今号の特集は「関西俳句を辿る」。以前特集「鯨と酒とヨサコイ祭~土佐の俳人競詠」という似たような特集がありましたな。こういった特集は気楽で案外楽しい。一昔前は風土性というと、俳句では飯田蛇笏龍太、短歌では前登志夫の作品が脊椎反応のように取り上げられることが多かったが、最近はネットの普及で情報的には都市と地方の格差がほとんどなくなってしまった。地方にいても都会の動向は探れるしその逆も然り。幹線道路沿いならgoogle mapで観光できる。しかし音や匂いなどは実際に現地に行ってみなければわからない。生まれ故郷の特徴となればなおさらのことである。
葛城の山懐に寝釈迦かな 阿波野青畝
初暦めくれば月日流れそむ 五十嵐播水
いつからの一匹なるや水馬 右城暮石
大寒の巌聳つ水の深きより 岡本圭岳
瀧の上に水現れて落ちにけり 後藤夜半
枯蓮のうごく時きてみなうごく 西東三鬼
丘の上に来て風は秋雲は秋 下村非文
名月のあたりに星を近づけず 鈴鹿野風呂
水晶の念珠つめたき大暑かな 日野草城
夢の世に葱を作りて寂しさよ 永田耕衣
螢籠昏ければ揺り炎えたゝす 橋本多佳子
夜濯のざあゝゝ水をつかひけり 森川暁水
七月の青嶺まぢかく溶鑛爐 山口誓子
涸滝の落ちゆく末は風の音 山口草堂(中略)
私がはじめて阿波野青畝と逢ったとき「あなたは桂さんのところ、桂さんは草城君、草城君は途中ですこし違う俳句にいったけれど、わたしの大事な友達」だということを言われた。とたんに初対面の緊張がほぐれたが、同時に師系ということを考えさせられた。
言うまでもなく俳句は個々それぞれの志向で成し表現の史を紡いでゆくものだが、俳人としての身の処し方や俳句の技法など、師系にあって得ることや同道の仲間を得ることなど、大事なことだとあらためて思ったことだ。
宇多喜代子「関西が生んだ俳人たち「よいものはよい」という文化」
特集では宇多喜代子さんが「関西が生んだ俳人たち「よいものはよい」という文化」という総論を書いておられる。言うまでもなく桂信子さんのお弟子さんで、信子系の「草樹」代表である。ちょっと前に、確か角川短歌の討議だったと思うが、宇多さんがどの結社に所属しようかと永田耕衣に相談したら「前衛はダメだ、あれはびょーきだから」と言って、信子が創刊したばかりの「草苑」を推薦したとおっしゃっていた。耕衣の前衛俳句に対する本音が透けて見えますな。宇多さんが的確に師をお選びになったのも言うまでもない。
宇多さんは阿波野青畝の言葉で「師系ということを考えさせられた」と書いておられる。これは文字通り考えさせられますな。小説では先頃急逝された西村賢太さんが藤澤淸造を没後弟子として尊敬していた。生きた時代が違うから淸造に弟子と認められたわけではないが、師の文学に対する姿勢や技法を親しく学んだということである。短歌俳句の師弟関係も同じようなものだが生きている師につくことが多いという点が違う。
こういう現世の師弟関係は短歌俳句ならではのものである。嫌なことを言えばもちろん現世的利害関係で師弟になることもあるだろう。ただ一家を成した歌人俳人の場合、必ず文学的精神の連続があるのも確かなことである。なぜそんなことが短歌俳句の世界では当然と見なされているのかは考えてみるべきポイントでしょうね。
短歌俳句の世界にほかの文学ジャンルにはない明らかな特徴がある。師弟関係・座・結社などである。師なし、結社所属なしの歌人俳人も増えているが、これらの現実存在(制度とも言える)は恐らくこれからも続く。短歌俳句の本質に繋がっているわけで、無矛盾的に説明できれば本質が自ずと明らかになるでしょうね。
思想までレースで編んで 夏至の女 伊丹公子
雛菓子の蝶の紫鶴の紅 大橋敦子
冬滝の真上日のあと月通る 桂信子
淡路島手にとる近さ櫻貝 田畑美穂女
ねんねこの中で歌ふを母のみ知る 千原叡子
チョウザメの春浮袋とり替へねば 津田清子
満月のほたるぶくろよ顔上げよ 花谷和子
行きずりに聖樹の星を裏返す 三好潤子
満開の森の陰部の鰓呼吸 八木三日女
みな虚子のふところにあり花の雲 山田弘子
どことなく水滲み出て春の山 鷲谷七菜子
同じく宇多さんの巻頭評論から関西の女流俳人の作品。俳句は短い表現であり、また短歌のように個の自我意識を表現しようとすると歪な作品になりやすい。良くも悪くもという面があるが「みな虚子のふところにあり花の雲 山田弘子」は概ね正しい。俳句の絶対基盤は虚子が唱えた花鳥諷詠にあるということである。ただそれだけでは俳句は固着化して衰退してしまう。どのくらい俳句表現の幅を設定するのか、その設定に俳句文学の絶対基盤に即した理由が見出せるのかが新たな表現方法のキーになる。もちろんその幅はそれほど広くない。
島島を引き寄せ万の梅薫る
滝となるたび水新しくなる
無名の木果てしなくあり紅葉山
過疎化に抗い祭太鼓打つ
網引きや真顔と笑顔入り混じり
恒藤滋生「水澄めり」(兵庫)
正月の雪を穢して猪捌く
みづうみはいまだ日のなか夕桜
熟れ鮓の桶なほらひの座を廻る
晩秋の波のどぶんと崩れけり
夜のうちに減り野施行の塩むすび
前田攝子「熟れ鮓」(滋賀)
特集では十二人の俳人が「関西俳人競詠」としてそれぞれがお住まいになっている土地を詠んでおられる。恒藤滋生さんと前田攝子の作品は生活に即した写生俳句だが日常生活の機微も詠み込まれている。
俳句批評ではどうしても俳句は文学なのかお遊び文芸なのか、という問いが大前提になりやすい。そうしないと俳句盤石でとにかく五七五に季語定型を守り、テニオハ指導を参考にして俳句を詠めばそれでよろし、になりがちだ。そういったひねもすのたりテーマは書き手が星数ほどいるのだから付け加えるべき何事もない。
ただま、お国自慢句というか鄕土詠句を読んでいると、俳句はこれでいいと思ってしまうようなところがある。俳句を文学として捉える姿勢は大切だが、芭蕉以降現在に至るまで俳人たちは個の創作現場で、また座の集まりなどで鄕土や身近な生活題材、親しい人との交流を詠んで笑い楽しんで来た。これも俳句の大きな特徴であり、俳句は文学であると身構えてもそういった特徴を排除すれば俳句が成り立たなくなってしまうのも確かなことである。
岡野隆
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