妻が妊娠した。夫の方には、男の方にはさしたる驚きも感慨もない。ただ人生の重大事であり岐路にさしかかっているのも確か。さて、男はどうすればいいのか? どう振る舞えばいいのか、自分は変化のない日常をどう続ければいいのか? ・・・。辻原登奨励小説賞受賞作家寅間心閑の連載小説第5弾!。
by 金魚屋編集部
突然降って湧いた話でもないし、何なら精密検査の段階である程度予想していたはずなのに、それでも事実として突きつけられるのは堪えた。不謹慎というか単純というか、頭の片隅にセレモニーホールや火葬場の映像が一瞬チラつきもした。当然うまく言葉が出てこない。
「あ、そうか……、うん、そうかあ」
かなりのスピードで意気消沈した末っ子を、長男は「話を最後まで聞いてから落ち込んでくれよ」と笑った。
「え?」
「確かにガンなんだけど、ちゃんと治るヤツだから」
「そうなの?」
そうだよ、と笑った兄貴は分かりやすい言葉遣いと、聞き取りやすいスピードで母親の状況を教えてくれた。初期の大腸がん、という言葉に胃の辺りがキュッとなったが平気な振りで相槌を打つ。聞けば内視鏡を使ってガンを切除する方法で手術を行うという。
「初期の場合はその方法で大丈夫らしいんだよ」
「大丈夫っていうのは治るってこと?」
「治るっていうとさ、ガンになる前の状態に戻るみたいだけど、それは無理だろ?」
こんな風に解きほぐしてもらわないと話が進まないくらい、俺の頭の中は絡まっていたようだ。
「まあ今回、このガンでは死にませんよって感じなんじゃないか?」
おかげでずいぶんと脳内の風通しは良くなったが、まだまだ俺のリアクションには不安が滲み出ていたのだろう。兄貴に「最初に『大丈夫だったぞ』って言ってやればよかったな」と無用な反省をさせてしまった。
そのことが引っ掛かっていたから、マキとリッちゃんに報告する際は「お袋、大丈夫だったよ」という一言をまず伝えた。無論、安堵する。そして「よかったね」と喜びを分かち合う。そんなひと通りが鎮まってから、一度入院してガンを切除することを付け加える。
「え、そうなの?」
「うん、初期の段階だとそんな感じらしいよ」
「へえ、知らなかった」
これにて報告完了。本当に物事の順序は大事だ。この流れなら、あの騒々しい姉貴にも伝わるだろう。
兄貴の話では、母親は特に動揺することもなく落ち着いているらしい。手術をすれば少なくとも今より健康になるんですよね、と担当の医師に尋ねていたという。「そんなの当然だろ」と笑うのは簡単だが、俺はひどく感心してしまった。一皮剥けば、そこにあるのは羨ましさだ。いざという時はそんな風に振る舞ってみたいが、どうやらその辺りは受け継がれなかったらしい。
そんな母親とは対照的に、ショックを隠せない、いや、隠そうともしないのは父親だ。あの日、病院で検査の結果を聞いた時も俯きがちな顔色は青白く、「どっちがガンなのか分かんないよ」と電話口で兄貴は笑っていた。「マジかよ」とつられて笑いはしたが、俺に受け継がれたのはきっとそれだ。
その証拠に母親の検査結果を告げた夜、マキから「たまにはマスターのお店で呑んできたらどう?」と勧められた。これまでを振り返っても、あまり例のないことだ。訊けば母親が電動自転車に当て逃げされ、救急車で運ばれたあの日からずっと「しんどそう」に見えていたらしい。
「疲れてるなあって感じだった?」
「それもだけど、くたびれてるとか、大変とか、ストレスたくさんとか、色々なものがミックスしてたから。ああ、しんどそうだなあって」
うまく隠せていなかったことはショックだったが、父親からの負の遺伝だと思えば諦めもつく。俺は翌日、早速お言葉に甘えさせてもらった。
久々の『夜想』は良い意味で変わり映えせず、つい昨日も来ていたような感覚のままだらしなく過ごせた。最大のトピックである母親の件をどうにか忘れずに話し、チハルさんに「タロットの続き、お願いします」というリッちゃんからのメッセージを伝えるのが大人としては精一杯。あとはマスターに終電の時間を教えてもらうまで、ダラダラだらしなく呑んでいた。
トミタさんに会えなかったことは唯一残念だったし、不用意にコケモモを思い出さなかったのはラッキーだったが、それもそのはず。酔っていた俺は電車で乗り過ごし、東京駅からタクシーを拾わなければいけなかった。そんなアルコール過剰摂取の影響は翌朝にも及び、開店時間になっても起きることはできず、目覚めたのは午前九時過ぎ。慌てて店に降りると、トダと永子に「おはよう」と微笑まれた。
「おお、悪い。大至急、顔洗ってくるから」
「パパちゃん」
「ん、どうした?」
「おしごと、たいへんだったんでしょ。がんばって」
予想外の言葉に一瞬うろたえたが、「本当、本当」と深く頷くトダを見て察することができた。あいつは教育係としても優秀なヤツだ。
いつからか飲み過ぎた次の日は頭が痛くなるようになった。若い頃はとにかく吐いたら終わりだったので、単に加齢が原因かもしれない。
今回もそう。ランチタイムの混雑を乗り切り、そろそろリッちゃんが帰ってくる頃かなと考えている時も頭痛は続いていた。ドアが開く音に「いらっしゃいませ」と声を張り、立ち上がるとそこにいたのは母親。思わず「ええっ」と声が出る。手にした大きな荷物をカウンターに置き、見慣れぬ派手な髪色の店員・トダを凝視している母親に事情を説明すると、ようやく安心したらしく椅子に腰掛けた。
「ちょっと悪いんだけど、これ、貰ってくれない?」
母親が指差したのはカウンターに置いた大きな買い物袋。中には大量のマイタケと乾燥ワカメが入っていた。
「くれるのは嬉しいんだけど、ちょっと多いなあ」
「じゃあトダさんと分けなさいよ。ねえ、トダさん、ちょっといいかしら?」
「はい」
マイタケとワカメを半分ずつに分けながら、母親に体調を尋ねると「まあまあね」と短く笑った。確かに初期のガン患者への質問としてはピントがズレているかもしれない。運良く、いや運悪く知らないだけで、俺もトダも、何ならマキだって母親と同じ症状という可能性だってある。
「考え方なの。ガンなんて言われて、そりゃあ私も驚いたけど、まだ切れば治るっていうからラッキーだと思ってるのよ」
ラッキー? と呟いたトダに「そうよ」と母親は頷いた。「だって手術すれば、今よりは健康になるんだもの」
「いやあ、なかなかそういう風に強い気持ちを持てる人はいないんじゃないですか?」
そうだそうだ、と父親から負の遺伝を受け継いだ俺は密かに加勢する。
「そうなのよねえ。お父さんなんか自分が病気になったみたいに慌てちゃって、ほら、後先考えずにこんなに買ってきちゃうんだもの」
「?」
トダと目が合った。それってもしかして……。
「あ、これね、あの人が昨日買い込んできちゃったの。全部よ、全部」
え、と遠慮なく声を出した。なんでもガン予防に良いという触れ込みらしい。予防も何も既に、という想いは口にしなかったが、そもそも量が多すぎる。
「あと、こんなのまでパソコンで調べてるみたいなの」
そう言いバッグから取り出したのは数枚のプリント。どれも健康食品を販売しているサイトをプリントしたものだ。見事にすべて高額。さすがに「まだ買ってないよね?」と確認すると、母親は「当たり前でしょ」と遠慮なく鼻で笑った。
「お父さんったら、最近ずっとパソコンばかり見てるのよ。で、何かと思ったらキノコと海藻が健康にいいからって、こんな風に印刷したり色々細かい字でメモしたり……」
ご心配されているんでしょう、とトダがここにはいない父をフォローしたが効果ナシ。「そばであんなに慌てられちゃうと、進行が早まりそうよ」と母親は肩をすくめた。
無論父親の気持ちも分かる。俺とマキの関係に置き換えるまでもなく、パートナーが初期のガンを患っていたら冷静ではいられないだろう。俺なんか真っ先に高額な健康食品を買い求めるタイプかもしれない。
「こういうのって、本当、人の気持ちの弱い部分を巧妙に突いてきますからねえ。いや、前に店のお客さんから聞いた話なんですけど……」
トダが披露したのは、俺の両親と同じ状況で二人とも健康食品にのめりこんだ夫婦の話だった。結局一年間で百万円以上をつぎ込み、子どもたちから銀行の口座を管理されることになったという。俺は退屈そうにウロウロしている永子の頭を撫でながら、どうすれば変な方向に駆け出した父親を止められるか考えていた。
こういう時こそ、騒々しい姉貴の出番かもしれないな、なんて想像していると不意に店のドアが開いた。リッちゃんだ。いつもよりも少々遅く、本人も気にしているのか「ごめんなさーい。すぐ着替えてきまーす」と慌てている。俺が「ほら、スペシャルゲスト」と母親の存在を教えると、目をまん丸にして驚いた。
「あの、お久しぶりでございます」
ぎこちなく頭を下げるリッちゃんに、当の母親も「あらあら」と笑っている。
「時間は全然大丈夫だけど、学校で何かあった?」
何気ない質問のつもりだったが、意外にもリッちゃんは答えづらそうにしている。
「居残り勉強だったかな?」
「うーん、ちょっと違って……。学年上がったから数学がコース別になって……」
「あ、いきなり難しくなったのか」
照れ臭そうに頷くリッちゃんに、今苦労している単元を尋ねると「二次関数」という。恥ずかしながら間髪入れず浮かぶものが何もない。だったら、と「トダ、教えられる?」と口にした直後、ようやく痛みが引いてきた頭の中で閃くものがあった。
(第43回 了)
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*『オトコは遅々として』は毎月07日にアップされます。
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