特集「兜太と虚子」、んーという感じですね。現代俳壇の基礎を作っただけでなく、現代俳句の基礎も実質的に作った虚子については言及していない俳人の方が少ないだろう。「ホトトギス」直系でなくても、たとえば虚子と対立することになった前衛系俳人でもなんらかの形で虚子に言及していると思う。そのくらい虚子は偉大な存在である。
ただまあ「兜太と虚子」が対立なのか並列なのか、そのあたり、実にびみょーである。対立とまでは言えないだろう。また虚子が亡くなってもう六十年以上経つが、誠に失礼ながら兜太さんが今後六十年の時間を経て虚子と同様の地位を占めているかどうかを考えるとちょっと心もとない。兜太さん死去からあまり時間が経っておらず兜太「海程」門もまだ盛んだからジャーナリスティックな新鮮味はあるだろうが、あまりスリリングな対比になりそうにない。
それもそのはずで兜太は楸邨門である。その先をたどれば秋櫻子に連なっていて、当然、広義の虚子「ホトトギス」系ということになる。いやそうじゃない、虚子と秋櫻子は対立したじゃないか、ぜんぜん作風が違うじゃないかと言うこともできるわけだが、それもどーかなー。大局から見れば大虚子の系譜に属していると見た方がいいんじゃないか。
要するに軸をどこに立てるか、どうやって立てるかである。明治初期の作家たちは子どもの頃に飛躍だらけで論理的整合性の薄い和漢籍に慣れ親しんでいたので、論理的な新渡来の欧米文学・思想をわたしたち現代人よりもビビッドに、驚きをもって受容した。彼らの文学理論は現代人に比べると実に素朴だったわけだが、マトを外していたのかといえばそうでもない。最も重要なポイントを抑えていたとも言える。
子規の文学理論の根幹は客観と主観である。この単純な二項対立を援用して子規は俳句の基礎思想を探究し、強引にそれを短歌にも援用した。短歌はともかく、客観重視思想は俳句ではズバリとその本質に届いたわけである。漱石の文学理論も似たようなものだ。基本的に最も単純な論理である二項対立を使っている。
もちろん文学だけでなく人間世界全般に言えることだが、論理的二項対立ですべて割り切れるはずもない。世界の実態はおおむね灰色だと言っていい。つまりどっちつかずというのが世界の常態である。しかしそれでは人間の思考は先に進まないわけで、ある意味極端なまでに先鋭化させた極を、それも対立する両極を措定した方がいいことが多い。
俳壇的議論を見ていると、この対立項の設定が甘いんじゃないかと思う。桑原武夫の『第二芸術』論は極端な二項対立で、俳句は文学なのかそうじゃないのかと問いかけた。『第二芸術』論発表当時の俳人たちがショックを受けた理由である。しかし虚子と秋櫻子のどこが違うのか、秋櫻子と楸邨、楸邨と兜太、あるいは虚子と兜太の差はなに? と言い出すと最初から灰色の答えしか出ないと思う。そういう論は読んでいても面白くない。結局は灰色だという前提でも、物書きさんなら文章を読ませる芸として対立は作ってほしいものである。
「兜太の魅力」と言われて、困ってしまった。金子兜太は悪のショッカー大首領である。私にとっては。
立村霜衣「兜太の魅力 諷詠と映像」
その意味で特集論考の立村霜衣さん「兜太の魅力 諷詠と映像」は面白かった。立村さんは「ホトトギス」同人だから、前衛俳句、社会性俳句の兜太は「悪のショッカー大首領」ということになるわけだ。もちろん兜太論を引き受けた以上、頭から尻尾まで兜太俳句をくさすわけにはいかない。これはお約束である。ただ灰色になるにせよ対立項を明確にした方が筆者の論理はスッキリ通る。
そもそも、金子兜太は例の「造形俳句六章」でこう言っている。
諷詠精神というものは、もともと主題を失って自分が目的となった描写にとっては、属性にすぎません。つまり主観が退いたあとの描写に附着している個我の色合い程度のものに過ぎません。(略)もはや描写本来の客観物の厳密で微細な記録(主観の投影を意図すればこそ、それは厳密かつ微細のはずです)をやめて、まさに文字通り諷詠する程度のものになってしまうはずです。描写ではなく、諷詠そのものになるということでありましょう。
(中略)「造形俳句六章」の諷詠論は真を突いていると、私は思う。これは、論理的に説明できることではない。花鳥諷詠と唱えながら俳句を作っている私の、肉体感覚として分かるのである。私の俳句において、私らしさというものがあるとするならば、それは「主観が退いたあとの描写に附着している個我の色合い程度のもの」にほかならない。
同
立村さんが引用しておられる兜太の「造形俳句六章」の主張は、秋櫻子の虚子「ホトトギス」客観俳句批判の内容とほとんど変わらない。鮮明に主観重視姿勢を打ち出している。立村さんはそれを批判してもよかったわけだが、逆手に取って兜太「「造形俳句六章」の諷詠論は真を突いていると、私は思う」と書いておられる。なぜなら立村さんが考える「私らしさ」が表現された俳句とは、「主観が退いたあとの描写に附着している個我の色合い程度のもの」だからである。少なくとも兜太俳句と立村さんが依拠する花鳥諷詠俳句の対立が明確になっている。
俳句で主観表現を押し進めてゆけば俳句ではなくなってしまうのは当然である。だからどこかでそれに歯止めをかけなければならない。兜太さんはその止めの感覚が絶妙だった。要するに「主観が退いたあとの描写に附着している個我の色合い程度のもの」と批判もできる花鳥諷詠俳句の基盤の上に兜太俳句はあったということである。
もちろん同時代の高柳重信前衛俳句になると、これは本質的に異和ということになる。重信はけっこう真面目に兜太を論じていたが、兜太はいい加減に付き合っていた。本質的には対立する、というか兜太は重信が何をやろうとしていたのか、興味もなければ本質的には理解もできなかった気配である。これはこれで面白い。
岡野隆
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