北見弟花さんは昭和四年(一九二九年)北海道生まれ。現在は結社誌「樹氷」代表、「岳」同人。句集に『草創』があり、『馬鹿一の石』は二冊目の句集のようだ。
本性の強き鶴より凍りけり
後の世を土に聞きたく種を撒く
これからの遺産は空気十三夜
けあらしの大河に浮かぶ大雪山
細氷を日輪粉ごなになり渡る
北見弟花『自選5句』
結社誌「樹氷」や「岳」の俳風は存じ上げないのだが、自選5句を読んでもいわゆる中央俳壇の俳風とは異なることがわかる。一言でいうと意志的な句だ。「本性の強き鶴より凍りけり」には反骨精神が表現されている。「けあらしの大河に浮かぶ大雪山」「細氷を日輪粉ごなになり渡る」は写生と言えないことはないが、「大河」「大雪山」の「大」や、「日輪粉ごなに」といった言葉に作家の強い意志が表現されている。
句集は私の一つの道の区切りを示す集成と言える。なぜ私の一つの道と言うかというと、もう一つの道があるからだ。これを第一の道、第二の道としておこう。第一の道は私の句の道であり、小学生の時から一貫して今に続いている。また第二の道は私の口過ぎの道である。中学校を出て以来、造林を受入れ、土木の帳場として、身売り人夫の解放時代に対応。その後町役場職員、保護司、商工会、社会福祉協議会の役職を務めた。(中略)
昔、田舎では、詩を作る者は駄農と言われていた。私の同級生の俳友は農業のため、休俳したことがあったが、兼業するようになってからは復活した。彼は老境になって離農、「樹氷」の前主宰塩野谷秋風師に「離農したら何をすべきか」と問いかけたことがあるが、すかさず「田を作れなくなったら俳句を作れ」と言われた。けだし名言であった。それから私と共に俳句会の運営に尽力した。(中略)
さて、私は「終活」を「俳活」と宣言して私の第一の道はいつも心の自由を獲得、現在宮坂静生師の「岳」俳句会で地貌俳句を追究。第二の道の苦難にも堪えることが出来たのだ。
その第一の道から生まれた句集が『馬鹿一の石』なのである。
北見弟花『私の道に第二の人生は無かった』
俳句が北見さんの厳しい実生活を支えて来たことがよくわかるエッセイだ。「昔、田舎では、詩を作る者は駄農と言われていた」という言葉は心に響く。北見さんは詳しく書いておられないが、中学を卒業してすぐに肉体労働に従事なさっている。文学に興味を持つことが、はなっから異質と見られてしまう環境にお育ちになったのではないか。実業がまともな生きる道と捉えられている家庭や共同体ではしばしばあることだ。またそれは文学者にとって、案外重要な環境ではないかと思う。
俳句に限らず文学は虚業である。もし文学で飯が食えたとしても、それは本当にあり得ないほどの僥倖だと考えた方がいい。文学は豊かな社会の上澄みであり、たまたまその恩恵に預かれただけだからである。文学者が文学で飯が食えているのを誇ったり、傲慢になったりするのはあり得ないこと、あってはならないことだと思う。
芭蕉は「無能無芸にして只此一筋に繋る」と書いたが本気でそう思っていた。実業の世界にはなんら寄与しないことを骨身に沁みて認識すれば、文学がどういうものなのか分かってくるところがある。生活の闘争の場である実社会を高みから冷たく眺め、底辺から描き出すのが文学である。自己顕示欲や有意義なことをしているといった意識は邪魔になる。
文学者は本質的には自分で自分の仕事を作る。文学が仕事になればその人は文学者である。北見さんが「私の第一の道(俳句)はいつも心の自由を獲得」して来たと書いておられるのはそういうことだ。
一生のはじめに春の小川かな
離郷せず皆遠くなる山桜
石狩川の瀬音まつりの枕にす
雲は機嫌私の気性菊日和
節分の鬼を育む詩人たち
狼は老いしか月の衰えず
こおろぎの死んでも声を残す石
私の石雪に埋もれて忘らるる
特集からの抜粋だが、意志的な句が多い。一つの作風(俳風)が確立されている。ただし、こういった句が素晴らしいと手放しで称賛しているわけではない。俳句という表現の王道から見れば物足りない点はある。強い主観表現であればあるほど客観表現に抜けて欲しいと思う。
愛も離も死も無き二人桃を食ふ
塩狩や時雨心地となる峠
一生を道化に遊み北狐
句集表題となった『馬鹿一』は武者小路実篤の小説から採られた。句集解説で堤保徳さんが「この馬鹿一と呼ばれる男は、発表する当てもなく画を描いたり、詩をつくっている。笑われても止めない」と書いておられる。
北見さんは「私は「終活」を「俳活」と宣言して」いるとエッセイで書いておられる。意志から無私に抜けられんことを願う。
岡野隆
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