今号には芥川賞受賞第一作として宇佐美りんさんの「くるまの娘」が掲載されている。『推し、燃ゆ』で芥川賞を受賞なさったことはまだ記憶に新しい。今回は家族モノの私小説である。主人公は高校生のかんこで文体は三人称一視点だが、かんこの視点から見た家族の姿が描かれている。
かんこの家では、かつて父が絶対だった時代があった。(中略)
次に兄の時代が来た。三人の子どもらに父が勉強を教える際、唯一たてついたのが兄だったからだ。幼少期、居間の壁には大人の背丈ほどもある巨大な日本地図がかけられていた。ひらがなで都道府県名と県庁所在地名が書き込まれ、名産品の絵が描かれていた。(中略)その地図を兄は縦にやぶいたのだった。(中略)かんこは泣いた。火のついたように怒った。
父の時代を一番愛していたのは、おそらくかんこだったろう。兄や弟が苦々しく思い出すらしいあの鍛錬の時代を、すくなくともかんこは、人生で一番幸福な時代だったと記憶している。(中略)ほかの兄弟たちとおなじように、さぼれば怒鳴られ、髪をつかまれた。だが、そういったことよりもずっと色濃く残り、思い返されることがあった。
宇佐美りん「くるまの娘」
かんこの家は父母、兄、弟の四人家族だ。しかし家族は崩壊しかかっている。父母いずれかの浮気や借金苦といった原因ではない。原因は父親の子どもたちに対するスパルタ教育だ。父親は苦労を重ねて大学を出て一流企業に就職した人で、子どもたちにも自分の成功体験を踏襲させようとした。塾などには行かせず自分で勉強を教えた。父親の教えは厳しかった。サボると容赦なく言葉で罵倒され時に殴られた。ただ成績を上げるという意味での父親の教育方針は成功した。かんこら三人は誰もがうらやむ私立の難関中学に合格した。だがそこまでだった。
最初に横暴とも言える父親の教育方針に反発したのは五歳年上の兄だった。兄は父親を全否定するようにせっかく合格した大学を中退して就職し、結婚して家を出て行った。弟も父親の束縛を嫌って親戚の家に身を寄せている。かんこも変わった。鬱状態になり、退学はしていないが登校拒否状態が長く続いた。加えて母親が脳梗塞で倒れた。幸い回復したが、過去のことはよく覚えているが今現在の記憶が曖昧になるという障害が残った。また病気のせいかアルコールに溺れるようになった。父はもう勉強のことをうるさく言わなくなった。それどころではなくなった。物語のメイン舞台は父の母親が亡くなり、久しぶりに家族全員が集った父の実家である。葬儀には参列したが兄は父母と話そうとしない。兄ほどではないが弟も同じだ。
「父の時代を一番愛していたのは、おそらくかんこだったろう」とあるように、子どもたちの中で唯一父母と同居しているかんこは家族の再結集を望んでいる。苦しかったが父に勉強を教えてもらっている間、家族は団結していた。もちろん自分も鬱になり登校拒否になっているのだから父への反発は強い。しかし家族再結集の望みを捨てきれない。
では久しぶりの家族再会の場でかんこが家族再結集の役割を果たすのかと言えばそうではない。「くるまの娘」はかんこのビルドゥングスロマンではないということだ。いち早く父親に反旗を翻した兄と父の決定的対立が起こるのかと言えばそれもない。かんこと弟も同様だ。かんこと弟が未熟な高校生だからという理由ではない。「くるまの娘」では保護者であり絶対的な大人であるはずの父母の心も揺れている。父母は確乎たる生活方針や思想を持った大人ではないのである。いわゆる大人になりきれていない。だから決定的対立が起こらない。
少なくとも見た目には、父は普通の人だった。だがひとたび火がつくと、人が変わったように残酷になる。手や足が出て、ののしられ、誰かが半狂乱になる夜が来る。
どこの家庭にもありふれた光景かもしれなかった。だがかんこは、そういうときの父に怯えるのをとめられなかった。心は抵抗しているつもりでも肉体は怯える。(中略)与えられるのは痛みだけではなかった。髪をつかまれ、顔を近づけられ、「気持ち悪い顔だ。おどろいたな」と虫でも払うように、手で払いのけられる。その顔で見ないでと裏声で言われる。赤ん坊に向けるような言葉遣いでしか喋らなくなることもあった。かなちいでちゅね、と父はよく言った。あたまおかちいね、馬鹿面がなにかほざいてまちゅね。
*
当の父は、自分の境遇をよく擬音交じりに茶化した。その癖はかんこにもうつった。カウンセラーに向かって「いや、ちょっとうちは、そういうことするとポコーンだったので」と殴る真似をしたとき、父の仕草と酷似しているのに気づいて、変な心地がした。(中略)
父は、擬音に正しく言葉をあてはめることをしなかった。話が深刻であればあるほど、そうなった。擬音は空欄だった。穴だった。父は穴にあてはまる正しい言葉を避けた。選び取ることができないのかもしれなかった。(中略)湿っぽさやみじめな感覚をはねつけて、軽んじてしまいたいのかもしれない。だから擬音を使い、痛みを、あえて空欄にする。それでも、擬音交じりに茶化してでも話そうとするのは、自分自身で抱え込むには重すぎるからかもしれない。話すことも、話さないことも耐え難い。
同
父親が使う赤ちゃん言葉と擬音にこの小説の主題が鮮やかに表現されているだろう。父親が子どもたちにスパルタ教育を施したことには理由がある。その理由は父の幼年時代にまで遡れるほど根深いものだ。ただ父は彼が受けた深い傷を言語化できない。それを言語化しようとすればするほど謎が深まる。言葉は解体して擬音となり、傷を受けた原初の体験に遡るように赤ちゃん言葉になってゆく。無邪気に他者に自分を押しつけながら拒絶されると「火がつ」き「残酷になる」のは幼い子どもの言動そのままだ。
杓子定規に言えば父親のスパルタ教育は子どもたちへのパワハラでありモラハラである。いまどきの言葉を使えば毒親だろう。しかし「どこの家庭にもありふれた光景かもしれなかった」とあるようにその異様さは相対的なものだ。
父母は育児放棄したわけではない。何不自由なく子どもたちを育てた。スパルタ教育も子どもたちの将来を考えてのことだ。しかしじょじょに親の思惑と子どもたちの考えがすれ違い対立してゆく。どの家庭でも多かれ少なかれあることだ。ただ他人から見れば〝そのくらいのこと〟と感じられる行為が当事者にとっては耐え難いほどの重荷になる。またそんな些細であり重大でもある人間の生の機微を描き出すのが小説というものでもある。
自分を傷つける相手からは逃げろ、傷つく場所からは逃げろ、と巷では言われる。だが多かれ少なかれ人は、傷つけあう。(中略)では、自立した人間同士のかかわりあいとは何なのか? 自分や相手の傷つかない範囲で、人とかかわることか。かんこは、家族でない人に対しては、少なくともそういうかかわり方をしていた。(中略)だが家の人間に対しては違った。(中略)あのひとたちはわたしの、親であり子どもなのだ。ずっとそばにいるうちにいつからかこんがらがって、ねじれてしまった。まだ、みんな、助けを求めている。相手が大人かどうかは関係なかった。本来なら、大人は、甘えることなく自分の面倒を見なくてはならないということくらい、とうにわかっていた。それが正しいかたちだと、言われずとも知っていた。だが、愛されなかった人間、傷ついた人間の、そばにいたかった。背負って、ともに地獄を抜け出したかった。そうしたいからもがいている。そうできないから、泣いているのに。
同
日本の純文学は実態として主人公の内面(内面化された外界や心象)を描き出す小説のことである。もちろん主人公と他者の対立がメインだ。基本的に自分にとって自己は絶対的に正しい。しかし自分と同じように他者も絶対的に正しいのであり、自他が交われば必ず衝突と軋轢を繰り返すことになる。それは「くるまの娘」も同様で「多かれ少なかれ人は、傷つけあう」。しかし「くるまの娘」では決定的な自他の対立は起きない。「くるまの娘」だけではない。現代ではギリギリと軋むような自他の対立と軋轢を描く私小説はほどんど姿を消している。
その理由は「くるまの娘」という作品にはっきり表現されている。「あのひとたちはわたしの、親であり子どもなのだ」。現代では親という存在格に求められる規範が消えている。正しいと思って走り出しても多くの人が迷い惑う。五十歲になっても六十歲になっても子どもが何人いても茫漠と将来何になろうかと考えている。客観的に見れば大きな差があるが、深層で心が揺れているという意味で思春期くらいの子どもと社会で働いている大人はなんら変わらない。
もちろん赤の他人や家族であろうと共依存的にのしかかってくる他者を押しのけ排除するのが現代でも〝大人になる〟ということである。質は変わったがそれは現代の私小説でも繰り返されている物語主題だ。しかし「くるまの娘」のかんこは他者を、家族を排除しない。地獄に留まり「地獄を抜け出した」いと望む。しかし泣いてももがいてもその道筋は見えない。むしろ小説は一切の救済を排除して家族が置かれた地獄を描き出している。その意味で「くるまの娘」は従来とは違う現代的な私小説の秀作である。
ただ地獄を描いたとしても〝救済〟の問題は残る。また救済を得るためには作家はなんらかの形で現世の地獄を超脱した位相に立たなければならない。宇佐美さんは小説家としての高い資質と能力をお持ちだが、思春期小説だから地獄に留まったままでいられるという面があると思う。まだ余裕が、執行猶予の時間があるように感じられる。しかしそれは作家の年齢とともに、作品制作の歩みとともにじょじょに失われてゆくだろう。若い女性作家が年齢に応じた社会性を得てゆくのは案外難しい。宇佐美さんならそれを軽々とクリアしてゆかれるだろう。
大篠夏彦
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