第三十九回現代短歌評論賞の発表号です。現代短歌評論賞は課題に沿った評論を公募する賞です。今回は「私性再論」。こういった評論コンペティションもあるんですね。もちろん私性は短歌にとって大変重要な問題です。小野田光さんの「SNS時代の私性とリアリズム」が受賞されました。
短歌の私性に対する捉え方は現代まで絶え間なく変化を続けている。(中略)今日の短歌の私性に影響を与えている社会的状況とは何なのかを考える時、二十一世紀に入ってからのインターネットの発達とソーシャル・ネットワーク・サービス(SNS)の急速な浸透を無視することはできない。(中略)このような状況について、吉川宏志は「角川短歌年鑑 令和3年度版」(中略)の座談会で次のように述べている。
キャラクター化するってよく言いますよね。場所場所によってキャラクターをうまく変えることが、現在を生きていく上でとても大事になっている。社会全体が細分化されているから、戦略的に自己を切り替えることが必要となるわけです。「空気を読む」という言葉は嫌なのだけれど、誰もがある程度は意識的にならざるを得ない状況になってるんじゃないですかね。
吉川の指摘通り、自分の人格を使い分ける「キャラクター化」が顕著になっていることは間違いなく、このことは短歌の私性にも影響を及ぼしている。
小野田光「SNS時代の私性とリアリズム」
論の前提として岡井隆さんの私性論が絶対的なものとしてあります。「短歌における〈私性〉というのは、作品の背後に一人の人――そう、ただ一人だけの人の顔が見えるということです。それに尽きます」という断言です。これがSNS時代になって崩れてきた。あるいは変化せざるを得なくなったというのが評論の論旨です。論を進める上での重要なタームとして吉川宏志さんの言う「キャラクター化」があります。
小野田さんは短歌の表現主体を次のように分類しておられます。
・作中主体の〈私〉
・生身の作者と作中主体の〈私〉がイコールである【私】
短歌では生身の作者と作中主体の〈私〉が重なっているのが普通です。伝統短歌の書き方・読まれ方だと言っても良い。それが「(現代)社会では、特に【私】の表現は成立しにくくなり、明治後期の和歌革新以降、脈々と受け継がれてきた【私】を前提とする短歌のリアリズム表現も変化を余儀なくされている」というのが小野田さんの主張です。
「作中主体の〈私〉」と「生身の作者」を分けて考えるなら「生身の作者≠作中主体の〈私〉」にまで思考が進みそうなのですがそうはならないところが短歌ですね。短歌が【私】の表現であることは絶対です。
それはともかく従来的な【私】の表現は基本的に作者の実体験を写生的に詠う短歌です。これについては有名な論争が二つあります。一つは平井弘さんの戦死した架空の兄を詠んだ一九六〇年代の虚構論争です。もう一つは石井僚一さんのご存命の父親の架空の死を詠んだ短歌。石井さんは「父親のような雨に打たれて」連作で二〇一四年に短歌研究新人賞を受賞なさいましたがその時再び架空論争が起こったのでした。
ただこの二つの事例での架空論争は決定打が出ないまま曖昧に持ち越されたように思います。平井さんは幼いながら戦争を体験している戦中派ですから時代の代弁者として肉親の死を詠む権利のようなものがある。実際歌は切実で平井さんの兄でなくても表現として成立しているのではないでしょうか。
石井さんの場合は微妙ですがやはり歌は切実。単に短歌が肉親の死と相性がいいからウケを狙って健在の父親の死を詠んだとは思えないところがある。大変書きにくいですがもしかすると作家には「父よお前は死ねばいい」という呪詛に近い感情があったのかもしれません。もしそうであるなら歌の背景はだいぶ先にならないと明かされることはないでしょうね。
つまり平井さんと石井さんの短歌は内容がフィクションである以上従来型の【私】の短歌表現ではありません。しかし彼らの虚構短歌には表現の核がある。核を探そうとすれば見つかる可能性がある。そうすると虚構の援用はあくまで手段。骨格が伝統短歌の俵万智さんが『サラダ記念日』で無防備なまでの〝生の肯定〟という主題を表現するために伝統短歌を少しだけ逸脱した虚構(演出)を援用したのと同じです。お二人の虚構歌は案外伝統短歌に近いと思います。
小野田さんは「戦後短歌における〈私〉の演出や虚構は、相対的に見て、作者の生年が近年に近いほどタブー視の実感が生じていない」とまとめておられますがそれはどうかな。【私】短歌で誰もがこりゃタブーに抵触してるなと感じるのは現実社会のタブーコードと重なっている場合だけです。キャラクター化による〈私〉の演出や虚構がタブーとして強く意識されることはまずありません。
これまで見てきたように、現代社会では個人の「キャラクター化」が進み、そのキャラクター化された個人が場に合わせて「盛る」表現で〈私〉を「演出」することが、SNSをはじめとしたインターネット上ではっきりと可視化されている。「キャラクター化」や「演出」を用いること、つまり「個人を場に合わせる演出」がコミュニケーションの前提となった社会だとも言える。
そのような社会にあって、【私】が成立した表現を選ぶ歌人もまた多く存在し、彼らの歌は、近代の写実とは違う二十一世紀のリアリズムとして注目されている。
同
うーんどうもピンと来ないな。ネット上で「キャラクター化された個人が場に合わせて「盛る」表現で〈私〉を「演出」する」行為の八〇パーセントくらいは素直に実在の私を盛ってるんじゃないかな。それは確かに可視化されているけど「個人を場に合わせる演出」はお遊びとして了解されていてそれによって私が揺らぎ変化したわけではない。ネット時代最大の特徴は情報量の爆発的増大です。私の情報を弄ることはできますがその裏側も情報として見えてしまっている。お遊びの私の演出でそんなに決定的にコミュニケーションの質が変わったんだろうか。
ただこれは現象の捉え方の違いと言えばそれまで。インターネット・高度情報化社会では従来的な【私】を前提とする短歌のリアリズム表現が変わったというのが小野田さんの結論です。
月を見つけて月いいよねと君が言う ぼくはこっちだからじゃあまたね
永井祐『日本の中でたのしく暮らす』(Book Park’ 二〇一二年)
春の船、それからひかり溜め込んでゆっくり出航する夏の船
堂園昌彦『やがて秋茄子へと到る』(港の人、二〇一四年)
日々は泡 記憶はなつかしい炉にくべる薪 愛はたくさんの火
井上法子『永遠でないほうの火』(書肆侃侃房、二〇一六年)
欲望がフォルムを、フォルムが欲望を追いつめて手は輝きにけり
大森静佳『カミーユ』(書肆侃侃房、二〇一八年)
これらの歌が小野田さんの言う従来とは異なる【私】を前提とした短歌のリアリズム表現ということになります。ただねーこれらの歌は新たな時代(インターネット・高度情報化社会)に呼応した雰囲気短歌だという気がするんですけどね。
小野田さんの定義ではリアリズムとは【私】短歌のそれです。なるほど引用の短歌には【私】短歌のリアリズムは表現されていない。じゃあ新たなリアリズムと定義できるのかというとNot【私】短歌リアリズムくらいの共通点しかないですね。
小野田さんは短歌表現が【私】を前提とするということに対しては疑義を挟んでおられない。その縛りは強靱です。実際普通の読者は上記引用を含めたニューウェーブ短歌を間違いなく作家の私性が表現された歌として読むはずです。ああ今はこういう時代なんだなと。
短歌の七七は魔です。これがあるため俳句のような無私の表現はほぼ不可能です。かといって自由詩や小説のようにペルソナや架空の登場人物を使ったフィクションを効果的に援用することもできない。絶対的前提として完全に私を虚構化するには短歌は短すぎる。手段として虚構を使っても虚構が私に張りついてしまう。技法を含めすべて私の表現になってしまう。
なるほど世界=短歌と捉えあくまでその枠内で考えれば確かにニューウェーブ短歌以降の【私】の表現は変化したように見えます。しかしそれは一首を微に入り細に入り検討した場合の修辞的分析の帰結です。日本文学全体を相対化して眺めれば短歌はぜんぜん変わっていない。一首の表現母胎を考えてもそうです。
歌集に『日本の中でたのしく暮らす』『やがて秋茄子へと到る』『永遠でないほうの火』『カミーユ』という歌集名を付ければ(奇矯なペンネームで短歌を発表した場合も同じです)多くの読者はそこにあらかじめ仕掛けがあることに気づく。その仕掛けは強烈な作家の自我意識の発露であり従来通り作家の私性に収斂する。相変わらず作家の強烈な自我意識はありそれが後ろ向きに表現される時代だというだけのことなんじゃないんでしょうか。いっけん従来的な【私】が見あたらない歌に新たなリアルがあると言っても虚しいところがあります。この現象には表現したい主題が失われたあるいは見あたらないから強固な私の表現を避けるという面があるんじゃないかな。
表現のリアリズムというならそれは現代社会に深く食い込んでいなければならない。従来型の私は変化したんだとモヤッとした雰囲気で表現するだけでは不十分。新しい私が新しい世界を明瞭にスコープの中心に捉えて撃ち抜かなければ新しいリアリティとは言えないでしょうね。
古典的なことを言えば短歌に限らず詩という表現は決定的断言です。短い表現であるゆえ作品を読んだ読者が一瞬で雷に打たれたように何かを直観するのが詩という表現最大の醍醐味です。詩人なら誰もが最初はそういう詩の表現を目指したはず。しかしそれに対して封じ手を打つニューウェーブ歌人も増えています。もう名歌を読む必要などない。自分の作品や作家名が後世に残るなんて思っていないといった言説もあります。
しかしそれはどうかな。そんな単調で無為な歌を詠み続けることに人は耐えられるんだろうか。名歌が必須だと言っているわけではありませんよ。誰もがじょじょに精神と肉体が衰えいつか死ぬ。時間は限られている。名歌秀歌も歌壇内での評価も求めず歌を書いていけばそれでいいんだというのは詭弁です。もし本当にそう思っているならどこかの時点でバカバカしくなって書かなくなるでしょうね。文学という表現の大前提と相容れないからです。作家には死の間際まで信じ切れる強靱な肉体的思想が必要です。それが得られて初めて名歌秀歌歌壇内評価が気にならなくなる。否定形の文学はどこまで行っても仮想敵の否定に過ぎない。弱いのです。
高嶋秋穂
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