「俳句は境涯の詩~境涯俳句を読む」という特集が組まれているのだが、境涯俳句の定義が今ひとつハッキリしない。ただ秋尾敏さんの特集論考を読んでいたら、「『俳句文学大事典』(角川書店)の「境涯俳句」の項に松本康男は、「作者の境涯が反映されている俳句」とした上で、「花鳥風月のみに終始する作品のアンチテーゼであって、実生活に根ざし、かつ私に即した作品を指す」と解説している」とあった。なるほど。
ただま、俳句は基本外部世界の写生だから、「何を見た、どこに行った、何が起こった」が自ずと表現される。そういう意味で俳句はすべて境涯俳句になるわけだ。が、俳句ジャンル内でセグメントされた文脈では、俳人の生涯で決定的な出来事があった時に詠まれた句ということになるだろう。結核で長く闘病し、病中吟を数多く残した石田波郷がすぐに思い浮かぶ所以である。
波郷は秋櫻子「馬酔木」門だから俳句で主観表現を重視したのは当然である。ただ「今生は病む生なりき烏頭」などの病詠が代表句になっているが、主観俳句ばかり詠んでいたわけではない。それは秋櫻子も同じ。写生が基本だが、この写生というヤツが本当に厄介だ。
当たり前のことを言うが「今生は」の句は「烏頭」(の季語)がなければ俳句として成立しない。痛い苦しいでは俳句にならないのだ。この意味で波郷の境涯俳句を一つのティピカルな例として、俳句は私小説であると言うのはどうかと思う。島崎藤村、志賀直哉から西村賢太に至るまで綿々と続く本場の私小説を読めばそれは明らかだろう。何をどうやっても俳句で小説のような〝私への肉薄〟は表現できない。また私を詠うなら短歌の方が適している。
長谷川櫂さんは東日本大震災の後に『震災句集』と『震災歌集』を刊行なさった。あの惨事を表現するのに俳句はあまり良い器ではないということである。震災を詠むにあたって『震災歌集』も出さなければならなかったお気持ちはよくわかる。俳句は人間の痛切な感情を詠むのに適していない。絶唱は短歌の独断場だと言っていい。
秋の江に打ち込む杭の響かな
漱石の比較的よく知られた句である。修善寺で生死の境を彷徨った後に、「生き返ってから約十日ばかりしてふと出来た句である」(『思ひ出す事など』)。「杭の響」を心音と解釈して生き返った喜びを表現していると評釈してもいいのだが、基本、あっけないほどあっさりとした写生句である。実際に杭を打つ音が聞こえたのだろう。
近代小説の確立者というより、現代まで続く小説の基礎を作った作家として漱石は偉大だ。ただ俳句はそれほど上手くない。芥川も同じ。しかしよく読めば、芥川が見よう見まねで俳句を書いているのに対し、漱石は俳句の勘所を抑えている。子規門だから当然か。ただし漱石にとって俳句はハッキリ余技である。俳句のような小さな器に彼の自我意識、表現欲求は収まりきらない。
かく単に自活自営の立場に立って見渡した世の中はことごとく敵である。自然は公平で冷酷な敵である。社会は不正で人情ある敵である。もし彼対我の観を極端に引き延ばすならば、朋友もある意味において敵であるし、妻子もある意味において敵である。そう思う自分さえ日に何度となく自分の敵になりつつある。疲れてもやめ得ぬ戦いを持続しながら、煢然としてその間に老ゆるものは、みじめと評するようしほかに評しようがない。
夏目漱石『思ひ出す事など』
だいぶ健康が回復した時期に書かれた文章である。漱石という人は本当に身も蓋もないことをズバリと書く。本質的には誰の助けもあてにできない人間にとって、自然も社会も友人、妻子も時には敵になることがあると書いている。たいていの人間はぬるいから、そうは言ってもいろいろ助けてもらってるし、親切な人もいるじゃないか、で済ますが、漱石は追いつめられた人間存在の本質を見極めなければ気が済まない。ただこんな残酷な認識世界に生き続けるのは辛い。詩歌が息抜きの余技になった理由である。
馬上青年老ゆ
鏡中白髪新たなり
幸いにして天子の国に生まれ
願わくば太平の民とならん
原文漢詩だが、漢詩作品の方が漱石という作家の詩的表現を把握しやすい。俳句はまあ言ってみれば漱石の脱力系表現である。その意味で本当に肩の力が抜けた素直な表現なのだが、〝作品意識〟が入り混じると漢詩が必要になる。俳句と漢詩という二つの詩の特徴を把握して使い分けている。
糸瓜咲て痰のつまりし仏かな
では漱石の俳句のお師匠さんである子規はどうか。「糸瓜咲て」は結果として子規辞世となった句の一つだが、痛い辛い表現はない。「仏かな」とあるわけだから、すでに死んでいる境地で詠まれた句だと解釈もできる。これは俳句にはとても大事なことで、この世に属していない死者のような視点から詠まれた俳句は秀句になることが多い。
今日モコノ小刀ヲ見タトキニムラムラトシテ恐ロシクナッタカラジット見テイルトトモカクモコノ小刀ヲ手ニ持ッテ見ヨウトマデ思ウタ ヨッポド手デ取ロウトシタガイヤイヤココダト思ウテジットコラエタ心ノ中ハ取ロウト取ルマイトノ二ツガ戦ッテイル 考エテイル内ニシャクリアゲテ泣キ出シタ
正岡子規『仰臥漫録』
子規が病苦に対して恬淡だったかというとそうではない。よく知られているようにその逆である。「おかしければ笑う。悲しければ泣く。しかし痛みの烈しい時には仕様がないから、うめくか、叫ぶか、泣くか、または黙ってこらえているかする。その中で黙ってこらえているのが一番苦しい。盛んにうめき、盛んに叫び、盛んに泣くと少しく痛みが減ずる」(『墨汁一滴』)と書いた人である。『仰臥漫録』では自殺衝動を詳細に書き綴っている。しかしこういった苦悩は俳句では一切表現されていない。
足たたば不尽の高嶺のいただきをいかつちなして踏み鳴らさましを
我口ヲ触レシ器ハ湯ヲカケテ灰スリツケテミガキタブベシ
子規は短歌でも写生を重視したので自我意識の苦悩を歌った短歌はない。しかし俳句より直截に自我意識を表現している。
達観主義的に言えば、俳句内で境涯俳句を一つのジャンルのように区分するのはあまりお勧めしない。短歌、自由詩、小説という明らかに性質が違う文学ジャンルと比較すれば俳句の特徴は自ずと明らかである。俳句の原理の前では境涯俳句は小さな波に過ぎない。
子規や漱石は表現したい内容に応じて複数の文学ジャンルを使い分けた。これは俳句一辺倒の俳人にとってはある種の〝俳句の敗北〟ともなり得るだろう。意気軒昂な俳人は俳句は無限の可能性を秘めた表現であり、ありとあらゆる事柄が表現できるはずだと考えがちだからである。ただそれはどうかな。長い長い作家たちの苦闘の歴史がジャンルの垣根を越えることの難しさを既に証明しているのではなかろうか。無理矢理俳句の表現の幅を拡げようとしたり、なんでもかんでも俳句で表現しようとするよりも、作家の表現欲求に応じて複数のジャンルを使い分ける方が恐らく正しい道筋だ。
それをするにはどうしたらいいのか。個々の文学ジャンルの特徴と原理をとことん考え抜くことですな。
岡野隆
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