小説すばる様の時評スタートよっ。集英社様は純文学系文芸誌として「すばる」を、大衆小説系文芸誌として「小説すばる」をお出しになっています。
まーなんていいますか、日本人ってやっぱ横並びが好きなのよねぇ。文芸誌を刊行する大手出版社はほぼ芥川賞=純小説、直木賞=大衆小説の雑誌構成を採っていますわね。ほんで大篠夏彦さんがお書きになっているように、芥川賞・直木賞は実質的に文藝春秋社様の独占コンテンツよ。なぜかわかりませんけど、大局的に見ると、他の出版社も文藝春秋社様の芥川賞・直木賞コンテンツを翼賛しているようにしか見えませんわねぇ。これは不思議な光景よね。
すばるを始めとした小説誌は戦後の高度経済成長期、つまり小説界がちょー景気がよかった頃に創刊されたわけですが、創刊当時から戦前から続く既存の権威に寄りかかろうとしたわけね。で、ゲームやアニメどころか、ネットの動画などなどのエンタメ暇つぶしコンテンツが爆発的に増加して文学業界は今や見る影もありませんわ。じょじょにパイが縮小し続けていると言っていいと思います。でも文学界は変わる気配がないわねぇ。やっぱり芥川賞、直木賞を頼みの綱としてる感じ。これは不思議を通して不可解よねぇ。
どんな新しい業種・業態でもある程度は既存システムを援用しなければうまくいかないのは言うまでもありません。でも社会が大きく変わっている時に既存システムを信じ過ぎぢゃダメよねぇ。
アテクシ寝る前にamazonやネトフリのドラマや映画をちょこっと見るのが習慣になってますの。ドラマだとオープニングやタイトルクレジットは飛ばしますわ。そういう機能もついています。で、映画だと最初の30分くらい見て、「こりゃアカン」と思ったらもう見ません。すんごくコンテンツの消費が贅沢というか残酷になってるのよ。こんなコンテンツの消費方法はすべてのジャンルに及びそうね。小説だって例外ぢゃないでしょうね。
アテクシ、現実制度として芥川賞を受賞したから優れた純文学、直木賞を受賞したから優れた大衆文学という区分はぜんぜん信用していません。特に芥川賞はぜーんぜん選考基準がわかりませんわぁ。むしろ直木賞系に分類されてしまう大衆文学作家様の方が、ホントの純文学だと感じることもおおござーます。
アテクシは楽しみで小説をどんどん読み飛ばしていて、文芸誌を片っ端から読むので今まで何作のお作品を読んだかわかんないくらい読んでいますが、それでも記憶に残っている作品がありますの。その最低要件はやっぱ事件の衝撃ね。殺人や詐欺であれ医療過誤であれ、はたまた恋愛や親子関係であっても決定的事件が起こらないと記憶に残りません。純文学か大衆文学を問わず、事件の衝撃は小説にとってとても大切です。作家様が大きな事件を起こしたつもりになっていても、それが大事件として伝わってこないお作品が多いのよ。なにはともあれインパクトのある事件を起こす能力は必須ね。
でもインパクトある事件が起きるから秀作・傑作になるとは限りません。プラスαが必要なの。このプラスアルファも、ちょっと撞着的な言い方になりますが事件を起こす能力の高さにかかっているところがあるわね。いったんインパクトのある事件の起こし方――つまり読者に衝撃を与えられるテクニックを身に付けた作家様は、いわゆる大事件でなくっても、ほんの些細なトラブルや心理的葛藤でも、それを事件に仕立てることができるようになるのよ。これは作家様にとってとっても大事な能力ね。
特に短編小説では事件が必須ね。短編は短い中に強い衝撃を込めなければインパクトを得られないのよ。それに対して長編小説では、映画なんかと同様に最初の10ページくらい読めばなんとなく作品の良し悪しはわかるわね。事件を次々起こすわけにはいきませんから長編ではバニシングポイントに向かって作品が進むわけですわ。ただその来るべき事件の質が、最初の10ページくらい読めばわかるのよ。緊張感の質と言ってもいいかしら。この緊張感は短編でインパクトある小説を書けるかどうかの能力に比例しています。本当にいい作家様はほんの10枚、20枚の小説でもアベレージ以上のお作品をお書きになりますから。
「そのお花は?」
「母からだよ。きみ届けてほしいって」
「・・・・・・」
無言のまま、すっとわたしの人さし指を解放すると上半身を起こし、背筋を伸ばして固い声で訊ねた。
「やはり離縁ですか」
「どうしてそうなるんだ」
わたしは狼狽しながら答えた。
「もうわたしはあの家に必要のない人間になりましたもの」
「そんな訳がないじゃないか」
「あなたはおやさしいから。でもお義母さまのお考えは別でしょう。ここに根を生やせと、お前の帰る場所はないとおっしゃっていますわ」
病室のリノリウムの床面と陶鉢の白色が一体化し、胡蝶蘭はそこからじかに生えているように見えた。わたしは慌てて鉢を持ちあげ、ひざの上に置き直した。
片島麦子「うしろの正面」
片島麦子先生は『ふうらり、ゆれる』で文学金魚新人賞を受賞なさった作家様でござーます。最初から新人賞レベルを超えていらっしゃいましたわね。ただ大衆系のお作品で認められた作家様なので、『ふうらり、ゆれる』のような純文学系作品はなかなか認知されるのが難しいところはあったと思います。日本の小説界ではそういったことがままあるのよ。
「うしろの正面」は中編とまではいかない比較的短いお作品です。主人公(語り手)は蜂園で地方の旧家の御曹司です。蜂園は三十四歳の時に母親が見出した十九歳の聡明な多華子と結婚しました。時代は戦前くらいに設定されていますから、多華子は跡継ぎを生むことを強く求められます。特に義母からのプレッシャーは強い。しかし見合いですが蜂園は多華子を深く愛しています。
結婚三年目に多華子は妊娠します。が、何者かに階段の上から突き落とされ流産してしまいます。骨折して足にも障害が残った。多華子は自分のことを嫌う義母が階段から突き落としたのではないかと思っています。蜂園は一人息子ですから母子の結びつきも強かった。従って作品のバニシングポイントは誰が多華子を突き落としたのかという謎解きに当然向かいます。伏線としては跡取りが必要な旧家の宿命、蜂園と多華子の愛、蜂園、多華子、義母との関係などが考えられます。
「信作」
声をかけると驚いた顔をしてふり返った。
「何をしているんだね」
「あ、旦那さま、あの・・・・・・」
ポケットから出したハンカチでしきりと汗を拭いながら答える。痩せているのに汗かきなのは昔からの体質だと聞いた記憶があるが、今回はそれだけではないらしかった。後ろ手に隠したものが気になってわたしは眉をひそめた。
「それは?」
「はあ」
ばつが悪そうな顔をして出てきたのは花束だった。買ってきたものではない。そのあたりに自生している花を何本か摘んでつくったものだろう。
「若奥様にこれを差しあげようと・・・・・・。近ごろお元気がなかったので」
同
もう一つ伏線がありましたね。若い使用人の信作の存在です。「汗かき」なのに「今回はそれだけではないらしかった」、「わたしは眉をひそめた」という記述から、信作がどういう役回りになるのかはおおよその見当がつきますね。実際その通りです。この伏線が一番強いラインということになります。後はそれに沿ってそのほかの伏線が落とし所を見出してゆくことになる。
テレビドラマなどでは〝ネタバレ〟をえらく嫌いますが、小説の場合、ネタがわかってしまうと読んでもらえないお作品はあまりいい作品ではないと言えます。強いインパクトを与える事件が必須でも、それが優れた小説の必要十分条件にならないのは、小説が人間の心理を描く表現だからです。
この心理の山場をどう事件と有効に結びつけるのかが小説では最も重要なポイントになります。「うしろの正面」の主人公(語り手)は夫の蜂園ですが、事件が起こるのは妻の多華子の方です。つまり多華子には謎がある。その謎を暴くのは簡単ではない。夫婦とはいえ人間同士は決して底の底までわかり合えない存在だからです。蜂園が妻の心理の底に近づけば自ずと事件は起き、それが現実の事件とあいまって衝撃を生むことにもなります。また強引な秘密の暴露は男という存在の一種の暴力性にもつながります。剥き出しの男女が一つの調和を得るということにもなる。
短編から中編小説は、作家様にとってなかなか難しい枚数の小説です。プロットは立つけれどその運用をどうしても中・長編を前提に考えてしまうようなところがある。焦点を一つにして心理でまとめた方がインパクトが増すこともあります。いろいろ考えさせられるお作品でござーますわ。
佐藤知恵子
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