時計を握りしめて蓮の言葉を思い出した。戻る時は一時に設定する、と。
ドンと後ろから強い風に押されてアンナは我に返った。自分がここに派遣されたのは理由があるはずだ。それを突き止めなければ恐らく元の世界に戻れないだろう。
廃墟が気になった。もっとよく観察して世界がこうなってしまったヒントをつかまなければならない。そして完全に夜になってしまう前に日時計を使って元の世界に帰ろう。
さっき通ったアーケードに戻りその奥へと進んだ。巨大な街の残骸だった。建物の配置から自分が歩いているのは昔の道路だと分かった。ここだけは砂の量が少なく歩きやすい。両側に並ぶ廃墟を見たが屋根は一切残っていなかった。
廃墟になってからどのくらいの時間が経っているのだろう。数百年は経っていそうだ。人影がないばかりでなく、草木も生えておらずトカゲなどの小動物も見あたらない。気づくとぱったりと風がやみ静寂に包まれていた。
何度も角を曲がると道の先に筒状の煙が上がっているのが見えた。近づいてみると煙ではなく、天に向けて濛々と砂が舞い上がっているのだった。
煙の筒に近づいてアンナは脚を止めた。ドキリとした。真っ平らな道路の先に巨大な穴が空いていた。百メートル以上はありそうだ。大きな野球場やサッカー場がすっぽり入ってしまいそうな大きさだった。
立っていると吸い込まれそうで、四つん這いになるとアンナは穴の中を覗き込んだ。穴から砂を巻き上げながら強風が吹き出している。髪の毛が宙に舞い上がり砂粒が顔を打った。姿勢を低くして目に砂が入らないようにして穴の中を覗いた。
夕暮の光の中におぼろに穴の側面が浮かんできた。
アンナは驚いた。穴の中は数十メートルごとの地層になっていた。よく見るとそれぞれの層に砂に埋もれた廃墟の街がある。都市の化石のようだった。五層くらいまでは確認できたがその下は闇に埋もれていた。どこまで続いているのかわからない。そうとう深いはずだ。もしかするとずっと底まで都市の化石が連なっているのかもしれない。
なぜ地下に都市の廃墟が、しかも地層のように重なっているのだろうか。またどうしてこんな巨大な穴が空いてしまったのだろう。なにかの理由で地盤が陥没したのか。それとも隕石が衝突してこんな穴になったのだろうか。
砂混じりの風に頬をなぶられながら、アンナは蓮と過ごした二〇三四年の東京で見た地下の高速道路を思い出した。未来の都市は地下空間にも拡がっていた。だとすると穴の中に埋もれているのは未来の都市ではないのか。滅亡と復興を繰り返した都市が地層のように重なっているのかもしれない。アンナはゾッとした。
日は沈んだが空には月と星があり、あたりはほんのり明るかった。いつの時代でも空の月と星、それに太陽は変わらない。そう考えると少し気持ちが落ち着いた。もしかするとこの場所で滅びた未来の都市を見ることが、蓮君が言っていた自分のミッションなのかもしれない。
アンナは立ち上がり握っていた手を開いた。もうミッションを果たしたのかもしれないのだから、一刻も早く元の世界に戻りたかった。日時計を操作しようとすると少し離れた砂漠の中にポツンとある、廃墟の建物の間で何かがキラリと光った。自然に足が動いた。
近づいてみると自分の背丈よりも大きい宝石のモニュメントだった。大きな結晶体が月明かりでキラキラ光った。透明ではなく少し黒ずんでいて、結晶の形からいって石英のようだ。完全に左右均等ではないが自然界ではあり得ない見事な円錐形をしていた。不思議なのは廃墟はどこもかしこも砂だらけなのに、このモニュメントは艶々としていて埃一つついていなかった。
アンナは腕を伸ばしてモニュメントに触れた。指がモニュメントに触れた瞬間、モニュメント一面にサーッと細かいヒビが走った。
〝爆発する!〟
アンナは驚いて飛び退き砂の上に尻餅をついた。しかしモニュメントは爆発したりせず、空中に円錐形の形を残して一瞬で霧のように粉々に砕けた。気づくとモニュメントのあった場所に砂のようになった結晶の小山があった。
目の端で何かが動いた。
アンナは振り向いた。
壁や柱が砂となって崩れ落ち始めていた!
アーケードの廃墟の建物がことごとく砂になって崩れてゆく。
恐ろしかった。アンナは急いで立ち上がり逃げようとした。が、どこに逃げていいのかわからない。崩れ落ちる廃墟の壁や柱がもうもうと砂ぼこりを巻き上げ視界が真っ白になった。アンナは立ち尽くした。
ドン! アンナはいきなり背中を強く押された。
感触で人や動物ではなく、強い風に押されたのがわかった。ただし普通の風ではなかった。空気が物質のような塊になってアンナの背中にぶつかってきた。
振り向くと巨大な球のようなものが砂を巻き上げて猛スピードで近づいて来る。うぉぉぉぉんという獣が吠えるような音がまた響いた。
〝逃げなきゃ!〟
アンナは全速力で走り出した。しかし砂に足を取られて早く走れない。走りながら日時計を一時にセットしようとしたが、立ち止まらなければムリだ。振り返ると砂の球がすぐそこに迫っていた。アンナは球がぶつかる瞬間に脇に飛ぼうとした。
が、一瞬遅かった。
砂の球が身体にぶつかった。しかし衝撃も痛みもなかった。砂の球がアンナの身体をすり抜けて先に進んでゆくのが見えた。まるで自分の身体が消えてしまったようだった。
アンナはハッとした。見えているのだが身体がない! 円錐形のモニュメントのように、身体が一瞬で崩れ落ちて一塊の砂の山になっていた。自分の魂がその上に漂っているのをハッキリ感じた。
それだけではなかった。アンナは自分の意識が四方八方に広がり始めるのを感じた。空の月と星だけでなく、埃っぽく不快な砂までもが親しいものに感じられ始めた。
〝ああ、わたしが消える、わたしがなくなっちゃう!〟
意識が薄れ始めた瞬間、流れ星が降ってきた。明るい光が一直線に砂の山になったアンナの残骸を照らした。
音もなくふわっと砂の山が宙に舞い上がった。それがアンナの身体の形になり、砂が細胞に変わり、魂の細糸に沿って元の形に戻っていった。
肉体の感覚を取り戻したとき、アンナはその光が空中を震わせ物事に調和をもたらす旋律だと直観した。
光は音だった!
地面に横たわった姿勢でアンナは星から流れてくる無数の透明な音に包まれているような感覚を味わった。
「目覚めよ」
音の洪水の中からハッキリ一つの声が聞こえた。
アンナは目を開いた。魂だけになっても見ていたが、別の目が開いたように感じた。どちらが本当の目なのかわからなかった。ただ現実が二つあるような気がした。もしかするともっとたくさんの現実があるのかもしれない。蓮が言った「時間の枝」という言葉が甦った。
〝そうだ、日時計はどこ?〟
アンナはあわてて起き上がると日時計を探した。見回すと月明かりに照らされた廃墟が見えた。元のままだった。しかしそんなことにかまっていられない。アンナは目を凝らした。少し離れた場所で砂に埋もれた日時計がキラリと光った。アンナは日時計に飛びついた。
〝あった!〟
日時計を握りしめた瞬間、アンナはまたフッと意識を失った。
「そろそろ来るかな」
作業台の上にかがみ込み、片目に時計見ルーペをはめたおじいさんが呟いた。両手を動かして古い時計を直していた。
アンナは遠くからおじいさんの姿を見た。呟きを聞いた。どんどんおじいさんの姿が近づいて来た。ドン、と大きな音が響いて身体が床に打ちつけられた。
「おお時間どおりじゃ」
おじいさんが顔をあげ、ゆっくり時計見ルーペを外しながら微笑んだ。
首や肘や膝が痛かった。しかし痛みを感じ、人の声が聞こえる世界に戻ってきたのが嬉しかった。アンナは身体を起こすと部屋の中を見回した。
部屋の中は暖かかった。茶色の漆の天井にロウソクの灯りに照らし出された部屋、壁一面の本棚。そして今は暗いステンドガラスの窓。見覚えのある部屋だった。
「おーい、ばあさん、お客さんじゃぞ」
おじいさんが家の奥に向かって叫んだ。
「あらアンナちゃん、いらっしゃい」
部屋に現れたおばあさんはのんびりした口調で「まあまあなんで床に座ってるの」と言うと、アンナを助け起こしてソファに座らせた。
「あの、お水をいただけますか」
喉がカラカラだった。おばあさんがすぐにピッチャーからコップに水を注いでくれた。アンナはコップを受け取るとごくごくと飲んだ。口の中は砂だらけだと思っていたが何も感じなかった。
「アンナちゃん、なんだか様子が変ね」
コップに二杯目の水を注ぎながら、おばあさんが心配顔でおじいさんに聞いた。
「滅びの街から帰ってきたばかりじゃからな」
「えっ、まさか!」
「本当さ。蓮がアンナさんが滅びの街に行くだろうって言っておったからの」
「蓮ちゃんが・・・・。なんでそんな大事なこと、わたしに言ってくれなかったの!」
「アンナさんが滅びの街に行かない可能性もあったし、行っても戻ってこられない可能性だってあったからじゃよ」
「戻ってこれないなんて、そんな!」
「あの、もう一杯お水をいただけますか」
「ああごめんなさい。あらアンナちゃん、汗まみれね」
おばあさんは立ち上がると急いでキッチンで濡れタオルを作り、アンナに差し出した。一気に飲み干したコップをテーブルに置くとアンナは冷たいタオルを顔や首に当てた。砂まみれなのではないかと思ったがやはり砂はついていなかった。
「少し落ち着いたかな」
「はい」
おじいさんは笑顔だった。その柔和な笑顔がアンナを一番落ち着かせた。
「わたし、滅びの街にいたんですか? 街が崩れて砂になっちゃったんですが、どうしてですか? 砂の球がぶつかってきた、ううん、襲われたんですが、なぜあんなことが起こったんですか?」
息せき切ってたずねた。おじいさんはあの不思議な街のことを知っているらしかった。
「未来には、アンナさんの時代の人には考えられないような技術があるんじゃよ」
「技術? あの世界はもしかして、人工的に作られたものなんですか?」
「人工的なものの副産物のようなものじゃ。それよりもっと大事なことがある。どうしてアンナさんがあの世界に行ったのか、あの世界を体験しなくてはならかったのか。知りたいじゃろ」
おじいさんは立ち上がると「ついておいで」と言って歩き出した。
アンナはおばあさんに腕を取られて立ち上がった。
部屋の隅に小さなドアがあった。おじいさんに続いてアンナとおばあさんも中に入った。一人しか歩けない廊下、というよりトンネルのようなアーチ型の通路だった。少し先をゆくおじいさんのシルエットが青い光の中に浮かんだ。奥から光が射しこんでいた。歩くたびに光が強くなった。フッと視界が開けて広い部屋に出た。
直径十メートルはある広々とした天井の高いドーム型の部屋だった。天井は鉄骨組のガラス張りで目が覚めるような青空が拡がっていた。おじいさんの部屋の天井はそれほど高くなく、しかも夜だったのに不思議だった。しかしアンナはもうそのくらいでは驚かなくなっていた。
部屋の真ん中に床から天井までを貫く柱のようなガラス筒があった。ちょうどアンナの目の高さくらいに光るものが浮かんでいた。アンナは近づいてそれを見た。
ガラス筒の中に小さな木の形をしたものが浮いていた。鉢植えの木を引き抜いて根の土を落とすとこんなふうになるだろう。ただ普通の木ではなかった。幹や葉や根が青白い光を放って揺れていた。
「時間の木じゃよ」
おじいさんがアンナの背中に声をかけた。
「もっと正確に言うと、アンナさんの時間の木じゃ。見る人によって形と色が変わるんじゃ。親子や人生を共にする人は、ほとんど同じ木が見えるはずじゃがな」
「蓮君が話した時間の木って、これのことなんですか?」
アンナは並んで立っているおじいさんとおばあさんにたずねた。
「そうよ」
「時間は目に見えないが、ここでは木のヴィジョンとして見ることができるんじゃ」
アンナは蓮のスマートウォッチの上に浮かんでいた人形を思い出した。「ホログラムのようなものですか?」
「あれより繊細で複雑なものじゃがな」
おじいさんはガラス筒に近づくと木を指さした。
「上の枝は未来じゃ。これから起こることだから、実現したものだけが幹となり枝になる。未来は複数あるから、一瞬一瞬の自分の選択や行動によって一つだけ実現する。下の方の幹と根っこは過去じゃよ」
アンナは改めて木を見つめた。下の方の幹と根っこは落ち着いたブルーだった。上の幹と枝は眩しすぎるくらい光っていた。しかし光の強さは一定ではなかった。点滅し波打って光るのでゆらゆら動いているようだった。
幹が枝分かれしているところに心臓のように脈打つ玉があった。よく見るとそこから伸びる枝が色褪せた紫色になっている。
「この玉は?」
「それは〝今〟という瞬間じゃ。無数にある可能な未来の中から、どれを実現するかを定める〝今〟じゃよ」
「どうしてこの枝だけ紫に見えるんですか?」
おじいさんはそれには答えなかった。枝を見ながら「この紫色の枝の先端は、さっきアンナさんが訪れた世界じゃよ」と言った。
「えっ!」
アンナは驚いた。もしかして自分の未来は死と滅びの世界なのだろうか。恐ろしくなった。
「自分の使命に沿った選択をしなさい。その選択によって、目の前に広がる無限の未来のどれが実現するかが決まるのじゃ」
「使命なんて、わかりません…」
「滅びの街へ行く前に、何をしておったのじゃ」
すぐに大学院への応募書類が思い浮かんだ。まさかあれが自分の未来を決めるのだろうか。大事な分かれ道なのだろうか。
「アンナちゃんはなにをしたいの?」
おばあさんが静かにたずねた。
「研究の道に進むかどうか迷っていて・・・。でも自分の好きなことばかりしていたら、周りの人を不幸にしてしまうんじゃないかと思って・・・」
「どの道を選んでも、苦しいことや大変なことは付きものじゃよ」
「未来は自分で作れます。蓮ちゃんのことを思い出して」
蓮の名前を聞いてアンナはハッとした。涙が溢れそうになった。
「すっかり忘れてたでしょ」
いたずらっぽく笑っておばあさんが何かをアンナの手に握らせた。開くと日時計だった。「あっ」と小さくアンナは叫んだ。
「ここに来た時、床に落としたのよ。でも戻ってきたわね。さあ、元の世界にお帰りなさい」
おじいさんを見ると黙って深くうなずいた。
アンナは手の中の日時計を見た。もっと話したいことがあるのに右手が勝手に動いて正確に一時に合わせた。ふわっとおじいさんとおばあさんの姿が揺らいだ。
「またお会いできますよね!」
アンナは叫んだ。しかし返事は返ってこなかった。微笑んでいる二人の姿がフッと消えた。
山根教授は書類から目を上げると「面白い経歴ですね」とアンナに言った。
新設の研究科なのでゼミを担当する教授がずらりと並ぶ面接だと思っていたが、面接会場の机の前に座っていたのは山根教授一人だった。
「専門は心理学ですが、基礎的な数学と物理学の知識はあります。研究していく上で足りないなら学び直します」
山根教授は書類に目を落とすと「研究テーマは時間の木ですか」とたずねた。
「一つのヴィジョンです」
アンナはハッキリ答えた。白髪交じりの髪を揺らして教授が顔を上げ、黒縁の眼鏡越しにアンナを見つめた。
「ヴィジョンとは?」
「はい、時間には形がありませんが、心理学的にも物理学的にも樹木のヴィジョンで捉えるのが適切だと考えます」
「いいアイディアですね」
山根教授がかすかに微笑んだ。
アンナは自分のヴィジョンに自信があった。時間の木の先にはおじいさんとおばあさんが、そしてなにより蓮君がいるはずだった。
また書類に目を落として「では」と山根教授が口を開いた。
アンナは背筋を伸ばして教授の質問を待った。
面接の合否がどうなろうとかまわなかった。
自分のために最初の一歩を踏み出すのだと思った。
(後編 了)
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