俳句門外漢の俳句入門のつもりで角川「俳句」の時評を始めて早半年を超えるに至りました。当初は「角川」という大出版社の名前に幻惑されたのか、この月刊俳句総合誌「俳句」を読みさえすれば「俳壇」のすべてが分かると勇んだ次第でしたが、どうやら昨今の「俳壇」とやらはそんなに単純ではないらしく、いっこうにその片鱗すら見えてこないのが正直なところです。というよりもこの「俳句」誌は、詩壇における「現代詩手帖」のような「詩人」をターゲットにしたいわゆる業界誌の類ではなく、「俳人」に憧れる俳句初学者の啓蒙を目的とした教科書的な雑誌だということが分かりました。初心者のうちから「俳壇」に関心を持つような大それた方はそう多くはないでしょうから、売れてなんぼの大出版社的マーケッティング戦略からすれば当然の編集スタンスなわけです。そうしてみると毎月の巻頭を飾るカラーグラビアに登場する「俳人」諸氏の、思わずこっちが赤面しちゃいそうなグラドル並みのポージングも理解できようというものです。
つまり角川「俳句」とは早い話が俳句アイドル雑誌なのです。毎月入れ替わり立ち替わり登場する座談会のゲスト俳人や、啓蒙のための原稿を寄せる先生俳人や、初心者でも楽しく読めるエセーを連載する売れっ子俳人は、みんな一様に「アイドル」俳人なのです。アイドルはファンの心を掴もうとあの手この手を尽くしたサービスをします。一方でファンは次から次へと容赦なく新たなアイドル探しに奔走します。そうしたファンとアイドル双方のニーズを満たす情報媒体としての役割を角川「俳句」は担っているのです。とは申しましても、当コンテンツは「アイドル界」かと見紛う「俳壇」のゴシップを語る筋合いのものではありません。文学を名のる以上つねに文学的な事象を取り上げていく義務があります。「俳句」誌上の盛りだくさんな記事のなかから、とくに「往復書簡」による『相互批評の試み』をほぼ毎回欠かすことなく取り上げているのは、この連載企画がまさに文学の問題を扱っているという単純な理由に他なりません。
この『相互批評の試み』が10月号で第10回ということは、今年の1月号から連載が始まったと考えて間違いないでしょうが、過去の相互批評の流れをまとめてみますと、まず急進的俳人を代表して宇井十間(ういとげん)氏が、往信で俳句の革新を図るべく保守批判的な問題を定義します。次にその返信で、伝統的俳人を代表する岸本尚毅氏が、定義された問題の論点を俳句の本質的な問題へと還元します。この段階ではせいぜいがジャブの応酬といったところで派手なバトルには至りません。そして次号での往信で、今度は岸本氏が俳句の根源的(=ラディカル)な問いを宇井氏への反措定として投げ返します。するとその返信で宇井氏は、ラディカル(=急進的)な態度で保守的な殻を破るべく俳句の未来像を語ります。と説明すると、われわれが期待するような切った張ったの「論戦」にはついに至ることはなさそうです。
この「往復書簡」という方法では、そもそもお互いの発信にそれ相当のタイムラグがあるため、最初から「論戦」のようなバトルは期待できません。もちろん「往復書簡」とはいうもののいまどき郵便を使っているとは思えませんので、おそらくメールでのやり取りかとは思います。聞くところによれば宇井氏は現在海外に在住とのことです。そうしますと下手に勝った負けたのバトルをやってしまっては、これからの「俳壇」=「アイドル界」をリードするうえで二人の間にしこりを残しては何かとまずいこととなりそうですし、はっきりとした勝ち負けは「アイドル」としての今後にとって致命傷になりかねない。そうしたことを慮ったうえでの好都合な方法として、編集部が「往復書簡」を取り入れたと考えたほうがより自然です。
編集部の都合とは別に、この「書簡」という方法にはエセーや評論とはまた一味違った楽しみ方(読み方)があります。それは文章の端々から筆者の「本音」を読み取るということです。文章を生業にしている人ほど、文章で本音を語ろうとはなかなかしないものです。ですが書簡となると肩の力が抜けるせいか、ちょっとした言い回しに書き手の本音が出てしまうことがままあります。今回の角川「俳句」時評では、この「往復書簡」から宇井氏と岸本氏の本音に迫ってみたいと思います。
前号(第9回)から今号(第10回)にかけては、「叙情と劇の間」というタイトルでの書簡のやり取りが行われています。問題提議は例によって宇井氏の往信ですが、冒頭で氏は「今回はやや視点を変えて、俳句における叙情性(および劇という方法)について考えてみたいと思います。」と述べ、若手俳人のなかでもトップランナー的存在である高柳克弘氏にスポットを当てます。といっても往復書簡の御当人とておふたりとも四十歳代でしょうから俳壇ではまだまだ若手といえます。が、高柳氏はいまから6年前の2004年、24歳で「俳句協会賞」を最年少受賞し、翌年には25歳という異例の若さで、藤田湘子亡き後の「鷹」編集長に就任しました。高柳氏こそは、まさに俳句界のホープともいうべき新進気鋭の「アイドル」俳人なのです。
宇井氏は俳句における新たな叙情の使い手として、自分より一回り下の世代である高柳氏を「敢えて」取り上げます。いわく「彼(高柳氏)の俳句では、架空の出来事や行為の導入によって、日常の体験を劇化するという方法がしばしば採用されています」。また高柳氏の叙情表現の特色は「日常的な体験の断片を拾い上げて、それをより普遍的な語り手の劇という構図に一般化するという操作です」。そして俳句表現における叙情の「普遍性を、高柳さんは演劇という別の方法で達成しようとした」と総括します。さらには、作者の主観的かつ個人的な喜怒哀楽を、客観化かつ普遍化する俳句特有の叙情表現のひとつとして、高柳氏の俳句を見極めるべき「現代の叙情」であるとほぼ結論付けます。
ここで仮説でもいいからいったん打ち切っておけば、論点としてはそれなりに明確なまま次の議論へと進むことができるのでしょうが、宇井氏は、この追い越さんばかりの勢いで自分に迫りつつある次世代のトップランナーに対し、先ほどの「敢えて」をちらつかせます。つまり、より優れた後続世代に対する潜在的な焦燥感を隠すために、「敢えて」当の後続世代に対する出来過ぎともいえる可能性の賞賛をしてみせるのです。
私は、底深い日常性に還元されない歴史性を内包した句を思想詩と呼びました。歴史が時間において変化するものの総称であるとすれば、俳句における日常性の叙述の中にアクションを回復する試みは、それ自体が思想性を帯びたものであると言うこともできます。(中略)劇という現代の叙情は、そのような越境的な時代に対応する一つの試みであると考えることもできるでしょう。(中略)高柳さんの俳句は、(中略)思想詩としての俳句の可能性を内包しているところに、私は現代性を感じるのです。
宇井氏の往信の結びから引用しました。彼が提示した「劇における叙情という方法」は、「歴史性を内包した思想詩」としての俳句の現代性を語るための疑似餌だったようです。また問題の論拠として言及した高柳氏の俳句にしたところで同様です。宇井氏はそれを「架空の行為」や「劇性の導入」という甘言で持ち上げましたが、それではかつて寺山修司という十代の俳人が、その天才的早熟を武器に詠い上げた「フィクション」という青春の焼き直しに過ぎません。高柳氏の俳句の特質は別のところに見出されるべきです。
岸本氏はすでにそこに気が付いているようです。その返信で岸本氏は、宇井氏の未必の故意的な自論への誘導を巧みに交わすかのように、「個や私に即した感情の発露としての『叙情』と、舞台上で俳優が演じる人間描写としての『劇』との関係を念頭に置くことは極めて有益だと思います」と前置きしたうえで、石田波郷の「俳句は一人称の文芸」を「俳句は『一人称』を主人公とするミニ演劇のような文芸」と言い換えます。
俳句における「叙情」と「劇性」の関係を敢えて整合的に述べるならば、「俳句を書く行為は、叙情する書き手が、自分の心情を効果的に表出するためにミニ演劇のように俳句形式を用いることである」という説明は可能だと思います。「劇性」が「叙情」を増幅(あるいは誇張)するのです。
この一文だけ読めば、岸本氏は議論をまぜっかえしているように思えるかもしれませんがそうではありません。論点を別の言い方で繰り返しているように見せかけて、実は宇井氏の策略に待ったをかけているのです。待ったといっては控え目過ぎるかもしれません。むしろ策略を棚上げしたうえで、改めて闘いを持ちかけているといったほうが正しいです。
少なくとも俳句においては「叙情」と「劇性」とは本質的に親和的だと私は考えます。もちろん「親和的」だと言っただけでは、「劇の普遍性は、叙情が本来持つ主観的な感情の発露とは、奇妙な緊張関係にあります」という宇井さんの問題提議に答えたことにはなりません。
次回の往信では、この「奇妙な緊張関係」と「俳句を一つの劇として明確に再定義」することの意味(意義)について私なりに考えてみたいと思います。
岸本氏の結びをそっくり引用しました。宇井氏のあいまいな結びと違って一つの考えがはっきりと提示されています。また、宇井氏の「奇妙な緊張関係」というわかったようでわからない言い方を二度引っ張り出して一発ジャブをかますのを忘れてはいません。岸本氏はそのアイドル然りとした柔和なイメージとは裏腹な、なかなかのしたたかな隠れアイドル俳人かもしれません。こうなると次号での往信にがぜん期待が沸いてきます。
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今号(連載第10回目)は岸本尚毅氏の往信で始まります。岸本氏は、前号で登場した高柳克弘氏の、劇の要素を俳句に取り入れる試みについて語り始めますが、俳句表現における一人称の叙情を、「十七音のミニ演劇」によってフィクショナルな主人公として普遍化したとしても、もともとの「一人称の文芸」としての俳句観とは対立しないと断言します。
俳句は「n人称(nは読者の任意)」でよいと私は考えます。句の主人公と作者が同一人物かどうかを詮索する必要はありません。「十七音のミニ演劇」を演じている俳優の姿が観客(読者)に伝わればよいのです。
つまり俳句における叙情表現の普遍性とは、作品の主体(主観)を越え出てなおアプリオリに読者へと享受され得る、ということを言いたいのだと思います。こうした作品読解に関する基本的なスタンスは、作品を「テクスト」と名付け「作者」と別の主体と捉える「テクスト論」として文芸批評ではなじみの深いものですが、評釈という「作品=作者」を前提とした俳句特有の批評システムのなかではじゅうぶん受け入れられているとはいえないのが現状です。
しかし岸本氏はこうしたテクスト優先主義の主知的な批評だけでは、俳句を鑑賞するのに十分とはいえないというお考えも同時にお持ちのようです。それを氏は「私などは、ともすれば俳句はひそかな呟きのようなものだと思いがちです」と述べ、伝統的な俳人のメンタリティーとして伝統俳句を代表する俳人である飯田蛇笏の、「俳句文芸にたずさわるほど地味なものは外にあるまい」という言葉を引用します。つまり俳句には俳句の丈にあった表現世界というものが厳然としてあり、なんでも俳句で表現できるわけではない、という文学ジャンルを横断的に通観したうえでの俳句に対する認識です。
そうした認識が正しいか間違っているかはともかくとして、俳句の外部へ出たうえで改めて俳句に光を当てようとする姿勢は共感できます。ただ岸本氏の奥ゆかしさはそうした認識を声高に主張しようとはしません。敢えて「そのような韜晦(とうかい)や照れ臭さ」という言い方で先輩俳人諸氏の人間性に置き換えたうえで、そのような人間固有の感情を捨て去ることで、「俳句が力強いメッセージを持つ可能性は確かにあると思います」と遠慮がちな物言いの陰に確かな手応えを滲ませています。
さらに氏は可能性のそのまた先にも視線を届かせ、可能性の先走りに歯止めをかけておくことも忘れません。結びの一文を引用します。
俳句における「主観的な感情の発露」をひそやかなモノローグとして狭く捉えるならば、「劇の普遍性」を志向した俳句は芝居がかった、わざとらしい句に見えることでしょう。しかしそこに俳句が渡るべきルビコン川があると考えてよいと思います。
つまり気をつけて渡れよといっているのです。それは俳人(=アイドル)から初心者(=ファン)への啓蒙的なメッセージにも聞こえますが、それよりむしろトップアイドルを演じねばならない自らに対する自戒の言葉とも受け取れます。さらにこれは深読みかもしれませんが、岸本氏から高柳氏への親身な助言かもしれません。それはこの往信の最後のほうに、極めてなに気ない風を装うかのようにして巧妙に仕込まれた、次の一文からも察することができます。
高柳克弘さんの句には表現の巧さやセンスの良さに加え、図太さ、臆面のなさ、胡散臭さを感じます。これは悪口ではありません。自分には無い資質を持った若いライバルへの羨望と嫉妬ゆえの物言いです。
書簡の体裁が肩の力を抜いた筆者の「本音」を知らず知らず引き出すといいましたが、それと真剣勝負で原稿に向かうのとは話が別です。「相互批評」である以上、岸本氏にしろ宇井氏にしろ真剣勝負のつもりで書いているのは間違いありません。そうしたなかでこのような年少の後輩への「羨望と嫉妬」をあからさまに吐露できる岸本氏には、月並みな言い方ですが俳人としての器の大きさを感じます。こうした疑いようもない「本音」こそが、真の「アイドル」としてのファンサービスなのです。岸本氏のこの往信で実は、今回の「叙情と劇の間」と題された討議の決着はほぼ付いてしまったということができます。
ところでこの第10回のタイトルには、おそらく宇井氏の提案でしょうが、「歴史について」という副題が付け加えられています。宇井氏はこれまでの往復書簡の中でたびたび、「思想詩」としての俳句における「歴史性」について言及しているからです。ちなみに「思想詩」と「歴史性」は、宇井氏が俳句を語る際のキーワードです。
岸本氏は今回の往信の最後に、これまた巧妙な問いかけ(=疑似餌)を仕掛けました。それに応えるかたちで宇井氏は、新たな一つの仮説を提示します。
「劇とその行為がそのドラマ性以上の意味を持ち始める可能性」とは、簡単に言えば、劇を通して、俳句におけるリリシズムが歴史性を持ちはじめる可能性のことであると言っておきましょう。繰り返すように、歴史性は、思想詩としての俳句を考えるとき、避けて通れない問題の一つです。
俳句の叙情性が歴史性を持つとは一つの語義矛盾です。前回の往信で宇井氏は、詩を二分する叙事詩と叙情詩から叙情の問題を説明し始めていますが、叙事詩とは歴史を内包した詩であるという定義に従えば、叙情詩が歴史性を持つことは、少なくとも詩の世界では矛盾するとしかいいようがありません。次の引用文は宇井氏の歴史性にまつわる見解です。
歴史とは本来変化や意外性、アクションとともにあるものであるとすれば、劇としての俳句は、それ自体が歴史という主題を内包しています。(中略)「俳句」という制度においては、そのような歴史性はつねに隠蔽される傾向にあります。というのも、俳句においては自然(の季節性)や日常性という変化しないものがいつも思想の中心にあるからです。
宇井氏がいうところの歴史性とは、有季定型を墨守する伝統俳句における、花鳥諷詠という日常性へのアンチテーゼのことです。つまり宇井氏は、歴史性や思想詩という一見目新しい概念を持ち出すことで、伝統的な俳句に対する疑義をぶつけようとしているのです。そう考えると次の一文あたりが案外宇井氏の本音といえます。
秋桜子においては厳然としてあった自然の不変性への信頼が、現在では大きく揺らぎはじめていることがよくわかります。それをもう少し別の観点から言うとすれば、季語という方法自体がもはや説得力を持ちえなくなっていることの証拠であるのかもしれません。
仮にこれが宇井氏の本音であるとすれば、その賛否はどうあれ、一つの見識として討論を有益に締めくくることもできたでしょう。しかしここから宇井氏は、若手のトップアイドル高柳氏を「敢えて」持ち出したことに対する負債を回収しようとするのです。
「現代の社会における」叙情の姿を見極めたいという高柳さんの言葉は、俳句表現の中にアクションとしての歴史を取り戻す必要があるという私の問いかけに対する一つの答えを用意しているものと考えることも可能です。
どのような答えかを宇井氏は「敢えて」明言していませんし、「用意しているものと考えることも可能です」と大変口幅ったい言い方をしていますが、この一文の直前に「(変化する)歴史というものに関わらざるをえない彼の置かれた状況」とあるように、彼(=高柳氏)の意図に対する考察を抜きにして、自らの論旨の都合に高柳氏の俳句をむりやり押し込めようとしています。ここで宇井氏が言うところの「アクションという歴史」とは、具体的に「東日本大震災」という歴史を指しています。それは宇井氏が高柳氏の「サンダルをさがすたましひ名取川」という震災詠に言及していることからも自明です。このように論旨を導き出すために震災をほのめかせるのは、説得力という意味で効果的です。宇井氏はなかなか巧妙な確信犯と思われます。結論として宇井氏は、岸本氏の「俳句が渡るべきルビコン川」を引き合いに出し、俳句表現の「限界」を象徴する「川」とは、俳人自らが作り出した幻想に過ぎないといいます。
歴史を時間において変化するものの総称であるとすれば、そのような「川」もまた歴史とともにあると言えるでしょう。いままで「川」と思っていたものも、いつかは消えてなくなるのでしょうから、そのような「川」に必要以上にこだわる必要はないのではないでしょうか。
しかし、「時間において変化するもの」が全て、「いつかは消えてなくなる」とは限りません。消えてなくなるのは、これ見よがしな見せかけの技巧だけで、その本質は残ります。俳句に携わる以上は、この一事にこそ自覚的であらねばならない。俳句という伝統的文学ジャンルにおける前衛(=ラディカリズム)の難しさは、まさにそうした地平にこそ一本の消えざる川のように横たわっているのです。先ほど思わずこの討議の決着はすでに付いてしまっていると先走ってしまいましたが、それはこの点に関する認識が、岸本氏にはあって宇井氏にはないと確信したからに他なりません。もちろん決着の付け方は人それぞれかもしれませんが、私の時評では岸本氏の勝ちということを改めて断言します。
以下は蛇足ですが、この時評では角川「俳句」をアイドル誌であると断じ、そこに登場する「俳人」をアイドルに喩えて語っていますが、それはけっして揶揄しようとしてではありません。むしろ「アイドル」という自覚こそが、角川「俳句」のマーケッティング戦略を、ひいては「俳人」諸氏の啓蒙活動を極めて健全な状況で存続させうると考えるからです。初学者という「ファン」が俳人という「アイドル」からの啓蒙を、いつまでもありがたがって盲目的に受け入れてくれるとは限りません。「ファン」は情け容赦なく「アイドル」をふるいにかけては選別します。「アイドル」が「ファン」に選ばれ続けるためには、啓蒙によって自己批判や自己変革や自己研鑽を正確に積む必要があります。ときにそうした啓蒙が、「アイドル」との相互批評というかたちで行われることもあります。こうした「アイドル」の困難な宿命に無頓着な輩が増えると、詩壇における詩人がごとき、啓蒙という自己変革を忘れたあげく、閉塞状況を嘆くしか能のない仲良し集団になってしまいかねません。つまり「アイドル」と「ファン」の区別がなくなると、みんなが自分を「アイドル」と思い込んでしまうのです。自分が「アイドル」でいるには、自分以外の「アイドル」との共同幻想が不可欠なのです。そのような詩壇に対して、さいわい俳句界は俳壇を含めてもいまだ健全な環境にあると思われます。老婆心ながらそうした環境であり続けて欲しいという願望こそが、「アイドル」という喩えの真意なのです。
釈照太
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■