玄侑宗久の「アメンボ」は、福島県双葉郡を舞台とする。堂々と原発モノ。人と人がすれ違う話で、線量への姿勢を踏み絵とする。
確かにそういうことはあろうと、うなづける。が、すれ違いは人の、また小説の常だ。原発によって、コミュニケーション不能がより激しくなったのだろうか。これを読むかぎり、すれ違いと孤独は本来的な人の業で、またそう伝えなければ “ 正しい小説のあり方 ” ではあるまい。
そのメッセージを正しく捉えると、原発事故はむしろ矮小化して映る。そうなると、小説の原発モノを書く、というのは大いなる矛盾をはらむことになる。小説のテーマと原発問題とは、どうしても相入れない。
なぜか。それは小説の対象が、個か社会かはともかく、また仮に詩的・言語的な表現をとったとしても、結局は人の有り様と心理を描くものなのに対して、原発は物理に過ぎず、それによる利権は損得勘定でしかないからだ。人はその立場に立てば、たいていは自分の利益になるように動くものだ、という原則からすれば、社会問題ではあったとしても、この時代固有の本質を表すものですらない。
責任者は責められるべきだが、それは彼らのとった行動が驚くべきことだからではない。人としてはごくありふれたことをしたに過ぎず、小説の興味の対象ではないのだ。ありふれているから罪が軽い、と言っているわけではない。罪の重さは社会的なもので、その社会的立場によって決まる。
しかしながら何かの事態が起こって踏み絵を踏まされる状況、それ自体はスリリングな心理的かつ小説的なものである。原発という現在の重大な社会問題を取り上げる素振りで、むしろ矮小化することを厭わなければ、双葉郡から逃げた者、逃げなかった者、子供という言い訳がある者、あるフリをする者、普段からの家族間の摩擦が顕在化した者、逆にそれを利用して解消しようとする者、これらの人々の間にドラマが発生することは必然だ。
そのきっかけは原発である必要はなく、前衛もしくはコメディ演劇であるような、おはじき一個の取り合いでもよければ、より大きく世界大戦、あるいは震災そのものでもよい。それらのきっかけは可変なパラメータに過ぎない。どのパラメータを選ぶかは、ドラマや小説の成立のあり方ではなく、読者へのアピールの仕方によるだけだ。たいていの読者は大戦とか原発事故とか、そんな道具立てだけを読んでいる。
アメンボ、というのは「分断された命の〈絆〉」の象徴であるらしい。だが、分断された命の〈絆〉というのは何だろう。命は分断されれば普通、死に至る。つまりは分断されたのは〈絆〉である。結局は人間関係の話であり、小説であるからには当然だ。「命」という生物学的な言葉を添えるのは、原発という物理への付き合いだろう。が、理科的な付き合いで言うならば、放射線が生命を脅かすことをもって「悪」であるのは、もっぱら人間の都合である。そもそも放射線はこの宇宙に満ちあふれていて、生命体が存在する地球というのが、放射線から隔離された特殊な環境であるだけだ。
池田浩
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