坂井修一さんと斉藤斎藤さんの対論「短歌は「持続可能」か。」が掲載されています。分析対象は「高齢化と年功序列が短歌を守っている/世代間の分断は本当にあるのか/短歌のマネタイズ/残すべき短歌、自立した歌人/近未来に「我」と「写実」はありえるのか/AI短歌は投稿短歌をしのぐか/短歌ジャーナリズムの縮退、破壊的イノベーションの次は/総合誌の「総合」は失われたのか」と表題通り多角的です。ただ個人的にはあまりピンと来なかった。話題が多角的過ぎたからかもしれません。
坂井 國兼(秀二、短歌研究編集発行人)さんは、職業選択の自由とか、健康で文化的な生活をする権利とか、そういう言葉に対してリアリティーを持てるでしょうか。建前にすぎないと思う世代境界はあるようです。
団塊はもう何をやっても生きられると思っていて、我々はそう甘くはないと思っていて。斎藤さんの世代はどうなのかな。職業選択の自由なんて「言葉だけだ」と思っているんじゃないかな。
斉藤 「職業選択」でいえば、私はちょうど逃げ切れなかった世代です。中学、高校ぐらいまでは景気も悪くなかったんですが、このまま日本経済が続いていくと油断してたところで、就活になると目の前でシャッターが閉まっちゃって。ふだん着で冬山に登らされたような、一番やばい世代でしたね。
この対話に限りませんが歌人はやたらと若者の生活苦を気にしますね。それが世代間の分断を生んでいるという主張も盛んなように見受けられます。確かに日本経済は元気がありません。不景気です。しかし一方で税収は過去最高を記録しています。下世話なことを言えば若い世代で儲けている人はいくらでもいる。なぜ生活苦と分断ばかりに目がゆくのかちょっと理解に苦しみます。なぜいつもネガティブな視線なんだろう。歌人は苦しむのが好きなのかな。そうだとすれば短歌文学の本質に通じる一種の職業病ですね。
現代社会でかつてのような終身雇用制が崩れているのは間違いありません。これがどういう形で従来とは異なる労働秩序になるのかいまだ試行錯誤中です。過去システムが崩れて苦しんでいる人が大勢いるのはわかりますが職業選択の自由はむしろ拡がっているんじゃないでしょうか。世代間の分断も今に始まったことではありません。決定的な世代間分裂が起こっているとはちょっと思えないんですがねぇ。少なくとも短歌総合誌で活躍している若手・中堅歌人は先行世代の作品や言動をとても気にしてフォローしています。
人間は本質的に他者には興味がない。もうちょっと正確に言うと自分とは違う高い能力を持ちなんらかの利害関係が生じる可能性がある人間にしか興味を持たないものです。それは文学でも同じ。しかし歌人さんたちはやたらと若い世代全体を心配しますね。余裕があれば能力に関わらず困っている歌人たちを喜んで助けてあげるいい人たちの集まりなんだろうか。
坂井 メタバースで最大公約数的なものも展開されるでしょう。たとえば、地球温暖化やめようとかね。十億人の人が仮想会議室で盛り上がる。そういう価値観の共有はメタバースで起こるけれども、最大の快楽はそこにはない。
斉藤 ですよね。
坂井 徹底的にモザイク化された世界の一つの断片の中で生きるというほうにいくだろうか。
斉藤 そしたらもう、言葉は要らなくないですか?
坂井 歌壇自体も、中でモザイク化するかもね。あまりモザイク化したら短歌の世界ってもたないような気がするけどね。
これも正直よくわからない。メタバースがまだメジャーなプラットフォームも確定していない創生期のテクノロジーだということを別にしてなぜ歌人はやたらとインターネットの新技術にこだわるんだろう。しかも視点がいつもコンシューマー(消費者)です。
インターネットの中核はビジネスです。インターネットが水道ガス電気と並ぶ不可欠のインフラになっているのはもうそれ抜きではビジネスができなくなっているからです。ビジネスを画期的に便利にしその幅を拡げたからインターネットは急速に普及した。
しかし歌人の視点はネット末端のお遊び空間に向きがちです。またメタバースを例にするとそれは基本お金儲けのための新たなビジネススキームです。企業や個人などの仕掛け人がいる。なぜコンシューマーとして新たなテクノロジーに翻弄されるのが前提になるんだろう。「破壊的イノベーションの次」が予測できるならビジネスチャンスだと思うんですけどね。なぜ仕掛ける側に回ろうとしないんだろう。
ネットの世界が中心のない情報の海だということは周知です。この情報の海は蠢き続けていて時々隆起する。大きな隆起もあれば小さな隆起もある。一個の人間の能力には限界がありますから誰もがどこかの大小の隆起のカルチャーに属している。ビジネスにしてもホビーにしてもそうです。いわゆるドゥルーズ=ガタリのリゾームモデルです。『Mille Plateaux』が刊行されたのは一九八〇年ですから今では古典的認識モデルだと言っていいと思います。
リゾームは脱構築の重要な概念になったわけですがそれで世界秩序が失われたわけではありません。欧米的概念で言えば世界の中心と信じられて来た神(それに準じる求心点)が決定的に失われても(脱構築されても)なぜ世界はメチャクチャな無秩序になって崩壊しないのかがポスト・ポストモダニズムのアポリアということになります。極端なことを言えば中心のない世界で秩序を保っている原理が新たな神ということになる。
歌壇で言えば理念的にも実質的にも結社誌・同人誌・無所属(ネット)歌人らの上位審級にあって短歌の世界全体を相対化して把握している商業誌はこれから変化を余儀なくされるでしょうね。しかしなんらかの形で生き残ると思います。ただ変化の真っ最中の今なら既存商業誌に比肩し得るような情報集約点としてのメディアを生み出すこともできると思うんですが。なぜいつもコンシューマーの視点で変化を眺めてちょっと悲観的になってしまうんだろう。それだと若者にも高齢者に対してもいたずらに不安を煽るだけで終わってしまうような気がします。ヤバイヤバイの連呼はネット上に溢れています。問題はじゃあどうするかです。現状分析に基づく将来予測ができるなら前向きな解決策となる具体的提言をした方がいいと思うのですがどうでしょう。
斉藤 私は短歌がほかのジャンルと違うのはその一人称性だと思っていて、三人称的に神の視点で描くものに短歌がなってしまったら、コンテンツ力ではほかのジャンルに勝てない。愚かでちっぽけな一人の人間が、一人称で世界に立ち向かっていくときに、短歌という詩型の中途半端な短さが圧倒的な武器に変わるんじゃないかと思ってやっているんです。
逆に、短歌がほかのコンテンツと横並びの、三人称的な神の視点で何でもありのエンターテイメントになるんだったら、短歌にこだわらず、ほかのジャンルで勝負してみたいかな、と。
短歌という詩型では「三人称的な神の視点」は元々無理なんじゃないかなということは別にしてこの斉藤さんの発言はとても面白かった。斉藤さんは「短歌研究」で「群れをあきらめないで」を連載中ですが正直この書き方を続けるのは苦しいだろうなと思います。なるほど従来とはまったく異なる書き方です。しかし言語的な新しさは常に相対的なものです。読者は新しさにすぐに慣れてしまう。当初の注目が失われてしまってからが本当の勝負になる。そして永久革命は不可能。どこかで新領土を見つけて(築いて)退屈かもしれませんが安定して書ける書法に移行しなければなりません。ただ斉藤さんが「群れをあきらめないで」連作で極私を目指しておられるかもしれないということはなんとなく感じました。
紫のきはまるところ藤ならむ欲望の房ながく垂れ嘔吐を誘ふ
ちちははの交はりを見し十歳のわれは極光放ちたりけむ
躑躅摘みて蜜を吸ひたる少女期にたましひふたつ持ちてゐしこと
城壁の内なる敵とよばれつつひるがへす緋のマント、ロゴスよ
生前のわたくし、死後のわたくしを貫くものあらば怨みとおもへ
昭和天皇いまだ裁かれずその裔を崇むる不条理、太陽のごと
白鳥となりたる父をもつならば火にも水にも入るべきか、否か
蝶あまた飛び交う庭にいのち濃く淡くなりつる祕法のごとし
誘惑は桃畑ゆ來て奔りゆく時には旣にユダをみごもる
ヴィスコンティくるしかりけり美がにんげんを支配する世界に堪へず
水原紫苑 毎月連載掲載 五十首「欲望」より
水原紫苑さんは毎月五十首を必死で絞り出しておられる気配です。現世的にも来世的にも怖い歌を書くお方ですね。
高嶋秋穂
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