私は「ニラスミレ」のハンドルネームで、文学愛好者が集うXのスペース「文学の叢」で小説を公開している。小説家になるのが夢で小説新人賞にも応募しているが、「文学の叢」の仲間だけがわたしの小説を話題にして批評してくれる。金魚屋新人賞受賞作家によるサイバー空間で紡がれてゆく小説内小説の意欲作!
by 金魚屋編集部
「確かにこれで四週目ですねぇ」
F・牛森さんが心配そうな口調で言った。結局一月も私の小説は終わらず、二月に突入していた。さすがにもうそろそろ仕上げないと、紫式部ごっこの方ではなく、本当の賞の締め切りに間に合わなくなる。
正月明けから朝比奈興業の仕事の方は順調で、年末のミーティング以降はほぼ岡林さんに担当を任せた。グッズの試作品なども上がってきて、朝比奈興業の方も春からのキャンペーンに意欲十分のように見えた。それで時間ができたので、小説に時間をかけるようになっていた頃だった。突然拓郎さんがスペースに来なくなったのだ。私は最後に開いたスペースで、何か拓郎さんの気に障ることを言ったりしたりしただろうか、などと気弱になっていた。他の三人も、単に忙しいだけじゃないかと言っていたのだけれど、真相は分からない。だって私たちは実際に顔を合わせたことがない、文学の叢と呼ばれるスペースだけでの知り合いなのだから。F・牛森さんとふぇるまーさんはDMを送ってみたりしたらしいのだけれど、返事がない、とのこと。ところがこの日、ふぇるまーさんが変なことを言い出した。
「ちょっと気になるネットニュース見つけたんですよ。昨日かなぁ、確かテレビでもやってたと思うんですけど」
ふぇるまーさんがリンクを送ってくれた。それは東京都内在住の男性が轢き逃げに遭って死亡した、という記事だった。
「おおよし、って読むのかなぁ、大吉拓郎さん三十五歳、えーと職業は自営業、が十五日午後十一時ごろ、路上で仰向けになって血を流しているところを発見され、都内の病院に搬送されたが死亡が確認された、警察は轢き逃げと断定して目撃者などを探している、ですって」
「え、それって……」
私は言ってすぐに言葉を切った。大吉拓郎さんって、もしかして拓郎さんのこと? 死んじゃってるからスペースに来なくなったとか? 年齢も確かぴったりだ。
「お二人は拓郎さんに直接会ったことはないんですか?」
「実はないんですよ。ニラスミレさんに比べれば、僕たち近くに住んでるんですけど、実際会ったことはなくて」
「僕もないです。三人で会おう、ってなったこともないですやんね?」
「ないですね。なんか、そのー、ニラスミレさんをハブってるみたいじゃないですかぁ」
「そんなこと思わないですけど」
SNSで「リアルで会えました。感激!」という投稿を目にするが、どうやら音声アプリだけでしか話していなかった人同士が実際に会えたことで仲が深まるというのはあるようだ。昔でいう、文通していた者同士が初めて会うみたいな感動があるのかな、と。もしここの三人と会うことがあったらどうなってしまうのか、ふと考えてしまった。いや、待て待て。そうなったら、私が十五歳も歳を誤魔化していたことがバレるじゃないか。
しかし拓郎さんのことは心配になった。年齢や住んでいる場所や職業までドンピシャで拓郎さんを指している。そうか、亡くなったのか。そう思うと、音声アプリでの出会いって儚いものだなと心が痛んだ。所詮声だけ知っている知り合い。本名すら知らず、参加者の生活の実態なんて分かる訳もない。もう拓郎さんの声は思い出せなくなっていた。思い出せるのは風邪気味の掠れた声だけだった。
「あ、でも今思い出したことがあります」
私の思考をF・牛森さんの甲高い声が中断した。
「言ってなかったでしたっけ、拓郎さん。本名は拓郎じゃないって」
「あ、確かに! じゃこれ、拓郎さんやないわー。わーよかったー」
ふぇるまーさんのディープで安心した声が響いた。
「じゃ、拓郎さん生きてるんですね? この轢き逃げで死んだ人じゃないんですね?」
私は泣いていた。自分の憩いの場である文学の叢が、もう少しで血で汚されるところだった。人は死ぬ。でも、私の作品を生み出す糧になっていると言っていいこの場所で死ぬな、と心で叫んだ。絶対ここで死ぬな、だから、生きててよかった、と思った。
「来週は来てくれるといいですねー」
F・牛森さんの声は真に願っているようで、ある意味私とF・牛森さんとの文学の叢に対する温度差がないことを改めて確信した。
「一度みなさんで会いたいですね」ふぇるまーさんだった。「でも、ニラスミレさんが無理かぁ」
「いえ、東京行きます! もともと住んでいた場所ですし、今の大きめの仕事が終わったら時間できますし、仕事はリモートでもできますし、行きます! 皆さんに会いに行きます」
一気にまくしたてていた。まるで愛の告白だな、っと言った後で後悔した。バカ丸出し、おばはんだというのが一気にバレそうな地味な熱量。
「じゃ、拓郎さんが戻ってきたら計画しましょう。僕、もう一度DMしてみますので。ニラスミレさんの作品提出が終わった頃とか、どうでしょうか? 僕は高校が春休みになるから時間できるし」
「僕も春休みやけど、実家に帰らんと、ここいます」
F・牛森さんの丸顔とπマークのアイコンが、普段より大きく光っているように見えた。よし、この三人のために小説書き終わるぞ! と、パジャマの裾で涙を拭った。
翌日から航太の母親が一緒に住み始めた。航太の兄もやって来て、母親用の簡易ベッドや身の回りに必要な物を運ぶ手伝いをしているようだった。わたしはキッチンで少し用事があったので、それを済ませると自分のベッドルームに篭ることにした。手伝う気は毛頭ないし、向こうも、特に航太はわたしには手伝って欲しくないだろう。ベッドルームに戻る前に、航太が視野に入った。頬はこけ、目が異様に大きく見えた。人間の頭蓋骨の形が皮膚を通して見えるようだった。手足は小枝のように細いのにお腹だけがぽっこり出ていた。背中を曲げて母親に抱き抱えられて歩く姿は、何かの本で見た餓鬼のようだった。小学生の時から大嫌いだった航太の面影はどこにもなかった。
夜の八時ごろになって小腹が空いたので、カップラーメンでも食べようとキッチンへ行った。出来上がったカップラーメンを持って、四角い海が見える窓へ行った。暗闇に佇むビルの間で、海は昼間よりもっと小さく見えた。昼間に見せる煌めきは、今はコールタールのようにひっそりとして、その小さな四角に闇と静寂が吸い込まれていくように見えた。あんなに小さくしか見えないのに、わたしには大きな存在だった。
ソファに座ってカップラーメンを食べ終え、ベッドルームに戻ろうとした時だった。航太のベッドルームの方から人の話し声とそれに重なってすすり泣く声が聞こえて来た。話し声は低音だったので、航太の兄がまだいるのだろうと推測した。父が亡くなった時、悲しみはすぐに奇妙な遺言書の内容によってかき消されてしまった。だからその時の自分の気持ちを思い出そうにも、うまくいかず、もどかしさで胸が押さえつけられた。あのベッドルームにも空気が削られるような雰囲気があるのだろうか? 航太だけでなく、航太の母親や兄も黒い淵が見えているのだろうか?
翌朝早く、出張の看護師がやって来たようだ。リビングルームを挟んで片側の空間が慌ただしい。航太もわたしもお互いから身を潜めて生活してきたものだから、常に静の空気が流れていた空間が、一気に騒がしくなることに違和感を拭えなかった。その違和感がわたしに非常事態のスイッチを押させたようで、航太のベッドルームから出てきた看護師にわたしは声をかけた。わたしが外出してしまい航太だけがマンションに残る形になると、あいつ以外ドアを開けられる者はいなくなる。一度虹彩認証を設定してしまうと、スペアキーを作るのが容易ではないからだ。それにあの様子では一人で玄関までは出て来られないだろう。だから気を遣ってその点だけは航太側の誰かに伝えなければいけないと普通に常識人になっていた。看護師は最初、航太に同居人がいることを知らなかったようで、虹彩認識と暗証番号が二種類あることにも理解を示さなかった。そのうち夫婦だと分かると、さらに怪訝な顔をし始めた。
「それでは、私かお母様のどちらかが必ず部屋にいるようにいたします」
不思議そうな歪んだ笑顔と声に見送られて、わたしは家を出た。別に家の中の様子が気になったわけではなかったが、平日はなるべく早く帰って来るように心がけた。来る日も来る日も、わたしは終わりのないカレンダーと共に生きているようで、結婚したての頃の毎日の過ごし方を思い出していた。
それから数日経ったある日、珍しく仕事が捗り定時で帰られそうだった。最後の仕上げを済ませて帰り支度をしていると、沙良からショートメールが来た。久しぶりに食事に行かないか、というものだった。課長席の背後にある窓から外を見た。夕闇に沈み始めたビルの群れが何かに悩みながら静かに立ち尽くしているように見えた。わずかに見える木々は、冬の真っ只中に取り残された妖精たちのようで不気味だ。沙良への返事にしばらく悩んだが、ちょっと用事があるので今日は帰る、と返した。その返事に、じゃ、またすぐにね、と書いてあった。多分、すぐだと思った。
マンションに戻ると、何やらリビングが騒がしかった。私の友達や会社の人と集まった時は別として、このマンションでは絶対に聞くことのない人の笑い声だった。リビングに入ると、私は小さく会釈をしてからキッチンを通ってベッドルームへ向かおうとした。
「おかえりなさい」
航太の母親がわたしの背中に投げかけた。結婚してから、つまりこのマンションに住むようになってから、一度も聞いたことのない言葉だった。おかえりなさい、ただいま、という会話はこの空間には存在しない。わたしはまるで日本語がわからない外国人のように、その後の言葉に詰まった。または、日本語を習いたての外国人のように、次の言葉の選択肢を頭の中で巡らせた。
「あ、どうも……」
それしか出てこなかった。わたしがベッドルームに向かおうとすると、自分ちに帰ってきたんだから、ただいまでしょ? と子供を叱るような、航太の母親の声が聞こえてきた。振り返ると、彼女は目を細めて微笑んでいた。その横で航太の兄が頷いていた。この間まで老婆のように見えていた彼女が、今日はシワがすっかり延び顔色が明るかった。それが、リビングのライトが当たっているせいだと分かっていても、彼女の表情には艶があった。そして、どこかで見たことがある微笑みだった。どこで見たんだろう、と考えている間に、航太の母親が、
「今ね、航太がどのくらい遥香さんのことを嫌っているか、聞いてたところなの。昔のいろいろな話聞いていたら、懐かしくなっちゃってねぇ。遥香さんも、ここ来る?」
わたしが断ると、そうよね、と言ってまた笑った。航太は薄汚れたソファに寝転んだまま弱く笑っていた。それは嬉しさに対する微笑みでもなく、絶望に対する苦笑いでもなく、わたしをバカにした嘲笑でもなかった。おそらく、この感情を自分の表情筋を使ってどう表現すればいいのか分からなかったのだろう。そのぐらい航太は死に近づいているはずなのに、母親はつい先日の様子とは随分違っていた。
なるべく大きな音が出ないように部屋に入った。ベッドに雪崩れるように倒れ込んだ時、思い出した。あの微笑みは、いつも祖母が母に見せていた笑顔だった。
「お陰様でどれも好評です!」
リモートでもいいです、いえむしろリモートでお願いしますと言ってあったのに、どうしても直にご挨拶したいという朝比奈社長が、私と岡林さんの前で、これ以上ないというほどの満面の笑みで座っていた。
「特にねぇ、ラマのスマホグリップが好評ですよ! やっぱり無理して、ラマの形に切ってもらったやつでよかったですよ。ほんと、ほんと。これね」
と朝比奈社長は自分のスマホのグリップを誇らしげに見せる。
結局フィットWのキャンペーングッズはTシャツ、ハンドタオル、マグカップ、タンブラー、エコバッグ、そしてスマホグリップと、当初企画したものの全てがグッズ化された。スマホグリップを「丸にプリント」にしようと考えたのはどうやら大きなお世話だったようで、朝比奈興業は「女性のフィットネスに賭ける」と、岡林さんに言わせると訳のわからない社運の賭け方だった。しかし私たちデザイン会社が懸念することは全くなく、このキャンペーンでメンバーも大幅に増加したらしい。実は先日スーパーで買い物をしていると、ラマがデザインされたエコバッグを持っている女性を見かけた。最初、羊がデザインされたものなのかと思っていたら、取手部分のカーブとロゴが見覚えのあるデザイン、そして描かれていた動物がラマであると分かり、私は一人照れていた。思わずその女性が並んだレジに並び、エコバッグがどんな風に使われるのか、最後まで見届けた。私がレジにいる間、サッカー台で食品がどんどんと詰め込まれ、ラマのお腹が丸々と膨れていくまで眺めていた。自然と朝比奈興業の成功を確信した。
「私はまさにスマホグリップを使っている人をスタバで見ましたよ。もう、思わず声をかけそうになって。『それ、私たちがデザインしましたー!』ってね。ほんと、ああいうの街中で見ると、素直にうれしいもんですよね」
と、岡林さんも明らかに仕事への充実感を表した。本来ならそろそろ岡林さん一人に仕事を任せてもいいのだけれど、如何せん、私が悪い。私がこの歳になっても絵を描いていたいことが、まるで岡林さんに仕事を回さないようになっていて心苦しい。晴れてプロの小説家になって「執筆が忙しくなったので、退職して、フリーランス契約にさせてください」と社長に申し出てみたいものだ。
フィットWの大川代表が、今後も何かあればまたお願いします、と今回のキャンペーングッズを二つずつ置いて行ってくれた。岡林さんは素直に自分の分を抱えて、自席へ戻った。私もありがたく自分の分を頂戴した。私と岡林さんの年齢差が縮まった瞬間のように思えた。
今晩のホスト役は私だったので、スペースの予約設定をして、タイトルも決めて、いきなりBGMが鳴らない設定もしておいた。私がスペース開けたと同時にF・牛森さんが入って来た。
「こんばんはー」
「あ、こんばんはぁ。もうそろそろそちら、暖かくなってきたんじゃないですか?」
「それがまだむっちゃ寒いです! ま、北海道ほどじゃないと思いますけど、ニラスミレさんところ、まだ雪積もってるんですか?」
「ええ、積もってますよ。でも、昔は毎日出勤してましたけど、今はリモート増えたから助かってますけど。特に雪の日は外、出たくないですからねー、いひひ」
「ですよねー。東京は雪が降ったら完全に麻痺しちゃいますから、大変ですよ」
そこへふぇるまーさん、登場。
「こんばんはぁ、寒いですねー」
「寒いですねー、お元気でした?」
「学校始まったんですが、寒くて家に篭ったままです。研究室にも最近行ってないです」
「あら」
開始しばらくはいつもこんな感じで季節の挨拶と近況報告、雑談が繰り広げられる。一時間喋って、結局何一つ文学について語っていなかったことに気づく時もある。でもこれがいい。二十近く歳の離れた若人たちと、何気ない日常をだらだら、時には本について真面目に話す、これがいいのだ。
雪や寒いやの話が終わると、単なる雑談になった。面白いことに、私の小説には誰も触れようとはしない。特に私は触れたくなかった、触れてほしくなかった。だって、まだ書き上がっていないのだから。
その時だった。一つのアイコンが現れた。拓郎さんだった。
「こんばんはぁ、ご無沙汰してましたぁ」
ああ、あの覚えられない声質が戻って来た。拓郎さんだ。生きてたんだ。拓郎さんの挨拶の後、ほんの一瞬時が止まったように感じた。先日の拓郎さん死亡疑惑が浮上したものだから、私はやっぱりあの記事は本人じゃなかったんだ、生きてたんだと思うと同時に、そのガセネタを鵜呑みにしたことに申し訳なく思った。他の二人もほぼ同じ気持ちだろう。
「実はスマホを道路で落とした瞬間に車に轢かれるっていう、ドラマみたいな事件がありまして、スペースに参加できなかったんです。すぐに買いに行こうと思ったら、親戚に不幸があったり、ライブハウスのオーナーがコロナになったり、で、オレも濃厚接触者って思ってたら結局オレも罹って、さぁ、スマホ買いに行くぞって思ったら、財布落として、ほんと、新年早々災難続きでしたよ」
轢かれたのはスマホだけだったんだ。それにあの記事はやっぱり拓郎さんのことではなかった。
やっと新しいスマホを手に入れたのが先日のことで、アプリなんかを全部入れ直して、SNSを見ていたらDMの山で、その返事も大変だったと。F・牛森さんからのDMも受け取っていたけれど、文学の叢に参加して、直接みんなに話そうと思ったらしい。スマホが車に轢かれたことは災難だったけれど、そこでやっと私たちは、拓郎さんを心配していた理由を話した。
「マジか、それ! いや、オレじゃないっすね。それにオレ、本名拓郎じゃないから」
みんなそれに気づいて、じゃ、拓郎さん生きてるね、って話してたんです、と言うと拓郎さんは今まで聞いたことのない声で高らかに笑った。完全に拓郎さんの声を覚えた。
今回のように拓郎さんはちゃんと生きていて私たちのスペースに戻って来たけれども、直接の友達でもなく、顔を合わせたことがない人が突然スペースや他の音声アプリのハウスからいなくなったところで、気にしなくなるのが普通だろう。連絡手段はDMだけだろうし(その気になれば通話も可能だろうけど)、なぜ来なくなったのかという追跡は不可能だし、誰もやらない、誰も気にしない。そのうち今回のような紛らわしいニュースを目にすると、勝手にその本人じゃないかと関連づけてしまうのも、この閉ざされた空間だけの創造力を使ってしまうからだ。顔を知らない人だけに、名前だけ合致すれば即本人と結論づけてしまう浅はかさ。私自身、随分反省した。この中で一番の歳上なのに、なんとも軽率な判断だった。その時に誰かが「拓郎さんの本名は拓郎さんじゃない」と言わなかったら、ずっと信じていただろう。ほんと、私のスペースで死人が出なくてよかった。
「……それで、今度みんなで一度リアルに会おうってことになったんですよ」
F・牛森さんの声はいつもよりはしゃいでいるように聞こえた。あの時は会ったこともない拓郎さんが生きていますようにという願いも込めて、戻って来たらみんなで会おうという波に乗ってしまっていたけれども、現実に戻ると私は冷静になった。自分がアラフィフ女だということがバレる。実際言葉にして私の年齢が話題に上がったことはなかったけれど、話の流れで皆さんと同じ年齢層ということになっているのは確か。こんな歳になって小説の新人賞に応募しようともがいているのも痛い。とうとう自分を曝け出す時が来たようだ。
私の小説が話題に挙がらないまま、春になったらいつどこでどうやって会うか、という話になった。
「でもまぁまだ時間もあるし、またそのうち話し合いましょう」
ということで、ホストだった私はスペースを閉めた。話題に上らなければ、逆に皆が意識して話さなかったような気がして、私はそのままパソコンに向かい、小説の続きを書いた。
航太の母親が住むようになってから、二週間ほどが過ぎた。街がクリスマスの電飾で彩られ始めていた。あいつの姿は見ないが、母親や看護師の様子から、どうやら今朝はまだ生きているようだ。
ある金曜日の夜だった。自分で料理するのも面倒だったし、帰りにマンション近くのイタリアンレストランでラザニアをピックアップした。玄関に入ると真っ暗だった。廊下からキッチンまで壁のスイッチを点けながら歩いた。あまりにもひっそりしていたので、とうとう航太が死んだんだと思った。ところがキッチンのライトを点けた瞬間、リビングに航太の母親がいることに気づき、心臓を素手で掴まれたぐらい驚いた。彼女は四角い海が見える窓際に立っていた。
「いらっしゃらないのかと思いました」
わたしはラザニアの包みをキッチンのカウンターに置いた。
「おかえりなさい」
母親は振り向かなかった。すっかり暗くなった海を見つめていた。わたしは小さく、ただいま、と言って、その声を掻き消すつもりで冷蔵庫のドアを慌ただしく開けた。
「航太がね」
わたしは冷蔵庫から缶ビールを出して、聞いていないふりをした。でも 実際は彼女が次に何を言うのか待っていた。
「航太がね、ここから海が見えるって教えてくれたものだから、さっきから見てたんです」
「部屋のライトも点けずにですか?」
「その方がよく見えるんじゃないかと思って」
「すみません」
私はリビングのライトを点けたことを謝ったのだが、そのすぐ後、別に謝る必要がないことに気づいた。私は彼女にビールを飲むか、と尋ねた。彼女がやっと振り返った。
「私はいいわ。でも、航太のグラスに少しだけ注いでやって」
母親は窓から離れ、航太のソファに座った。わたしは判断に困った。だって、ビールをあいつと分ける行為は不本意過ぎた。第一、胃癌患者がビールを飲んでもいいものなのだろうか? 早く死んでもらいたいが、わたしの行為が直接的な原因となって死なれるのは、後々気分のいいものではない。
「ほんの少しでいいから」
母親が再び、今度は懇願するようにわたしを見た。わたしは仕方なく、触りたくもない航太の食器棚から小さめのグラスを取り出し、それにビールを注いだ。グラスを渡すと、喜ぶわ、と言って、母親はあいつのベッドルームに消えた。わたしはカウンターに残ったビールの缶をしばらく眺めていたが、自分のグラスを取り出し残りを注いだ。ビールを片手に窓際へ行き、ライトを消してみた。四角い海は、先日の夜見たのと同じようにコールタールのように黒く沈んでいた。部屋のライトを消してしまった方が、確かに海の暗い存在がよく見える。航太もこの海に気付いていたんだと思うと、気持ち悪さよりも、奇妙な気持ちに包まれた。マンションなどの物理的な物ではなく、心というか、そんな物の中にあいつと共有するものは決して存在しないと思っていたからだ。わたしはグラスを持ち上げ、ビールの黄金色と四角い海を重ねてみた。見たこともない不思議な色になった。わたしは、グラスのビールを一気に飲み干した。
翌朝目が覚めると、リビングの方が騒がしかった。時計を見ると七時を過ぎたところだった。いつもなら土曜日の朝は、もう少しゆっくり起きるのだが、わたしはカーディガンを羽織りベッドルームを出た。リビングの向こうに見える航太のベッドルームのドアは開け放されており、看護師や航太の母親の声が聞こえた。白衣の別の人影も見えたので、医師も来ているのかもしれない。ベッドルームの外には中を伺う航太の兄がいた。わたしはキッチンで湯沸かしポットのスイッチを入れた。そしてポットの前から動かないようにした。静かだったポットの中の水はだんだんと暴れ出し、音を変え、そのうち沸騰に近づく音を出した。わたしはそこから一歩も動きたくなかった。このぐつぐつ言う音が永遠に続けばいいと思った。沸騰の管理人になった。私は目を閉じ、音に集中した。もっと続いて欲しかったのに、そのうち沸騰を知らせるカチッという音がした。
「航太ぁぁー!」
あいつのベッドルームから、母親の叫ぶ声がした。同時に兄の野太い声もした。看護師が何か器具を扱う音がして、やがて医師が時刻を告げる声がした。医師の声の最後は母親の泣き叫ぶ声でかき消され、私の耳の奥に頭痛の始まりのように響いた。
とうとうあいつが死んだ。
わたしがキッチンにいることに気づいた航太の兄が、ドアを閉めた。閉められたドアの向こうからでも、母親の泣き声はずっと聞こえた。わたしは沸騰したお湯をそのままにして、四角い海を見にリビングへ移動した。冬の朝陽を受けた四角い海は今日もダイアモンドのように輝いていた。明日から自由に息ができると思うと、開放的な気持ちになった。しばらくの間いろいろな手続きで大変だろうが、それが終われば私は自由になれる。朝目覚める度に死んでくれたらいいのに、と思っていたあいつが、本当に死んでくれた。もう夜中に目が覚めて、暗い淵に怯えなくて済む。これからは、わたしだけの空間で生きていくことができる。
少し寒気がしたので、お湯を沸かし直して久しぶりに紅茶を飲もうと思った時だった。航太のベッドルームから母親が出てきた。目は既に真っ赤になり、束ねられた髪も乱れていた。目の下にはクマができて真っ黒だ。
「航太、さっき息を引き取りました」
わたしは無言でキッチンへ向かった。遺体はすぐに移動させ、荷物も葬儀が終わったら片付けに来る、死後離婚に必要な死亡証明書は今医師が書いているのでそれを持って役所に行って欲しい、と母親はわたしの背中に話しかけていた。わたしは、わかりました、と抑揚のない返事をした。彼女がわたしの背後にしばらくいたような気がしたけれど、そのうちベッドルームの方で兄と話す声がしたので、わたしから離れてくれたことが分かった。
航太の遺体は白い布が被せられ、ストレッチャーごと玄関を出て行った。わたしはリビングに出てその一部始終を見ていた。見定めるというよりも、見学だった。後ろからついて行った母親と兄は、玄関を出る時に私に深々と礼をした。わたしも、さすがにこの時だけは二人にお辞儀をした。
ドアが閉まる音とともに、色々と入り混じった臭いも消えてくれると思ったが、そう簡単なことではなかった。わたしはスプレー式の消臭剤を持ち出し、リビングに撒いた。航太のベッドルームは母親が戻って来るまでそのままにしておくことにした。あえて、今入る必要はない。リビングがやっと爽やかな香りになった。
「読みましたー、アップありがとうございます」
スペースが開くと口々に私の小説の話になった。今日はどうやら避けられないようだ。でもお陰で三月の締切りには間に合いそうだ。小説の出来の良し悪しは別としてだけれど。
「まだこれ終わってないんですよね?」
「ええ、本当の最後はこれからで、皆さんに読んでいただいたのは、ほんと、ラストの直前です。相手が死んじゃってから主人公どうなるのかなーってところですね」
「なんかこの、すとーんと落として欲しい」
「オレは逆になんか座り心地悪い感じで終わってもらいたいなぁ」
「僕もかなぁ、何や訳分からん話でしたから、最後も分からん、首無し稲荷の祟りみたいな」
「結婚した理由は首無し稲荷なんですよね?」
「はい、そうです」
私はどんな質問が飛んできても即対処できるように、パソコンを立ち上げた。
「これ、おばあちゃんからの説明ありましたっけ?」
「ええ、書きましたよ。先祖からの言い伝えで、あのタルト食べた後、おばあちゃんの告白が続きます」
私は当該箇所を探そうとした。小村瀬家に代々伝わる風習で、女子は自分が嫌いな男性に嫁がなくてはいけなくて、この風習があることは先代が亡くなるまで伏せられている、というもの。唯一避ける方法は、その先代が亡くなる前に自分の好きな人と結婚すればいいのだが、不運にも娘が晩婚だったり先代が早死にだったりすると避けることは難しい。遥香の祖母はある事情で婿養子をとった。そのためにどうしても跡継ぎが必要で嫌々子作りをした、という件を書いたはずだ。驚いたことに首無し稲荷にまつわる告白部分が見つからない。この部分を書いた時に、私がやったように体外受精ができれば、おばあちゃんも嫌な男と身体を重ねる必要はなかったのだ。自分で創作しておきながら、ひどい話だ、と思った記憶がある。だから、ちゃんと書いたはず。
「Googleにはシェアされてないみたいですけどねぇ」
F・牛森さんの控えめな声だ。シェアできている訳がない。私のパソコンにも残っていないんだから。
「うわー、どうしよう。またやっちゃいましたね。二回目? ほんとすみません。じゃ、急いでその部分書き足して、最後もちゃんと、そのー、訳が分からん感じで終わらせます。座り心地が悪い感じ? ですね、へへへ」
「で、改めてタイトルについてなんですが、これってマンションの窓から見える四角い海のことですよね?」
実際こんな景色があるのかどうか分からない。でも、ビルの隙間と隙間の組み合わせで、遠くの海が偶然四角く見えることがあるんじゃないかと思った。先祖からの言い伝えとはいえ、自由な結婚ができなかった主人公の自由の束縛を表したつもりだったのだけれど、皆はどう思っただろう?
「いいタイトルじゃないかと思います。他に何か浮かびますか、皆さん」
「そのままずばり『首無し稲荷』じゃない? ひひひ」
拓郎さん、もうしばらく死んでいて欲しかったです。
「なんかそれじゃサスペンスじゃないですか。何がいいかなぁ……ところでニラスミレさんは、小説のタイトルってどうやって付けるんですか」
こういうところでちゃんと軌道修正してくれるF・牛森さん、さすが学校の先生だ。
「んー、色々ですねぇ。昔は書き終わってからしかタイトル付けられなくて。新聞の連載とかする作家さんって偉いなーって思ってました。最初にタイトル決めないと、連載始まらないじゃないですか? 最近はまずタイトル浮かんでそれに沿って書いていくか、タイトルと大体の内容が浮かんで書いていくか、書きたいものが先に出てきて書いてる途中でタイトル決めたり、色々ですね」
「へー、そうなんですね。面白いなぁ」
その後は自分が知ってる作家のタイトルの決め方やペンネームや文体や、真面目に文学について話し合った。それで終わりなのかと思っていたら、ふぇるまーさんが急に、
「ところでオフ会っていうかリアル飲み会、どうします? 拓郎さん、せっかく生きてたし」
と例の春になったら東京でリアル飲み会、を話題に出した。
「あ、いっすね。ニラスミレさん、雪と氷が溶けたら、ぜひ東京へお越しください」
「ほんま、ほんま」
「ライブハウスの隣にいい店あるよ」
「皆さん、何料理がいいですか?」
リアル飲み会がどんどん現実になりつつある。
「その前に、私、皆さんに打ち明けなければいけないことがあります」
私はパソコンから離れ、ワイングラスも脇へやり、ソファに正座した。
「実はプロの将棋指しですとか、ですか? ひひ」
「F・牛森さんって、いっつもそないにおもしろかったでしたっけ?」
「たまには」
「小説書くのやめます、っていうのだけはやめてくださいね。オレら、口で言ってる以上に楽しみにしてるんですから、って少なくともオレはね。他の二人は、知らないけど」
「もちろん楽しみですよ。いつかはプロになってもらって、このスペースから作家が誕生したって、すごいじゃないですか」
「いえ、書くのは当分やめません」
「じゃ、よかった」
「うん、よかった」
「そうだ、そろそろここで、僕らの秘密というか、今までこのスペースで言ってなかったこと、公開しませんか。今日は他のリスナーの方もいませんし。もうすぐ実際に顔を合わせるんだし、ただの知り合いでなくなる訳ですし」
F・牛森さんは私の発表をしやすくしてくれているのだろうか。それとも単なる嬉しがり屋か。
他の二人は同意していた。こうなったら三人の内容によれば、私もここで実年齢を発表する覚悟でいた。F・牛森さん、ふぇるまーさん、拓郎さんの順で告白が始まった。まずF・牛森さんの本名は牛森文彦で、高校の現国の教師をしているのは本当だけれど非常勤で、高校に勤めていない時は塾の講師をしているということだった。別に何もやましいところはないし、私からしたら立派な先生だ。牛森という苗字が珍しかったのでまさか本名ではなかろう、と思っていただけに、少し衝撃が走った。ふぇるまーさんは数学専攻の大学生だけれど、実は文学部へ進みたかったらしい。数学やるやつに文学好きが多いと言っていたのは、悪あがきみたいなもので、本当は純粋に文学が好きだと言う。だから、「ニラスミレさんに実際にお会いするのが、すっごく楽しみなんです」なのだそうだ。自分の息子ほどの歳の男性にこんなこと言われて、正直悪い気はしない。しかし、実際会った時に外見だけは幻滅させてしまうのだろうな。拓郎さんは本名を池田純というそうで、バンドではJUNで通っているらしい。この情報を先に知っていたら、拓郎さん長期欠席の際に騒ぎが死亡説にまで発展しなかったのに。
「では最後に、ニラスミレさんの秘密というか、最初僕らに打ち明けようとしてたことは?」
私は一つ咳払いをした。大きく深呼吸をして話し始めた。皆さんは私が皆さんと同年代と思っているかもしれませんが、実は─。
二日ほど経って、登録されていない番号から電話があった。訝しみながら出ると、航太の母親で、今日葬儀を終えたことを伝えたかったから、ということだった。また、航太の部屋を片付けにこの週末までにマンションに行きたいのだが、都合はどうかと訊かれた。引越業者と洗浄業者も雇って、一日で済ませる予定だと。土日は休みで家にいるので、前もって連絡してもらえれば構わない、とわたしは答えた。そして最後に、途切れながらも、お悔やみの言葉を告げた。電話の向こうで航太の母親が鼻をすすりながら頷いているのが見えるようだった。
土曜の朝、航太の母親から再び連絡があり、まもなく引越業者とともにやって来た。わたしはしばらく駅の方でぶらぶらしているので、終わったら教えて欲しい、と言い残して外へ出た。結局マンションは売り払うことにした。自分で住まないにしても、売却に差し障りがあっては困るので、頼んだわけではなかったけれど、航太側は航太側で責任持って清掃と引っ越しをしてもらえると助かった。
十二月末の空は少しどんよりしていたが、セーター一枚で歩けるほどに暖かかった。地球温暖化のせいで、春のように暖かい日もあると思えば、豪雪になる時もある。今日はその暖かい日だ。わたしは大きく深呼吸をしてから駅の方へ歩いた。違う人間が乗り移ったように身体が軽かった。暗い淵のような闇が身体から抜けた分、軽くなったんだろう。何をするのも楽しく、駅前のレトロな喫茶店でコーヒーを飲み、古本屋を巡り、フードスタンドで遅いランチを買ってから、家族連れが集まる郊外の公園へ行ってみた。結婚する前もした後も、こんな混じりっ気のない気持ちになったのは初めてだった。
夕闇が迫り始める頃まで公園にいると、航太の母親から電話が入った。すっかり片付いたので帰る、という連絡だった。では、と言ってわたしが切ろうとした時、
「遥香さん、いえ、もう小村瀬さんって呼んだ方がいいわね。今までありがとうね。小学生の頃から知っていて、憎み合っていたとは言え結婚して、あの子の人生の半分以上、小村瀬さんが関わってて……お世話になりました」
そう言うと、彼女は自分から電話を切った。わたしはスマホを握りしめたまま、しばらくそこに立っていた。いつの間にか家族連れは皆いなくなっていた。急に疲れを覚えた。気分に任せて随分遠くまで来てしまって、電車で戻るのがずいぶん億劫に感じた。
虹彩認識の後、四桁の暗証番号を押すとドアが解錠された。玄関に一歩踏み入れた途端わたしは、ただいま、と言っていた。言った後すぐ笑いがこみ上げてきた。靴を脱いで廊下を歩くと、靴下を通して廊下の冷たさを感じた。洗浄業者も雇ったということだったから、航太のあの嫌な臭いはひとかけらも残っていなかった。ライトを点け、半分が空になったリビングを見た。天井に設置されているスクリーンを隔ててちょうど右半分には何も置かれていない。わたしが荷物を運び出せば、結婚前に沙良と一緒に見に来た時と同じぐらい新しい部屋に見えるはずだ。次の部屋はここよりずっと狭くなるだろうけれど、何よりもあいつの気配を窺いながら生活しなくていいのだ。首無し稲荷の祟りがあるのなら、あいつの臭いで息苦しくなるより、その祟りで死んだ方がましだ。
急に、あの四角い海を実際に見に行ってみようと思いついた。マンションを出ると、正確な方角は分からなかったけれど、マンションの窓の位置から考えて憶測した方向へどんどん歩いてみた。澄んだ冷たい風がわずかに運んでくる潮の香りを頼りに歩いた。この辺りには一度も足を運んだことがなかったことに気づき、他人事のように驚いた。結婚して一度もこの海の方角へ歩いたことがなかったのだ。古いコンクリートの建物の横に、新素材の壁の新しいマンションがあったり、元は店舗だったような空き家があったりした。そんな雑居ビルやマンションの森を抜け切ったところに国道があり、その向こうが海だった。いつも窓から見えていたコンクリートの岩壁が、おそらく今目の前に見えているものなんだろう。交通量の少ない国道を左右を注意しながら渡って、凍るように冷たいコンクリートの堤防にもたれかかった。窓からいつも見ていたものとは違い、ずいぶん手触りの粗いコンクリートで、なぜかやっと会えた友達と再会したような気分だった。そしてその向こう側には、音も匂いもする正真正銘の海が存在した。小さな四角い海は闇と静寂を吸い込むように見えたが、ここで本物を見ると、海からの闇が周りに広がって行くようだった。わたしが持っていた暗い淵とは明らかに違う、清々しい闇だ。私はその闇に守られながら、左中指の指輪を抜き取り、本物の海に投げた。
(第05回 了)
縦書きでもお読みいただけます。左のボタンをクリックしてファイルを表示させてください。
*『四角い海』は5日にアップされます。
■ 金魚屋 BOOK SHOP ■
■ 金魚屋 BOOK Café ■