俳壇にはあまたの結社がある。同人誌などもあるがいまだに結社が俳壇の屋台骨である。ただし結社員の数をまとめた一覧資料はないようだ。しかしどうも「ホトトギス」が俳壇最大の結社員数を誇っているようである。俳句は「待ってました定年」的なところがあり、若い頃から文学趣味を持っていた人が一念発起して始めることが多い。毎年大勢の俳句初心者が俳句界に参入してくるわけで、習い事文芸でもあるのでイチから結社で指導を受けたいと望む人もかなりいる。
友人知人に先に俳句を始めた人がいてそのツテで結社に所属することもあるだろう。「ホトトギス」所属員が多いのは、なんのあてもない人が「そうだ、あの有名なホトトギスに所属して指導を受けよう」と思うことが多いからかもしれない。「ホトトギス」は俳壇のブランドだということですな。なにせ子規・虚子から続く結社である。
これもよく知られていることだが「ホトトギス」は虚子、その息子の高濱年尾、年尾の娘の稲畑汀子、汀子の娘の稲畑廣太郎さんと四代に渡って世襲されている。「文学の世界で世襲だぁ?」と俳句に縁のない文学者は驚くことが多いが、それがまあ俳句の世界というものである。世襲でないにせよ、結社主宰の禅譲による継続などにまったく違和感を抱かなくなったら俳壇という場所にすっかり馴染んだと言ってもいいだろう。
このような俳壇システムを盤石のものにしたのは虚子である。教科書的に言えば近・現代俳句の祖は子規である。しかし俳壇ではそう捉えられていない。虚子自身、何度も自分は子規の圧倒的影響下にあると書いている。が、虚子の後継者たちは子規と虚子は子弟関係ではなく対等な友人関係だったのであり、虚子こそが近・現代俳句の祖だと微妙に変更を加えていることが多い。
で、だからと言って結社や結社主宰の世襲・禅譲、俳壇的認知の歪みを糾弾したいわけではまったくない。それはまあ、ちょっと頭が良くて向こうっ気の強い俳人たちがイヤになるほど繰り返して来たことである。にも関わらずこの俳壇システムはまったく変わっていない。やってみるだけムダということですな。
つまりもしほんのわずかでも現状の俳壇システムに疑問を抱くなら、捉え方の審級を変えなければならないということである。簡単に言えば目に見える現実システムを批判するのではなく、なぜそれが現実システムとして有効に機能してしまっているのかを考えるわけだ。
角谷昌子さんの連載「俳句の水脈・血脈―平成・令和に逝った星々」第六回は阿波野青畝。明治三十二年(一八九九年)生まれで平成四年(一九九二年)に九十三歳でお亡くなりになった。言わずとしれたホトトギスの四Sのお一人である。
これもいまさらだが一応説明しておくと、大正末から昭和初期にかけて虚子主宰の「ホトトギス」は飛ぶ鳥を落とす勢いになった。「ホトトギス」同人でなければ、つまり虚子に才能を認められなければ俳人にあらずという時代だった。虚子は子規死後しばらくは「ホトトギス」運営に苦労したが、じょじょにノウハウを蓄積して盤石の結社誌に鍛え上げていったのである。四Sはホトトギス所属の若手俊英俳人たちであり、水原秋櫻子、山口誓子、高野素十、そして阿波野青畝である。次世代の俳壇を担う若手俳人たちだった。
ただし好事魔多しと言うべきか、昭和三年に秋櫻子が「馬酔木」を創刊して虚子に離反した。誓子も秋櫻子に続いた。四Sの二人までもが虚子に反旗を翻したのだった。当時の文章を読めば明らかだが、秋櫻子は客観写生一辺倒の虚子「ホトトギス」に不満を抱き、主観重視の俳句を提唱した。
青畝は虚子の書簡を横軸に表装して大切にした。のちに拝見した岸田稚魚は、青畝俳句を好んだ石田波郷が真に客観に徹すれば主観は自ずから投影されると虚子の文章を解釈していたと述べた。だがこの書簡で虚子はあくまでも写生について説いただけで、主観には触れていない。客観写生をそのままに受けとるか、主観にまで考え至るかで、俳人として凡庸に終わるか否かの違いが出よう。青畝が主観・客観を区別しなかったのは、のちの文章で明らかだ。青畝は写生を言葉の修練として独自の言語世界を深めていった。
角谷昌子 連載「俳句の水脈・血脈―平成・令和に逝った星々 第六回 阿波野青畝」
角谷さんの文章は、俳壇的には必要十分なものである。〝俳壇的には〟と留保を付けたのは別に難癖ではない。俳壇では厳密なことを言わないのが粋である。主観と客観もそうで、両者を厳密に論じたりしない。
虚子が「あくまでも写生について説いただけ」で終わったのは事実である。図式的に言えば秋櫻子はそれに反発し、輝かしい主観俳句を標榜して「ホトトギス」から離反した。では「ホトトギス」に残った青畝や素十が写生一辺倒だったのかと言うと誰が見たってそうではない。青畝が「主観・客観を区別しなかった」のも確かであり素十も然り。逆に言えば主観重視だったはずの秋櫻子や誓子が客観を排除したのかと言えばそれもない。
つまり主観、客観は二項対立のようでいて対立していない。両者は対等ではないのだ。俳句は客観中心でそれを徹底すれば主観を表現できるようになるというのが多くの俳人たちの共通認識である。
これをもう少し突き詰めて考えれば、俳句ではなぜ客観中心になるのかが問題の焦点である。問題は「俳句は客観表現」(簡単に言えば)ということであり、主観要素はサブに過ぎないということである。
さらに言えば主観は本質的に〝作家独自の思想〟ということである。何ものにも代換えできない〝唯一無二の作家の特徴〟だと言ってもいい。なにをやっても俳句が客観表現であることが揺るがないなら、主観、つまり作家独自の思想(特徴)は表現しにくいことになる。これもまた確かなことであり、作家の主観(独自性)を発揮しようとして季語や切れ字を排し、五七五以外の形式を試したりしても上手くいかない。たいてい一過性の流行で終わる。いろいろやってはみるのだが、双六のように虚子「ホトトギス」的客観俳句の方に戻ってしまうのである。
ではなぜ俳人たちが客観と主観の二項対立を曖昧なまま放置しているのか。まあはっきり言えば、自分(俳人)は唯一無二の思想(特徴)を表現している作家だと信じたいからである。小説家や自由詩の作家と同等の唯一無二の思想(特徴)を表現している作家だと言いたいわけですな。だから客観、客観と言いながら、それと同じくらい俳人は強い主観を表現していますよ、という主張になる。しかしうんと遠くから見つめればそりゃ無体だよ。
俳句雑誌には現実描写(客観表現)にわずかな主観を織り交ぜた作品がずらりと並んでいる。相対化して言えば客観俳句であり作家の独自性はほんのわずかだ。よほどの俳壇インサイダーでない限り、俳句を読んで誰の作品か当てることはできない。たまにエゴの強い独自俳句もあるが、たいていイビツで「こりゃ違うな、長続きしないな」と直観でわかる。
虚子が偉大なのは明治維新以降に日本に流入した欧米的自我意識(作家独自の思想・特徴)などといった下世話なもの(俳句では、という限定付きだが)を徹底排除したことにある。虚子俳句もまた主観と無縁ではなく、客観を徹底することで主観を表現している。道行きは違うが四Sの作家たちがやったことを先取りしている。
じゃあ虚子のように俳句は客観表現と明鏡止水のような諦めの境地に達するのが正しいのか。恐らくそうでしょうね。俳句は逆接の文学だから、まず徹底して諦めなければ本質に届かない。俳人は俳句に滅私奉公する赤子である。それは結社師弟制度や結社世襲・禅譲、個人句集より歳時記の方が大事といった俳句を巡る現実があからさまに示唆している。俳人全員が俳句の継承に血道をあげている。つまり俳句と対立する主観(作家独自の思想・特徴)を標榜してもムダ。むしろ主観を排して俳句そのものになれば念願成就ということになる。
蝸牛や降りしらみては降り冥み 阿波野青畝
岡野隆
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