公開中の角川映画『天地明察』も、その地味なテーマの割には中高年を中心に堅実な観客動員を記録しているようです。前回も書きましたが『俳句』8月号の表4(裏表紙)にて、俳句雑誌としては珍しい映画のカラー広告をやっちゃった角川グループの、この映画に掛ける期待の大きさが伺われます。それにしても最近の映画館はどこもかしこも中高年で埋め尽くされています。時間とお金があるだけで映画館に足を運ぶとは限りませんから、これ以外に重要な用件が付加されているものと思われます。簡単に言えばそれは「教養」です。つまり頭のいい中高年が増殖しつつあるということです。
増殖しつつあるといいましたが、中高年になってから頭が良くなるわけではありません。頭がいいとはつまり学歴が高いことの喩えです。具体的にいえば、団塊の世代といわれる絶対数が多い中高年のなかでも、さらに大卒者の占める割合が増えたということです。こうなるとコミュニケーションとは恐ろしいもので、知らず知らずに世代全体の教養力の底上げ現象を生みます。底上げされた教養力は楽しいだけの一過性の娯楽では満足しません。楽しいだけでなく、同時に自らの教養力も高める娯楽として、「映画」を選択することとなるのです。映画館に足繁く通う中高年夫婦の仲睦まじい姿からは、映画芸術を楽しむに値する「教養」の後光が射していると同時に、どんな映画であれ観るものすべてを自らの「教養」とするべく、貪欲なる知識への渇望が伺えます
しかし、映画は極めて孤独な娯楽でもあります。いくら夫婦で肩を並べて座っても、上映中のおしゃべりは禁物です。もちろん観終わった後でお茶でも飲みながら感動を語り合うことはできますが、それとて何時間も語り合うことは年齢的に極めてまれでしょう。逆に感動が強ければ強いほど、自分の胸のうちにそっと収めておきたくなるのが人情ってやつです。人情といえば、老後を意識すればするほどに、人は孤独を恐れるようになります。「教養を得られても、それと引き換えに孤独になるのはイヤ」。映画にのめりこめばやがてこの孤独という壁に否応なくぶつかります。
では、お金と時間がある贅沢な人々にとって、教養が高まり且つけっして孤独に陥らない娯楽とはなにか。それが「俳句」という娯楽なのです。よく俳句とは「座」の文芸であるといわれます。その本意は、俳句は作者以外の第三者による読みを経たうえで作品として成立する、という俳句原理にあります。現実的には、結社などの集まりの場(=座)で、弟子が作った俳句作品を師(=主宰者)がいかに読むかによって、その作品の価値が決まるという俳句的事情を指します。
もちろん作品の価値とは作家が決めるものではなく、あくまでも読者なり観客なりが決めるものなのですが、俳句の場合はそうした芸術全般に通じる常識とは多少趣を異にしています。たとえば句会のように、まず師を中心とした座が形成されたうえで弟子の作品が披露され、それを師がいかに読むかというその読み自体が作品の価値を決めるのです。俳句の座において師とは、まさに降臨した神に値します。宗教における神と僕(しもべ)のように、俳句にとって師とのコミュニケーションこそ最も重要であり、また弟子同士を含めた座内のコミュニケーションも同様に不可欠なのです。「俳句は存問(=挨拶)」という通り、俳句はコミュニケーション文芸なのです。
9月号には、「主宰に聞く!採る一句、採れない一句」と題する「実用特集」が組まれています。七人の侍ならぬ結社の主宰7名が、句会や結社誌に投句された弟子の句の選考基準を語っています。敵に勝つ(=採られる)ためには先ず敵(=師匠)を知るべしという趣旨の、総合誌の生命線ともいうべき俳句初学者に対する啓蒙特集です。つまり師匠との円滑なコミュニケーションのための第一歩として、師匠の俳句に対する基本的な考え方を知っておきましょうという特集です。
しかし「実用特集」とうたわれていても、俳句指導者の選句眼に対する興味は、なにも初学者や俳句実作者だけにはとどまらないと思われます。俳句文学に関心のある多くの人にとって、創作の最前線で行われるこうした作品評価は俳句ならではの「儀式=慣習」として映るでしょうが、それが「しきたり」であればなおのこと、俳句の原理に触れるための接点足り得るわけです。なぜなら選句眼とは、指導者の個性にゆだねらた一過性のものではなく、長い俳句史のなかで師から弟子へと受け継がれてきた俳句の価値基準だからです。
とはいっても一人当たり見開き2ページの誌面では、俳句の価値基準である自らの選句眼を、大方の読者に理解されるように語るのは困難です。にもかかわらず7名の主宰者それぞれが、自ら関わった句会などでの選句を俎上に載せ、「この句はここが良かったから採った」とか、「いやここが悪かったから採らなかった」、はたまた「ここをこうすれば採ったのに」、と極めて具体的かつ念入りに選句の現場を再現しています。ここが「実用」たる由縁であります。
たとえば、「雲の峰」主宰の朝妻力(りき)氏は、自らの選句眼を「チェックポイント」と言い換えて、「俳句は有季定型、そして感動と表現。このような観点から、選句に当たっては有季・定型・感動・表現の四項目に分け、それぞれチェックポイントを設けている」と説明します。そして、「有季…季語を効果的に使う」、「定型…定型を生かし韻文としてのリズム感を出す」、「感動…読者の共感する情景、発見」、「表現…日本語を正しく用い、句形正しく表現する」と、それぞれのチェックポイントの勘所を、具体的な作品を例示しながら簡潔に語ります。一読して、これなら俳句を習い始めたばかりの読者も容易に理解できそうだと思うのですが、よく考えるとこうしたチェックポイントには、「なぜ俳句にはそれが大切なのか」という本質的な問いが、あたかも自明の理として端折られています。端折られているといったのは、「そこは自分で勉強するところだよ」という言外の意味が込められていると思えるからです。俳句の師弟関係では、時として無言のコミュニケーションも大切なのかもしれません。
「運河」主宰の茨木和生氏は、大学で教鞭をとる「現代俳句講座」の講義ノートを公開しています。それによると茨木氏は、投句された作品を次の四項目に分類して選句するとのことです。「(A)佳作作品(添削をしないで)。☆印は優秀作品。(B)こう添削(推敲)すれば佳作になる。(C)佳句を得られない作品。(D)句としてはできているが、類句・類想のある作品」。もちろん(A)は採れる一句、(B)は採れる可能性のある一句、そして(C)と(D)は採れない一句です。前出の朝妻氏のような、分類の根拠となるべき価値基準の提示はありませんが、添削によって採れる一句というところがコミュニケーション文芸としての俳句らしいところでしょうか。俳句作品とは師匠と弟子との共同制作でもあるのです。ただし、実作者の多くが意識するしないに関わらず陥りそうな「類句・類想」については、「類句・類想を恐れるなとは教えているものの、どれが類想句なのか見極める目を日ごろから養っておくのも大事なことです」と、あえて突っぱねるかのように言い切ることで、俳句におけるオーバーコーチング(教え過ぎること)を諌めています。
7人衆のうちの最年少、「四季」主幹の松澤雅世氏は、「俳句においては、実作者イコール読者です。書き手と読み手は、同じ比重で同じ質を背負わなければなりません」と冒頭で述べたうえで、選句の基本として「1.韻文性 2.詩心 3.独創性」の三つの柱を提示します。が、松澤氏は最年少ゆえでしょうか、この中でも独創性を重要視しているように伺えます。選句で採らない句を例示したうえで、「両句とも著名な詩句を捉えただけで、先達の作品のパロディーにも下敷きにもなり得ておらず、安易な借り物となってしまっています。(中略)人口に膾炙されている語句語感は避けることにこしたことはありません」。また、「借り物の詩句ではなく、自分の言葉で描写したいですね」「慣用句や成句の四字熟語には、定まった概念があり、概念をまるごと持ち込んでは詩精神とは言い難いわけです」といった批評からは、「引用」という現代文学の方法に自覚的であるという前提での、独創性=作者の主体性を重要視する現代俳人らしい選句眼が読み取れます。
こうした初学者の啓蒙を目的とした「HOW TO」は、具体的であればあるほど実用に向くかというとそうとも限りません。特に俳句は17文字で作られた作品なので、その中のたった1文字が変わっただけで評価が反転することもあり得るのです。そういった意味で俳句作品の評価は、偶然に左右されるといっても過言ではありません。つまり本特集のような師匠の選句眼から俳句を考えようとするときには、俳句作品を虫眼鏡で覗くようなよりミニマムな視点よりも、多少のブレによっても左右されない大局的な視点のほうが有効な場合があるのです。
「いには」主宰の村上喜代子氏は、冒頭から選句という俳句特有の儀式に望む胸中を次のように語ります。「(選句には)長々と時間をかけていられない分、常日頃からしっかりした自分なりの選句基準を持っていたい。それでも何が出るか分らないのが句会。あらかじめ定めていた基準を破る句が出て来るかもしれない。そんな句が現れることをいささか期待して句会に臨んでいる」。この「何が出るか分らない」というところが俳句の面白さであり、俳句の原理に通じる枝道の一本です。基準はあくまで基準で、基準どおりの作品が面白いわけはありません。村上氏は文末で師(大野林火)についてこう言及します。「文法破りの句も多く、よくやり玉に挙げられているが、おおらかな抒情精神を全うした。そういう師の詩精神にこれからも学びながら選句したいと思う」。繰り返しますが、俳句原理へと通じる一本の枝道とは、この「おおらかな抒情精神」といえるでしょう。それが具体的にどうすることかは人によって異なりますが、このようなイメージこそ俳句作品として具体化していく価値があります。
「徒花(あだばな)は咲かせない」と題した「藍花」主宰の谷中隆子氏は、採る採らないという選句の手の内明かしにとどまらず、自らの作句信条ともいうべき心構えを諭します。邪念を諌め、脱俗を心せよと説いたうえで、「句を作る事は、孤独と覚悟が伴う。句を生み出すことは、覚悟を決めることである。そして、孤独な一人の世界の作業でもある。一人歩きする句に対しての、固い信念と責任もまた伴って来るであろう」とは、まさに女性俳人ならではの出産のメタファーで語る俳句の心得です。もちろんそれは俳句だけではなく、芸術のあらゆるジャンルにおける創造に当てはまる信条です。
一方で、自らの選句眼に絶対の自信を持つ主宰もいます。「海」主宰の高橋悦男氏です。いわく「私の選句の基準は一言で言えば解るか解らないかである。(中略)私は俳句にはよい句と悪い句、そしてよくも悪くもない句の三種類があると思っている」と、竹を割ったようなといいたくなるほどの解り易さです。もちろんよい句を採るわけですが、「よい句と悪い句をどうして見分けるかと言うと、それは長年の経験と努力によって培ってきた選句力によるとしか言いようがない。言い換えれば直感である」。「選句力=直感」ときました。自信がないとこうは書けません。しかも自分で自分の努力を認めています。怪気炎は続きます。「直感というのは、案外正確で、選句は一種の職人芸だと私は思っている。秀れた職人の芸には狂いがない」と、極めて自信に満ちた文章です。蛇足ですが、私なんぞは鬼編集長からいつも「語尾に自信がない。もっと断言して書け」と怒られているので、高橋氏の自信がうらやましい限りです。
とはいうものの、最後の一人になりましたが「松の花」主宰の松尾隆信氏がいうように、「各種の大きな俳句大会などに投句された句は、瞬時に選句され、一字直せば特選になるかもしれない句であっても、没の句は顧みられることはない。選者の力量と価値観が一瞬に出て、一句の生死の決まる重要な場面である」わけですから、自信がないとやってられないのでしょう。「この採る作業は、俳句を世に出す最も重要な場面の一つである。心と心を触れ合わせながらの楽しい真剣勝負でもある」のですから、俳句の師匠は、俳句原理に精通していたり知識が豊富なだけでは務まりません。そこには弟子とのコミュニケーションという重大事が横たわっているのです。つまり、師匠としての資質というよりも、人間としての度量が求められるのです。
この「主宰に聞く!」は、人気シリーズと銘打たれています。どう人気なのかわかりませんが、改めてじっくりと読んでみると、単に初学者のための俳句コミュニケーション実用スキルではなく、師匠の選句という俳句的儀式を通して、俳句の慣習である師弟関係がなぜ必要なのかが理解できます。我々は俳句というとそれが文学の一ジャンルであることを前提に考えますが、俳句の本質とは文学という枠組みをはるかに超越したものであるといえます。俳句とは人の生業そのものなのです。生業であるからには、社会同様コミュニケーションが不可欠なのです。師弟のコミュニケーションによって、俳句は人と同様に成長するのです。
いや、そもそも文学に対する我々の捉え方に問題の本質があるのです。文学とは知によって解き明かすものでもなければ、ましてや知の遊戯でもありません。文学とは我々に与えられた難題(アポリア)ではなく、また一方的に説いてしまえばそれで終るものでもありません。文学とは人の生業そのものなのです。だからそれは作者と読者のコミュニケーションによって成長します。その地点に立ち返って、今一度俳句を考えるべき時にきています。文学対文芸、前衛対伝統という枠組みではなく、地上に現れて以来、天空の神を見上げ続けてきた人の生業として、いま俳句を考えるときなのです。
毎回この時評で取り上げてきた宇井十間氏と岸本尚毅氏との往復書簡「相互批評の試み」ですが、前回の時評で触れた「フィクションとリアル」に重なるかのようにして、「叙情と劇の間」と題し、今号より新たなテーマのもとで議論が始まりました。もちろん重なったのは偶然に過ぎませんが、トータルに詩の問題でもあるようなので、ゆっくり考えてみたく、次号とあわせて読みたいと思います。
釈照太
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■