今月号の「群像」は「初夏短編饗宴」の特集が組まれていて、川上弘美さんが「不眠症の伯爵のために」を書いておられる。文芸誌時評ではできるだけいろんな作家の小説を取り上げたいと思っているが、川上さんはずば抜けてうまい。惹きつけられてしまう。もうだいぶ長い間続いていると思うが全盛期に入った作家のお一人だと思う。
そんな全盛期を感じさせる作家は何人かいらして、江國香織、井上荒野さんもそうだ。全員女性作家で川上さんは芥川賞作家だが江國、井上さんは直木賞作家である。ただそんな文壇的な区分とは別に、お三人とも作品の質は純文学だと思う。作品にはっきりとした思想がある。また女性作家に勢いを感じるのは偶然ではないだろう。
一昔前に上野千鶴子、富岡多恵子、小倉千加子さんのお三人が戦後作家を批評(批判)した『男流文学論』が話題になった。個々の作家への批評の是非は別として、戦後文学が男たちのもの(男流)だったのは確かである。杓子定規に言えば従軍作家たちによって戦後文学と呼ばれる大きなうねりが生まれ、戦争を知らない遅れてきた青年たちによる社会的・観念的闘争がまた新たな戦後文学を作り出した。その影響はうっすらとだが一九九〇年代まで続いた。
『男流文学論』の初版は一九九二年である。ちょっと皮肉に聞こえるかもしれないが、多くの代表的戦後作家が物故して、時代状況的にも戦後文学の勢いが止まった九〇年代だから正面切った批判ができた面はある。どの世界でもパラダイム転換には先行世代の死去を含む表舞台からの退場が必要だということでもあろう。ご存命の間の大物戦後作家たちは、もちろんブヒブヒに怖かった。
二〇〇〇年代に入ると戦後文学の影響は見事に消え去った。跡形もなく消滅したと言っていいほどだ。それにより一九七〇年代から八〇年代にデビューした多くの作家たちの作品も急速に色あせ始めた。戦後文学をなぞることがその時代の成功の秘訣だったからだ。これも皮肉な言い方に聞こえるだろうがメッキが剥がれた。もちろん戦後文学の遺産は厳然としてある。しかし多くの読者が好んで読むのは一九四〇年代から七〇年代にかけての戦後文学初・中期の作品であり、八〇年代以降のいわば衰退期の作品はあまり読まれていない。
戦後文学の男流とは、言い換えれば多くの作品主題が大文字の社会問題に置かれていたということである。第三の新人や内向の世代は日常生活の微細な人間心理を描いたが、大文字社会問題中心の戦後文学へのアンチテーゼという意味でこれもその流れの一つだった。
しかし二〇〇〇年紀の高度情報化社会、インターネット時代になると人々がこぞって注目する社会問題が揺らぎ始めた。もちろん戦争や経済危機など大問題は次々に起こる。しかしその捉え方は戦後に比べると遙かに複雑だ。問題は一瞬で多方向から検討・検証され確乎たる軸が立たない。インターネット時代は情報錯綜時代であり誰の言葉(思想)も相対化される。表面があって裏面・側面を描くような戦後文学的主題の立て方はほとんど不可能になった。そのダイナミズムを失った。
どんな場合でも例外はあるが、社会問題に口角泡を飛ばして夢中になるのは男が多い。戦後作家の中でいち早くポスト戦後文学的資質を持っていた村上龍さんの言葉を借りれば「男は消耗品」だからだろう。ユング的に言えば「女は自ら生みだし男は無から生み出す」と言ってもいい。
男性作家の凄みはたいてい天に舞い上がるような強烈な観念性だ。ご飯やファッションや恋愛を題材にしても、最良の男性作家の作品はそれらを超越してあらぬ天の彼方に主題が舞い上がってゆく。しかし基盤となる現代社会を捉えられなければ個である作家がその観念を抽象審級にまで飛翔させられるわけがない。いまだ戦後文学的文脈で、作家の特権的知性や感性を信じている作家はそうとうお目出度いピヨピヨだと言わざるを得ない。
『男流文学論』もそうだが一九九〇年代頃からフェミニズム、ジェンダー、LGBTQなど基本的には男女性差に基づく女性中心理論(思想)が社会で議論されることが多くなり、小説もこぞって主題として取り上げるようになった。それは正確に戦後文学的大文字社会的主題の消滅と対応している。確実で新たな主題は生活(地面)にしっかり足がついた女性的なるものにしか求められなくなったのである。
少し漠然とした言い方になるが女性的主題とは人間の根源的生命力のことである。それは恋愛衣食住から子育てイジメ介護に至るまで根深く通底している。ふわふわピヨピヨの社会的主題よりもずっと確実で信頼できる主題だ。もちろん女性的主題は本質的には生物学的性差の問題ではない。女性〝性〟の主題であり性別男性でも援用できる。ただ女性作家の方が親和性が高いのは言うまでもない。
二〇〇〇年紀以降は女性的主題、つまりは女性作家全盛時代に入ったような観があるが、もちろんそれだけで優れた文学は生まれない。性差、つまりは人間がどこまで行っても逃れられない抑圧を杓子定規な社会主題としてではなく文学の主題とし、さらに作家独自の観念的主題を中心に据える必要がある。そうしなければ女性的主題は一過性のもので終わり二十一世紀初頭の新たな文学主題になりえない。社会的格差解消を提唱するフェミニズムと文学の世界のエクリチュール・フェミニンは別物である。
「少し話がしたいんだけど」
という連絡がカズから来たのは、令和二年十一月の終わりだった。ちょうどその少し前に、アンがカリフォルニアから帰国した。半年以上もアメリカに滞在していたのだけれど、そろそろ時機かなと思って帰ってきた、とアンは電話で言っていた。カリフォルニアで直前にPCR検査を受け、さらに成田空港でもPCR検査を受け、公共機関での移動はしないでくださいと「要請」されたので、三万円も出して「ウイルス対策ハイヤー」に乗ったのだと、アンは話してくれた。
川上弘美「不眠症の伯爵のために」
川上さんの小説は水のように流れ滑らかに始まる。私小説の体裁だが、今でもたいていの私小説で続いているくだくだしい風景の内面描写がない。音楽のポップスではホテル・カリフォルニアのような長い前奏がなくなり、いきなり歌から始まるのが主流になっている。小説の長々しい前説もじょじょに端折られてゆくでしょうな。
余計なことを書いたが少し読んだだけで、川上さんの短編に馴染みがない読者でもカズやアンの姿が即座に形作られるだろう。カズは「少し話がしたいんだけど」と謎を投げかける。この短編の中心人物だということだ。アンはPCR検査を受けてアメリカから帰国した。コロナが作品の背景にある。
カズから次の連絡があったのは、翌週である。
「なんか、語りたいかも」
とある。
「もしかして今、孤独、な感じとかなの?」
「いや、こないだの、昔の知り合いの話。なんだよ、孤独、って」
「しまった。夢とか孤独とか、カズとだうかつだなわたし」
そう書こうとしている途中で、電話の着信音がした。
「なだつかうとだとズカ、かと独孤かと夢。たっまし」並んだ文字を逆から消してゆく。消している間にまた電話が切れてしまう。かけなおす。
「なんで切っちゃうの」
カズがぼやいた。
「じゃなくて、自然に切れちゃうの」
「それ、どうにかしてよ」
「検討しとく」
同
主人公のわたしとカズは実際に会わない。カズから電話がかかってくるだけだ。「なんだよ、孤独、って」とカズは言うが孤独感が滲む。そしてわたしは小説家で小説を書いている。「並んだ文字を逆から消してゆく」とあるように、カズとの会話は小説なのか現実なのか判然としない。しかし電話が切れてもわたしはかけ直す。わたしとカズをつないでいるのは細い電話線と声だけだ。
小説のタイトルは「不眠症の伯爵のために」でこれはカズを指していると言っていいだろう。本質的に高貴な男だということが示唆される。孤独と不眠症が彼を高貴にしている。その理由は流れるような小説によって明らかにされ、すべて明らかにされることがない。わたしは温かくて冷たい人間だ。カズもそうである。この小説には内容とタイトルに微かだが決定的な断絶と飛躍がある。
川上さんは小澤實さんの「澤」所属の俳人であり、記憶がおぼろだが確か一時期、朝吹亮二、松浦寿輝さんと詩の同人誌も出しておられたような気がする。全盛期を感じさせる江國香織さんも詩人であり詩集も刊行しておられる。お父様はエッセイイストで俳人だった江國滋さんだ。井上荒野さんの大きな主題を形作るお父様の井上光晴さんも優れた小説家で詩人だった。彼女たちの小説の質の高さと独自性はそういったところからも生じているようだ。
大篠夏彦
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