今月号の特集は「没後40年 水原秋櫻子の「現在」―伝統と革新」。秋櫻子さん、言わずと知れた「馬酔木」の主宰者である。「馬酔木」は元々は内藤鳴雪の「破魔矢」を引き継いだ雑誌で、秋櫻子中心になってから改名したので大元は子規派傍流雑誌ということになりますな。もちろん秋櫻子は虚子「ホトトギス」の4Sの一人だからどっぷり子規派なのだが。若い頃は松根東洋城の「渋柿」にも出入りしていた。
秋櫻子最大の功績は虚子「ホトトギス」に反旗を翻したことにある。当時はそうとうに勇気がいることで、「ホトトギス」総帥、というより俳壇を牛耳っていた虚子から様々な形で圧力がかかった。それにもめげず虚子に対抗したのだから偉いものだ。
秋櫻子の『高濱虚子』を読めばわかるが、大正・昭和初期(戦前)の「ホトトギス」は飛ぶ鳥を落とす勢いだった。俳人たちは「ホトトギス」雑詠欄に自分の句が載ることを無上の喜びとしていた。特に巻頭を飾る(取る)のは至難の業で、一生に一度あるかないかと言われたほどだった。もちろん俳人たちの生殺与奪の権を握っていたのは虚子で、自動的に虚子=俳壇となっていたわけである。では秋櫻子は虚子「ホトトギス」の何に反発したのか。
いままでに詠んでいた句が、殆どすべて景色や花鳥の描写ばかりで、自分の感情をわすれ、主観を捨てていた。だから句を読み返すと、景色は眼の前に浮かんで来るが、その時の心の躍動は消えてしまっている。こういう俳句でなく、心がいつまでも脈々とつたわる俳句を詠みたいのだが、ホトトギスではそれを教えない。
水原秋櫻子『高濱虚子』
読めばわかるように、秋櫻子は虚子写生墨守俳句に反発したわけである。では対抗要素は何かというと「自分の感情」「主観」である。それでは秋櫻子はどのようにして自分の感情や主観を表現したのか。
牡丹の芽当麻の塔の影とありぬ
馬酔木咲く金堂の扉にわが触れぬ
馬酔木より低き門なり浄瑠璃寺
梨咲くと葛飾の野はとの曇り
鶯や前山いよゝ雨の中
水原秋櫻子 第一句集『葛飾』
水原秋櫻子 第一句集『葛飾』から、特集の藤本美和子さんの論考から孫引きさせてもらったが、秋櫻子の作風はこんな感じである。虚子は『葛飾』を読んで「たったあれだけのものかと思いました」と言ったが、まあ同感です。俳壇的には虚子写生俳句と大きく違って見えるわけだが、まったく俳句に馴染みのない文学者、あるいは俳句がちょっとだけ好きな文学者が読んでも、なんでこれらの句が大事件になったのか、スキャンダラスだったか、ぜんぜんわからないだろう。要するにどこに感情、主観が表現されているんですか、ということである。
もちろん俳壇的に言えば「牡丹の芽」が「塔の影とありぬ」――つまり〝私には一体化して見える〟といった箇所や、「との曇り」などの古語の援用に秋櫻子の感情・主観が表現されているわけだ。それが虚子俳句との絶対的な違いということになるのだが、大局的に見れば小さな違いである。秋櫻子は虚子「ホトトギス」の俳人の域を出なかったと言っていい。
また虚子は確か、秋櫻子君の句を読むとミシンで布地を隅から隅まで縫い上げたような感じがする、と言ったはずだ。これもつづめて言えば、この書き方では苦しくなるよ、ということである。俳句の世界では師から弟子への言葉はたいてい正しい。
秋櫻子は写生を捨てていないのであり、そこに自己の感情・主観を付加しようとした。いわば折衷である。しかし思いきりが悪い。虚子に「なんだこれ。こんなもん俳句じゃねーや」と言わせるような作風ではない。虚子は碧梧桐新傾向俳句、新興俳句、無季無韻俳句に対しては、こんなの俳句じゃねーよという意味の厳しい批判をしているが、秋櫻子に対しては、俳壇テリトリー争いは別として、おだやかな批判である。これなら怖くありませんなという感じだ。
大正十四年、「俳句も作れず、作る気力も次第に低下した」秋櫻子がその抜け道を模索するなかで思い浮かべたのが(窪田)空穂の提唱していた「調べ」であった。そしてこの調べをわが物とするために歌集を耽読した。空穂の歌集はもちろん、斎藤茂吉の『赤光』、『あらたま』、北原白秋の『雲母集』、それが終わると万葉集に移り、あらゆる評釈書を参考として読んだ」という。
藤本美和子「俳句は調べなり」
秋櫻子が短歌の調に大きな影響を受けたというのはどうやら俳壇では常識のようだ。しかしどうかなーと思う。短歌は57577だから調が複雑化する。対する俳句は575で調を追求しても限界がある。むしろ俳句では最短の表現形式である575をさらにつづめるような働きをする切れが重要であることは、角川俳句さんが昔のホットドッグ・プレスの初めてのデート特集のように、嫌になるくらい繰り返している俳句の常識である。調など俳句のサブ要素だ。
秋櫻子が用語的に万葉の影響を受けていることは『葛飾』などを読めばすぐにわかる。ただ調に関しては我が物にしたとは言えない。というか、短歌的調を俳句に援用することはほとんど不可能だ。言われてみれば短歌の調を意識した作品もあるなーといった程度である。長歌まで手がけた空穂短歌と比べればその差歴然である。調がなければ長歌は詠めない。
つまり秋櫻子俳句には折衷が多い。感情・主観重視俳句は虚子写生俳句や短歌との折衷である。秋櫻子は楽天的なところがあり、俳句ですべて表現できる、俳句が世の中にある文学の中で一番自在で幅広い表現ジャンルだと思っていたようなところがある。それが俳句に対して絶望と諦念を抱えて写生俳句だけに専念した虚子との決定的違いだ。ただ秋櫻子の試みが無駄だったわけではない。
秋櫻子「馬酔木」が新興俳句の母胎になったことはよく知られている。今号では川名大さんが「金子兜太の新風―「造形俳句」論の提唱とその作品上の成果―」で新興俳句の代表作を引用なさっているので、それを孫引きさせていただく。
銃後という不思議な町を丘で見た 渡邊白泉(昭和13)
穴ぐらの驢馬と女に日ぽつん 片山桃史(昭和14)
遺品あり岩波文庫「阿部一族」 鈴木六林男(昭和17)
切株は じいんじいんと ひびくなり 富澤赤黄男(昭和23)
呼び名欲し吾が前にたつ夜の娼婦 佐藤鬼房 (昭和25)
秋櫻子が扉を開いた感情・主観重視俳句は、若手俳人によってあっという間に写生を抜けた自我意識表現に展開していった。これに対しては虚子は厳しい批判を書いていて、そんなことしても無駄だ、俳句は結局は有季定型写生に戻ってくるんだという意味の批判を繰り返している。実際そうなった。戻って来たと言っても現代では秋櫻子的写生による穏当折衷的な内面表現である。ただ新興俳句があっという間にその役割を終えたのは確かである。当局の弾圧がなくても長続きしなかったこと間違いない。
表現としては、穏当・折衷の秋櫻子感情・主観俳句よりも新興俳句の方が圧倒的に面白い。ただし俳人というか俳壇は、それらを過去の歴史的遺産として面白がりはするが、真っ正面から高く評価したりしない。高く評価されるのはいつだって穏当な折衷である。要するに秋櫻子的な事なかれ主義の俳句事大主義。折衷を超えた果敢な試みは嫌われる。また俳句の世界では、他ジャンルからの影響を受けても、いつのまにかそれが俳句独自の画期的表現になってしまうことが多い。調も切れも季語も行切りも俳句から生まれたってか。バカらしい。んなことあるわけがない。
岡野隆
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