「うたう☆クラブ」は短歌研究の巻末に掲載されている投稿コーナーです。歌誌・句誌で投稿欄は珍しくありませんが「うたう☆クラブ」は「1人1回5首までの応募作から選ばれた作品を、メールのやりとりで、コーチといっしょに完成度を高めていきます」という点が大きな特徴です。特集リードには「第1回は2001年4月号で、コーチは穂村弘氏でした。(中略)スタートからちょうど20年となるのを節目とし、いったんお休みしてリニューアル準備に入ります。(中略)今回の特集には、「うたう☆クラブ」にご縁のある歌人の皆さんに再集結していただきました。皆さんの最新作品、エッセイ、インタビューから、あらためて考えてみる「うたう☆クラブ」の20年。現代短歌の歴史の一断面とも言えるのではないでしょうか」とあります。
ネットはまたたく間に普及して現代社会になくてはならないインフラと化したのでいつ頃からそれがあったのかわからなくなることがあります。ケータイやスマホも同様でいつからケータイはあったっけスマホに置きかわったのはいつだっけという疑問にすぐに答えられる人は少ないと思います。今現在を表現するなら問題はないですが近過去を舞台にする小説などではWikiなどを調べないと事実と合わなくなるとある小説家が言っていました。現代社会の変化は早いですね。そろそろメタバースが新たな情報インフラとして登場・定着しそうですし量子コンピュータは2027年くらいには実用化されるのではないかと言われています。そうなればまた加速度的に企業も個人も情報処理能力が上がります。人間の知の枠組みのインフラが再び変わるわけです。
90年代はビーガラガラのインターネットでしたがブロードバンドが普及したのは2000年代です。そういう意味では「うたう☆クラブ」はネットを活用した非常に早い試みです。ただ新たなテクノロジーですがネットはプラットフォームに過ぎないわけでレスポンスが早くて相互交流できるという新し味はありますが「うたう☆クラブ」は従来型添削のモディファイに過ぎません。それプラスの意義(意味)を積極的に見出さなければ歴史的価値を持ち得ないとも言えます。
2000年代に青春時代を送った小説家の中にこの時代は文字通りの「00年代」であり自分たちは「00世代だ」と書いている作家たちがいます。80年代のバブル時代を知らず90年代にかけてのネット普及の新たな熱気も知らない。ゲームやネットは既存のものとして存在していて生まれてこの方ずっと不景気。だけどマジョリティの生活はそれなりに豊か。そして文学の世界では規範とすべき戦後文学が驚くほど足早に色あせていった時代です。もちろん技法などの面では参考にできる過去作品はあるのですがそれを引き継いで作品に決定的な現代性を表現できなかった。
そういった「00世代」の空白感を表現した小説はありますがそれがどこに行きつくのかはまだ表現されていません。同時代の特徴と意義を必死になって探っているというのが現状です。そういった00世代的な苦悩と新しさと不安が反映されていなければ――あるいは時代的刻印を見出さなければ「うたう☆クラブ」に歴史的意義を付与するのは難しいでしょうね。
穂村 ええ。文語体の歌というのは、即、自己表現というふうにはみんな思っていなくて、半分くらい、習い事ではないんだけど何か鍛錬する場だという意識で作っている。文学的な自己表現と習い事的な鍛錬する場という意識の中間でやっている層がやはり添削を喜ぶわけです。その点、口語でつくる人の多くは、自分の生な感情を自己表現として歌っているという認識でみんな作るから、それを直されると「でも、自分はこう感じてないし」みたいに思ってしまう。「いや、でも歌としてはこのほうがいいんだよ」といくら言っても「歌としては、とか関係ねぇし」と言われてしまって、それはべつに若者が昔よりも生意気になったわけではなくて、やはりこれは文語と口語のかなり根本的な表現としての差異に根ざしていると思う。だから、「うたう☆クラブ」は添削形式ではないんだけど、そうなると「おれ的にいい形」にもっていく作業はとても難しくて、こっちはぎーっとなりますよね、「いや、でも歌としては」ともうここまで出そうになるから。
「再録・第Ⅰ期コーチ10周年座談会とベストセレクション」栗木京子・小島ゆかり・加藤治郎・穂村弘(2012年7月号より抄録)
「うたう☆クラブ」の特徴と問題は10周年座談会の穂村弘さんの発言で端的に表現されています。文学の世界では何事かを新たに始めた作家は偉大です。短歌の世界では俵万智さんの口語短歌と穂村さんのニューウエーブ短歌が現代短歌の基盤になっています。「うたう☆クラブ」の第1回コーチは穂村さんでそれは偶然ではなく必然だったということです――もしくはそう捉えないと意義が見えなくなる。
もちろん俵さんと穂村さんが現代短歌を代表しているという規定に反発する歌人も多いでしょう。しかし時間が経つにつれそれはますます盤石になってゆくと思います。なぜなら彼らが露わにした現代短歌の問題はいまだ解決されていないからです。俵―穂村的アポリアの上に現代短歌はあるわけでこのアポリア超克を提示した作家が次世代の短歌パラダイムの起草者になると思います。
問題は非常に単純でかつ根深く解消し難いものです。口語短歌は多くの若者に簡便な自己表現の道を開きました。純粋な自己表現であれば他者は関係ない。歌壇も関係ありません。ましてや添削など必要ない。自己が信じる思想や感情を確信を持って表現すればそれでいいのです。いわば自由詩と同質の表現になります。作家各々に表現の質が異なりそれらを統御する規範的なものはないのです。
一方で短歌は古代から続く伝統的形式文学です。この伝統的形式文学という絶対基盤は口語短歌以降の自己表現短歌基盤よりも盤石なものです。短歌では自己表現といっても短歌形式があるから容易なのです。いちから自分固有の形式を作り上げられる能力があれば短歌ではなく自由詩の方がさらに自由で独自な表現が可能だからです。そうしないのは結果として短歌形式を翼賛していることになる。つまり短歌では短歌形式を無視することができない。
この形式と自己表現の中で現代短歌は揺れ続けています。形式文学である以上短歌は集団的営為であることを逃れ得ない。口語短歌やニューウエーブ短歌が外から見れば集団的営為に写るのは言うまでもありません。しかし自己表現という面を重視すれば集団的営為の側面は原理的に排除されなければなりません。
矛盾が起こるわけですが多くの歌人が灰色のままそれを放置しています。それは個の創作現場では独自表現ですが歌人たちがあっさり集団的伝統芸術(あるいは伝統芸能)の引率者の役割を引き受けていることにも表れています。それはまあ掃除当番のようなもので仕方なくやってるんだよという解釈も可能だと思いますがならばクラスの一員であることをもっと遠くから眺めて相対化し説明する必要があるでしょうね。
僕はつい「人間とは」と前置きで分かったふうに話してしまう
殴り書きしている僕の詩 いつしか発光をしてくれぬか街に
昇り階段その向こうにはあかねさす君の目指している場所がある
ぶちまけろ、この感情を。ぶちまけろ、この詩型へと、この世界へと
放たれし犬のごとくに仕事終われば束の間の自由を得たり
人生という名のペダル漕ぎながら行けるところまで行くつもりです
それぞれがそれぞれの場でそれぞれの想いを胸に生きているのだ
萩原慎一郎「うたう☆クラブ」の歌三十首(『滑走路』未収録二十七首)
特集には萩原慎一郎さんの「うたう☆クラブ」の歌三十首(『滑走路』未収録二十七首)が掲載されています。これも偶然と言えば偶然ですが必然と言えば必然でしょうね。象徴的選択とも言える。
乱暴な言い方をすれば短歌表現の華は挫折と絶唱。それが名歌の王道を形作っています。短歌では夭折歌人の名歌に事欠かない。同じ詩でも俳句は自由詩には見られない特徴です。
ただ口語短歌やニューウエーブ短歌が多くの歌人に受け入れられたのはそれが日常の歌だったからです。日常を歌い続ければ必然的に口語と文語表現の違いは少なくなります。口語だから現代的というのは現在的です。日常を詠う口語短歌はどうしたって文語が持つ歴史的厚みに寄りかからざるを得なくなるはずです。いや違うそうではないと言うなら口語短歌の持つ日常性の特徴をさらに明らかにする必要があるでしょうね。
高嶋秋穂
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