今号には2つの特集が組まれています。特集1は細川光洋さんの「吉井勇「ゴンドラの唄」初出の発見」です。2つ目は創刊九十周年企画「対談「短歌研究九十年」に残された謎」として「再録「日本歌人」廃刊についての証言」と「再録「創刊第二号の熱討座談会「茂吉、孤立す」」が掲載されています。
こういった企画はとても良いと思います。どのジャンルでも一番気になるのは直近の過去です。短歌の過去では戦後短歌が最も注目されます。現在と地続きで理解しやすくもあります。ただ戦後文学は大正デモクラシー時代に不完全燃焼で終わった試みの再点火という面が強い。またその間には太平洋戦争が挟まっている。寺井龍哉さん聞き手・篠弘さん語り手の「再録「日本歌人」廃刊についての証言」を読めばその機微が伝わって来ます。
また大正デモクラシーまで溯れば明治近代はすぐそこです。正岡子規が「仰のごとく近来和歌はいっこうに振い申さずそうろう。正直に申しそうらへば『万葉集』以来実朝(源実朝)以来一向に振い申さずそうろう」と書いたように江戸期までの短歌が低迷していたのは事実です。明治維新とともに短歌は息を吹き返したと言っていいところがある。その中心は子規根岸派と与謝野鉄幹・晶子の「明星」派でした。両者は近代における守旧派(原理派)と前衛派と言うことができます。吉井勇は後者の重要な作家の一人でした。
ゴンドラの唄
(この唄は近く藝術座に於て上演さるべき「其前夜」劇に於て松井須磨子氏のうたふべき歌なり)
命短し、戀せよ、少女
赤き唇褪せぬ間に
熱き血汐の冷えぬ間に
明日の月日のないものを
命短し、戀せよ、少女
いざ手を取りて彼の舟に
いざ燃ゆる頬を君が頬に
こゝには誰も來ぬものを
いのち短し、戀せよ、少女
波にたゞよひ波の様に
君が柔手を我が肩に
こゝには人目ないものを
いのち短し、戀せよ、少女
黒髪の色褪せぬ間に
心のほのほ消えぬ間に
今日はふたゝび來ぬものを
(【新資料】吉井勇「ゴンドラの唄」初出 「新日本」第五巻第四号文藝附録(大正4・4・1発行)
今でもどこかで「命短し、戀せよ、少女」というフレーズを聞いたことがある人は多いのではないかと思います。戦前には人口に広く膾炙した詩です。江戸以前に男女の恋愛願望がなかったわけではなく定期的に心中モノが流行しています。ただ婚姻は家と家との結びつきを強めるための手段だった封建社会では男女恋愛は抑圧されていました。明治維新以降も見合い結婚が当たり前でしたが欧米文学の流入とともに若い男女の間で恋愛幻想が盛りあがっていました。大正四年(一九一五年)に帝国劇場上演のツルゲーネフ作・楠山正雄脚色の演劇『其前夜』の作中歌として作られ松井須磨子が歌いました。
細川光洋さんによると勇は著作にこの詩を収録していません。この詩に言及した散文もないようです。また没後編まれた吉井勇全集にも収録されていない。全集編集者の木俣修は勇の流行歌風の歌謡は「文学的意味が比較的低いという見地から一切除外することにした」と書いているそうです。それだけでなく『ゴンドラの唄』は長らく初出不明でした。その定本(初出)が約百年ぶりに発見されたのでした。
定本となるテクストが確定したことで、あらためて「ゴンドラの唄」の「文学的意味」について、吉井勇自身の表現に即して考察してみたい。木俣修は「文学的意味が比較的低い」と評したが、「ゴンドラの唄」はむしろ、勇の文学的来歴を考える上で鍵となる作品といってもよい。なぜなら、「ゴンドラの唄」には、吉井勇の文学的出発点に関わる重要な二つの作品の影響が色濃く認められるからである。その二つの作品とは何か――アンデルセン原作・森鷗訳の『即興詩人』(明治35・9刊)と与謝野晶子の歌集『みだれ髪』(明治34・8刊)である。
細川光洋「吉井勇「ゴンドラの唄」初出の発見――百年越しの謎を解く」
全集編集者の木俣修が書いたように『ゴンドラの唄』の「文学的意味が比較的低い」のは決して間違いではないと思います(全集である以上収録すべきですが)。戯れ歌だからではありません。勇らしい詩なのですが細川さんが論考で指摘しておられるようにこの詩は鷗外訳『即興詩人』の二次創作と言っていい面があります。ツルゲーネフ作『其前夜』の内容に沿って架空のペルソナを使って書かれた詩ですが詩の着地点が弱い。
乱暴に言えば詩は「命短し、戀せよ、少女」「今日はふたゝび來ぬものを」と歌っているだけです。四連ともに最初と最後の行が決まっていてその間にそれらしい言葉を並べているだけの詩だとも言えます。あと一押しで勇独自の表現になったはずですがそれが欠けている。しかし『ゴンドラの唄』が「勇の文学的来歴を考える上で鍵となる作品」であるのも確かです。
明治維新後の欧米文学の大量移入に最も敏感に反応した詩は自由詩と短歌です。自由詩が欧米詩の翻訳・模倣から始まったのは言うまでもありません。短歌がいち早く反応したのは欧米文学の本質であり日本近・現代文学の中核になった強烈な人間自我意識です。それを与謝野鉄幹はいかにも彼らしい率直さで「自我は即我が儘なり」と表現しました。根岸派伊藤左千夫に痛烈に批判されましたが「明星」派にそれが通底しているのは言うまでもありません。ただし彼らには社会批判意識は薄かった。「自我は即我が儘なり」がストレートに表現されたのは社会制度や政治批判にはなりにくい恋愛抒情においてでした。
森鷗外が「明星」派と近しかったことはよく知られています。「明星」廃刊後に鷗外や鉄幹・晶子を中心に文芸誌「スバル」が創刊されています。創刊号の発行人は石川啄木。啄木は朝日新聞の校正係で漱石と面識がありましたが漱石は彼にまったくといっていいほど興味を持っていない。しかし鷗外は自邸での観潮楼歌会に啄木を招いています。「スバル」には白秋と勇らも寄稿しています。鷗外が晶子訳『源氏物語』口語訳にかなり手を入れ校正していたこともよく知られている。鷗外は「明星」派に強い興味を持っていた。
もちろん謹厳実直な鷗外は鉄幹的な「自我は即我が儘なり」とは無縁でした。しかし鷗外はロマン派です。日本的に言うと茫漠とした恋愛浪漫をふりまく浪曼派の表記の方がしっくり来ますが鷗外は正統ヨーロッパ的なロマン派です。しかし浪曼派で思い起こされるような星菫派ではない。
鷗外はほぼ『舞姫』一作で文壇の寵児と持て囃されましたが文語体三部作を書いた後は三十年近く小説を書いていません。再デビュー作は明治四十年代の『半日』。言文一致体の自然主義小説でした。
ではその三十年間文学者として何をしていたのか。評論と翻訳です。アンデルセン『即興詩人』はやたらと長い小説ですがこの作品を鷗外はダラダラと訳し続けています。時間稼ぎの気配濃厚です。翻訳をしながら小説などのあり方について考えていた。
また鷗外が最も精魂傾けた小説はゲーテ『ファウスト』です。鷗外はドイツ語に堪能でしたが現在に到るまでドイツ系文学で最も影響力を有しているのがゲーテ『ファウスト』です。なぜか。総合文学だからです。
ゲーテはロマン派の先駆でありロマン派を代表する作家ですが恋愛抒情とみなされがちなロマン派文学とは無縁です。『ファウスト』は上演するための演劇であり詩であり物語であり宗教文学でもあります。大局的に言えば現代文学の萌芽はゲーテ死後の十九世紀後半から現れてくるわけですがゲーテ文学はそれまでのヨーロッパ文学の総合であり集大成でした。
小説家として知られていますが鷗外は詩(新体詩)や小説だけでなく戯曲や史伝も手がけました。不完全で終わったと言わざるを得ませんが鷗外は総合文学を目指した作家です。同時代ではそれは「明星」派に当てはまります。運動体としての「明星」派は総合文学派でした。小説では突出した作品を生み出せませんでしたが多くの作家が小説を手がけています。また「明星」は自由詩(新体詩)の母体でもあります。白秋門から朔太郎が出ていますので現代詩の祖は「明星」だと言うこともできます。
苦労知らずのボンボンだった勇はそれゆえのしっぺ返しのように苦労を背負い込むことになりますが生涯に渡って高等遊民でした。星菫派に近い浪曼派と言うとどうしても勇を思い起こしてしまいます。ただその深みのない刹那主義的抒情は時にとても美しい。『ゴンドラの唄』は勇代表作ではなくある時代特有の雰囲気を代表する詩でしょうね。
高嶋秋穂
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