みなさん子供時代や若い時があるわけですが、平等に年を取ってゆくわよねー。アテクシは今から振り返っても中学生の終わりくらいには、もう立派なオバサンだったと思うわ。今とあんまし変わらないのよ。でもそれなりに環境の変化といふものはあって、就職したり、たいていお仕事ですけど海外に長期で行ったり、親の介護の心配をしなきゃならなくなったの。変化は人それぞれですけど、基本的な人格のようなものは変わらなくても、自分が置かれた(選んだ)環境とか、周囲の状況の変化によって、誰だっていろんな対応を迫られるようになるわよね。
それは作家様も同じで、若い頃と年を取ってからではやっぱり書くものが違ってきますわよね。若くて怖いもの知らずで、それでいて、作家というだけあって、若いがゆえの繊細な恐怖をそこはかとなく感受している作品ってとっても素敵だわ。あー、これって若い頃にしか書けないわよねぇと思ったりしちゃうの。そういう年齢に、パッケージとしてまとまったお作品を書けるのは一つの紛れもない能力よね。新人賞とかで若い作家を選びたがる理由よ。やっぱ新鮮なのね。
ふんで新人賞を通過して作家として活動してゆくようになると、次々お作品を書かなきゃならなくなりますから、それぞれ作風といふものが確立されていくわね。恋愛、ホラー、サスペンス、時代モノ、青春モノ、学校イジメモノとか、大衆小説ではかなり細分化してそれぞれの作家様の得意分野が分かれています。いろんなタイプの作品をお書きになる作家様の方が稀ね。
ただ純文学になりますと、そういうテーマ別の得意不得意はなくなって、社会の中で今何が一番シリアスな問題なのかというところに目が向きがちね。いっときは介護についてお書きになる作家様が多かったですわ。LGBT系の小説も、もう別に珍しくもなんともないくらい溢れてますわね。こちらもテーマ的にはちょっと飽和状態かしら。
で、若手作家様で目立つのは死への近接よね。よくある話ですけど、若い頃は自分は30歳くらいになったら死ぬとか思ってたりするわけですわね。でもそう簡単に苦しみに満ちた現世から逃れられるはずもなく、あっさりそのボーダーを超えてしまいます。またそうじゃなきゃ困るわよね。自殺なんかして親や友達を泣かせちゃダメよ。
でもま、子供から思春期、場合によっては20代から30代くらいまで、死は人間にとって近しいものであり、それをテーマになさる若手作家様も大勢いらっしゃいます。特に最近それが目立つような気がしますわ。テーマがない、あるいはテーマがつかみにくい時代を反映して、自分の幼年期とか微かな自殺願望を描くお作品ね。それはそれで、ちゃんとまとまっていれば美しいお作品よ。
「ほんとうに生贄にされちゃうの?」
涙声で言う市夏に、母親は表情を和らげる。馬鹿、と彼女の頭を撫でた。
「そんなわけないでしょ。そういう役ってだけ。(中略)女の子が六歳のとき、一回だけできるお祭りの主役だよ? 今日はお神輿にも乗せてもらえるし、夜のお祭りで、お金を払わずいっぱい食べたり、遊んだりできるんだから、絶対楽しい。お母さん、たくさん写真撮ってあげるからね」
行きたくない、と喉元まで出ている声を、市夏は我慢していた。楽しみにしていたのに、どうして急に怖くなってしまったのだろう。その理由がわからないままに、幼い彼女はぐずっているのだ。
上畠奈緒「夜川金魚」
上畠奈緒先生の「夜川金魚」は40枚くらいの短編かしら。いいタイトルですわね。主人公は市夏ですが、過去の回想から始まります。市夏は彼女が住む町の龍神祭で生け贄の役を演じることになります。
大昔、多分、明治の初めくらいまででしょうが、暴れ川の龍神川をなだめるために、女の子を生け贄に捧げるという祭儀があったのです。龍神川には龍神様が住んでおられるという伝承があったのですね。今は当然もう行われていませんが、龍神祭ではそれを模した儀式を行っています。市夏が生贄役を演じたのは六歳の時ですが、小説の時間は市夏十五歳、高校進学を控えた中学三年生に設定されています。思春期真っ盛りですね。
タマオはさっきからまたスマートフォンの画面を見ている。身体は完全に帰路に向いていた。彼女をこれ以上引き留めておく口実が、市夏にはない。今言わないと、苦労して誘ったのが無意味になってしまう。
あのさ、と話しかけた声が、女の子たちの歓声にかき消された。
それは市夏の背後から迫って来た。きゃあきゃあの笑う声が耳に反響して、グワングワンと間延びする。(中略)気づけば自分が体勢を崩している。(中略)その手のひらの向こう、女の子が大きな金魚の人形を抱えているのに気づいて、市夏はぎょっとした。市夏が落としたものに、あまりにもよく似ていたから。
背中から倒れる、と思ったのに、あまりにも地面が遠い。(中略)
はっと目を開けると、果たして市夏は洞窟の中にいた。
同
市夏は同級生で友達のタマオを誘って龍神祭に行きます。お祭りを楽しみたいわけではなく、どの高校に進学するのか聞き出したいのです。市夏の住む町で通えるのは中学までで、高校は隣町でしかも二つある。そのどちらにタマオが進学するのか知りたいのです。友達といってもタマオはいわゆるオタク系で、あまり自分のことを話したがらない。タマオと友達なのかどうかすら、市夏には自信がないのです。
市夏はタマオに進学先を聞き出せないまま、お祭りで人酔いしてしまいます。倒れる瞬間に「大きな金魚の人形」を抱えている女の子を見ます。過去の自分の姿です。市夏は六歳の時に龍神祭の生贄役を演じた時に、大事にしていた金魚のお人形をなくしてしまったのでした。「はっと目を開けると、果たして市夏は洞窟の中にいた」とあるように、「夜川金魚」は異界モノです。異界で何に出会うかがポイントになるお作品です。
何をしても楽しいなんて、本当に久しぶりだった。耳鳴りも、頭痛も、何もない。それが普通の状態であるのだろうけれど、市夏にとってそれは、たまに訪れる最高の状態だった。何も不安に思うことなく遊べる時間。それはもう記憶の中にしかないことだと思っていたけれど、ここにいればずっと味わえるのかもしれない。
たとえ最後は龍神に食べられるのだとしても、それはずっと先のことなのだろうか。普通に人生を送っていても、最後は死ぬ。龍神に食べられるのと、どう違うのだろう。(中略)
「ずっとここにいたい?」
「え?」
紅葉の顔に影が差した気がして、市夏は口ごもる。そう思いかけていたけれど、口に出すのは怖かった。
同
迷い込んだ異界で、市夏は紅葉という女の子に助けられます。紅葉はずっと昔に龍神様への生贄として川に沈められた女の子でした。紅葉は龍神様に食べられるまで、お祭りの縁日で一人遊んでいるだと言います。市夏は紅葉といっしょにお祭りの屋台のテキ屋の射的などをして遊びます。紅葉は楽しそうです。市夏もまた楽しい。
「何をしても楽しいなんて、本当に久しぶりだった」というのは、市夏が子供の頃、うんと小さくて母親や父親に甘えていられた頃に戻っていることを示しています。そして「普通に人生を送っていても、最後は死ぬ。龍神に食べられるのと、どう違うのだろう」と思います。このまま紅葉と、パラレルワールドの縁日で遊んでいる方が楽しいのではないか、幸せなのではないかと考え始めるのです。市夏は死に近づいていますね。
この後、市夏がどう現実世界に戻るのか、あるいは戻らないのかは実際にお作品を読んでお楽しみください。ただ紅葉との出会いで市夏が死に近接するシーンがこのお作品のある意味クライマックスですわね。
短編ですからサラリと書き流されていますが、これを抉ることはできると思います。抉れはもっと残酷なお作品になりますわ。そして残酷になればなるほど、現実というものが切羽詰まって迫ってくるはずです。こういうお作品をお書きになれる時期は短いでしょうね。お急ぎになって、是非更なる傑作を読ませてくださいな。
佐藤知恵子
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