今月号の特集は「鯨と酒とヨサコイ祭~土佐の俳人競詠」。正直なんでいきなり土佐? と思ってしまった。ただそれとは別に特集の内容は面白かった。理由は〝楽しそう〟だから。
文字ばかりでビジュアルに訴える写真ページが少ない文芸誌は、あまり楽しそうな雰囲気を漂わせていない。それはまあ致し方ない。人間は音楽とか絵とか動画とか五感に訴えかけ、自分の好みピタリとはまるような表現が大好きなのだ。考える前に何かがスッと頭と身体の中に入ってくるような気がする。
それに対して文字は自分の意志で読まなければならない。人間はまず視覚で情報をキャッチするから、会話文がなく上から下まで文字がギッシリ詰まった純文学小説などの文字ヅラを見ると「あ、後回しにしましょうか」などと考えがちだ。純文学小説ほどではないが文芸雑誌を読むのもちょいと億劫だ。「また七面倒くさいことが書いてあるんだろうな-」と身構えてしまう。それでも読み始め、読み続けられるかどうかは、内容が楽しいか、こりゃ読まなきゃねと思わせる情報がある場合だけだと言っていい。今回の特集は前者でしたね。
地理的に閉ざされていた僕たちは外からの刺激を渇望していた。(中略)
草いきれの中、旅の男が村を通りかかった時もちょっとした騒ぎとなった。目ざとく見つけた僕らはその男に質問を浴びせながら、村はずれまでぞろぞろとついて行った。(中略)
男は説話めいた話を始める。僕らは男の怪しさを嗅ぎ取り、ゾクゾクと興奮した。(中略)
男は旅路へ戻っていった。何故かほっとして振り返ったら皆は這い出てきた巨大なアカムカデに慄いている。僕らは後退りして、一目散に走り出した。
吉田類「龍の胎に還る」
特集の巻頭エッセイは吉田類さんの「龍の胎に還る」。BSの「吉田類の酒場放浪記」でおなじみだ。BSはあまり見ないのだが、「岩合昭の世界ネコ歩き」や火野正平さんの「にっぽん縦断 こころ旅」、それに吉田さんの「酒場放浪記」はチャンネルを合わせてたまたまやっていると、ついじーっと見てしまう。似たような魅力があるのだ。
ネコが主役の「世界ネコ歩き」はもちろん、「こころ旅」や「酒場放浪記」も淡々としている。面白くはあるのだが時に嫌味となるような人間の強い自我意識がほとんど伝わってこない。
吉田さんのエッセイはちょっとおどろおどろしいが、時代は戦後の昭和三十年代。現実と子ども時代の好奇心と幻想が入り交じる形で描かれている。もちろん子どもたちがついていった「旅の男」は幽霊でも犯罪者でもない。普段は見慣れているアカムカデに慄いてしまったように、子どもたちは男の存在に驚き魅せられたかったのだ。このエッセイのオチ、どうなる?とつい先を急いでしまう。プロのエッセイである。
じんま打つ鳴子自由の風青し
(じんま=おじいさんの意)
其処かしこ百合の手招く峠道
理不尽な咎の数だけ赤百足
パーマ屋の障子に影のゴジラかな
万緑や宮首までの一里半
吉田類の土佐を詠んだ俳句
吉田さんはベレー帽をかぶった酒飲みのオジサンというだけでなく、俳人としてもよく知られている。ただそれは俳壇ではなく一般社会での知名度である。俳壇ではそれほど重宝されていない。ご本人も俳壇的野望はあまりお持ちではないようだ。それがまた吉田さんの魅力になっているのではないかと思う。
俳句は文学か、それとも習い事芸か? という設問を立てた場合、「もちろん俳句は文学である」と答えるのが表向きは正しい。表向きというのはこの答えの後に、すぐに「ただし」がくっついてしまうからである。大勢として俳句は明らかに習い事芸である。このタテマエと実態を折衷させると、「日本文学での俳句のプレステージを保証しているのは芭蕉を嚆矢とする俳句文学だが、いつの時代でも俳句は習い事のお遊び芸として存在してきた」ということになる。そのため俳句を文学として捉えたい俳人たちは、深く悩んでしまうことになる。楽しく習い事芸の俳句を詠んでいる人たちを指導する立場にいなければ、つい余計な批判を口にしてしまうこともある。
しかしどんなに悩んでも俳句は文学であり、かつ大勢として習い事芸のお遊び文芸だという実態はこれからも変わらないだろう。つまり習い事芸は俳句の本質的な属性でもあるということだ。それに絶望すると俳句も評論・エッセイなどの文章も、つい刺々しくなってしまう。俳人本人も鬱屈して苦しい状態に置かれる。そんな苦しみを避けるためには、なぜ俳句が習い事お遊び文芸なのかを突き詰めて考えた方がいい。
言うまでもないことだが、俳句は俳句に一所懸命にならなければいい作品が書けない。名作と呼ばれるような作品を生み出したいと願っているのならなおさらのことだ。しかしその打ち込み方が小説や詩とはちょっと質が違うのではないかと思う。
比喩的に言えば、俳句では俳句に一所懸命になっていることを〝俳句〟に悟られてはならない。俳句に不意打ちをかけるような一所懸命さが必要だ。芭蕉でも蕪村でも一茶、子規でもいい、作品を読めばそこにかなりの遊びが含まれている。マジメ一辺倒ではダメなわけで、俳句独特の笑いがそこにはある。確かに何も考えずに俳句を楽しめば習い事お遊び文芸になる。しかし真面目すぎると俳句と対立して苦しげな作品になってしまう。だが俳句に不意打ちをかければ表現はより自在になる。吉田さんの俳句の魅力はマジメなのだが真面目さを感じさせないその俳風にあるだろう。
鯛売と連れ立つ春の山路かな
百姓の子は子で通る瓜茄子
みめよさをうるめを河豚の妬みかな
若尾瀾水の土佐の俳句 橋田憲明選
藁塚やわれも藁家の子と生れし
子供等の声も赤らむ曼珠沙華
ふるさとに見る初めての鳥兜
右城暮石の土佐の俳句 茨城和生選
風光る大師が硯採りし浦
山笑ふ土佐にはちきんいごつそう
山笑ふ土佐は自由を生みし国
岡崎桜雲「山笑ふ」(土佐の俳人競詠)
里人は平家贔屓よ薬喰
死んでゐる人がものいふ夏芝居
補陀落の海より戻る夜焚舟
亀井雉子男「鯨の目」(同)
若菜つみ帰りし野より月の出ふ
南学の発生地とや遍路ゆく
しじみ掻く濁りすぐ澄み鏡川
橋本憲明「若菜つみ」(同)
源流は七ツ淵なり花十薬
えご散るや落人秘話の七ツ淵
滝流れ月の土佐湾思うべし
橋本幸明「鏡川を下る」(同)
星一つ流れ漁火一つ増ゆ
潜水着干しゐる海士や鷹渡る
山影の早き楮を抱き刈る
松本朝蒼「祖より継ぐ」(同)
虎杖のぽきぽき折れる土佐ことば
沢蟹の一つ二つ三つ平家村
民権婆さん喜多の演説鵙日和
味元昭次「海鳴」(同)
駆落ちにあこがれてゐて葱きざむ
ころぶなといはれてころぶ夏岬
『アリラン』を唄ひくれしは月夜瞽女
姜琪東「ころぶ」(同)
特集では土佐を詠んだ俳句も掲載されている。若尾瀾水と右城暮石は物故俳人なのでその全句業から俳句が選ばれている。亀井雉子男、橋本憲明、橋本幸明、松本朝蒼、味元昭次、姜琪東さんの俳句は書き下ろし。瀾水と暮石の俳句はセレクトを経た〝作品〟という感じがするが、書き下ろしの俳句はもっと生々しい印象だ。ただし単に作品としてズラリと並べられた場合より、読んでいて訴えかけるものが多いような気がした。
俳句には「挨拶の句」というものがある。詞書きで俳句が生まれた背景を説明する場合もある。特に挨拶の句は、俳句が習い事お遊び文芸であるのと同じくらい大事な俳句の要素だろう。挨拶の句で名句と呼ばれる作品は少ない。しかし名句と同じくらい人の心に残ってしまう句には挨拶の句が多い。
大上段の名句だけが俳句ではない。人間世界を緩やかに、サラリと結びつけてしまう句も俳句の富の一つである。そういったことも考えさせられる特集でした。
岡野隆
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