「すばる」や「新潮」の誌面構成は一九八〇年代頃までの文芸誌にちょっと似たところがある。カラーページが少なく文字だらけだ。特集も組まれているがサブカルにシフトした目配りは少ないように思う。
で、純文学小説の世界はこれはもう圧倒的に文藝春秋文學界の芥川賞中心に回っているわけだが、一番わけのわからない誌面構成になっているのは実は文學界である。ほんとうに小説掲載ページが少ない。巻頭にはドンとカラーページが組まれ、そこに登場するのは小説家ではなく芸能人を含む各界で活躍している表現者たちだ。まーいってみれば狭い小説界ではなく、いわばメジャーな世界で活躍中の人たちをフューチャーしている。特集もサブカル寄り(サブカルというのは従来的用法を踏襲しているだけで、今やマンガやゲームが日本文化のメインカルチャーである)が多い。小説執筆者にも芸能人やタレント、有名な学者などを頻繁に起用している。小説家には新人賞を受賞して編集者の厳しいダメ出しをくぐり抜け、ようやく一年に一作か二作文芸誌に作品を掲載してもらえる(かもしれない)という高いハードルを設定しているが、外部から呼んできた作者は特別枠だ。二〇〇枚とか三〇〇枚の処女作を一挙巻頭に掲載してもらえる。
これらはまあ事実だが、それじゃあ文學界の編集方針を批判しているのかというとそんな意図はない。誌面構成はわけがわからんなーとは思うが、先行きが読めない難しい現代で最も足掻いているのは文學界なのかもしれないな、と思うところはある。純文学作家も作品も芥川賞を受賞しなければにっちもさっちもいかないので(実際は受賞しても受賞作以外はなーんにも保証されない。売れなくなれば大学講師や地方文学館の館長さんの口がかかるくらいである)芥川賞ばかり見てるところがあるが、文學界以外の文芸四誌(新潮、すばる、群像、文藝)は、なーんとなく文學界芥川賞補完機構として機能しているように見えないこともない。文學界よりも誌面構成が文壇的というかブンガク的なのだ。足掻きがあんまり見えない。
ある業界が堅調で安定しているときは末端から新しい動きが起こることがある。基幹はそんな新しい動きを取り入れて業界全体がさらに発展してゆくわけだ。しかし業界全体が左前になると基幹の方が先に焦りを感受して業態転換や構造改革に乗り出すことがある。末端は危機に鈍感で変化に乗り遅れてしまうのだ。
そういったことが純文学界でも起こっているような気配はある。やり方はともかくとして文學界は足掻いているが他誌は静観の構えだ。最も純文学の権威を信じているのは文學界ではなく新潮に見えないこともない。これは仮定だが純文学がさらに下火になっても文學界だけは生き残るだろうなと思う。いま流行の言葉で言えば文學界が一番〝あざとい〟からだ。
で、すばるは小説すばるを持っていることもあって純文学誌といっても物語性を重視した中間小説を掲載することが多い。文藝春秋のオール讀物のウリが時代小説なのに対して小説すばる掲載作品の大半は現代小説である。話題作が出ることも多い。純文学誌と大衆小説誌を抱える出版社の中で小説すばるが一番上手くいっている。実質的にすばるは小説すばるでもっているんじゃないかと思えるほどだ。
ただ逆に言えば小説すばるほどには純文学誌すばるの特徴はハッキリしていない。純文学と中間小説の間を行ったり来たりしている感じだ。そして相変わらず目指す頂点は他社の独占コンテンツの芥川賞である。このあたりを構造改革していかなければ独自性を打ち出すのは難しいでしょうね。
「ねえ、お風呂入った?」
ただいまの代わりにそう言いながら、リビングのドアを開ける。
あたたまった空気の中に、カップ麺のにおいが漂っていた。台所に視線をやると、流しに空容器が置いてある。(中略)
「風呂には、入らないことにした」
「入らないことにした?」
ことばをなぞって聞き返す。頷く夫の顔を見る。今年三十五になる一つ年下の夫は、夜はいつも体調が悪そうに見える。一日働いて帰って来ると、頭か肩か腰が痛いか、どこも痛くない日は、ただ体がだるいのだという。今日もやはり疲れているように見えた。顔の上半分は笑っているが、口元が追い付いていない。上がりきらない口角が、かすかに震えている。
高瀬隼子「水たまりで息をする」
高瀬隼子さんの「水たまりで息をする」の主人公は三十六歳の衣津実である。一歳年下の夫の研志と二人暮らしだ。結婚十年目で衣津実は運送会社で事務仕事をしており研志は事務用品会社で営業職に就いている。子供はおらず、不妊治療はしてみたもののどうしても欲しいわけではないのでそれもやめてしまった。しかしとりたてて生活に不満はない。共働きなので経済的余裕はあるし夫の研志は穏やかな人だ。衣津実は夫婦二人で東京の片隅で平穏な暮らしを送り、ゆるやかに老いてゆくのだと思っていた。
物語の発端は突然夫の研志が風呂に入らなくなったことだ。ささやかと言えばささやかだが、長引けば精神疾患も疑われるような危うい状態である。さてどうするのか、どうなるのかで作者(作品)は読者を引っ張ってゆくことになる。
もちろん選択肢はそれほどない。小説は原則人間の日常を描く表現なのであっと驚くようなことは起きないものだ。小説の最初の設定でいえば、風呂に入らないという原因がハッキリしてそれが治るか治らないかの二者択一が一つの道筋である。もう一つはそのままの状態が続くこと。どちらに物語を転がしてもいい。原因がハッキリして治癒すれば大衆文学の方に傾きそのままの状態が続けば純文学に傾く。前者はハピーエンドか絶望だから薄っぺらくなるがオチは盤石だ。後者の方はちょっと難しい。夫の不可解な状態を放置するわけだから物語は現世のトラブル以上の抽象審級に着地しなければならない。
全部損なって、ぼろぼろになってほしい。
二人の生活をこのまま継続させるために、自分を殺して生きていってほしい。
違う。そんなことは思っていない。そんなわけがない。
夫には、健やかに幸福でいてほしいと思っている。ほんとうに、二人でいつまでも仲良く、平和に生きていきたい。数年間の治療を経ても子どもができなかった時、これ以上はもういい、と自然に思った。時間とお金をかければもっとできることはあったけれど、それに投じる様々なパワーがなかった。元々あったものが尽きたというよりは、元々からっぽだったところに、外から燃料をそそいでいたけれども、そのそそぐのにだって力がいると気付いて、もう止めればいいと思ったのだった。
二人きりの人生を遠くまで想像できた。何歳になっても、自分たちは平和で穏やかな暮らしができると思っていた。満ち足りているわけではない、代わりに、決定的に足りないものだってなかったはずだ。衣津実は、夫が人生の全てとは思わない。けれども、夫がいてくれたらそれでいい、とは思っている。そのふたつのことは、似ているようで違う。夫にとって自分もそうであったら良かった。
同
研志は水道水がイヤだと言ってどうしても風呂に入ろうとしない。せめてミネラルウオーターで体を洗ったらと衣津実が勧めてもほんの少し顔を拭ったりするだけだ。しかし雨水は構わないようで雨が降ると外に濡れにゆく。だが毎日雨が降るわけではなく全身を洗えるわけでもないので夫の体臭は日に日に強くなってゆく。キツイ臭いがするだけでなく髪の毛もべとついている。そんな状態で外回りの営業職が勤まるわけがない。
果たして夫の職場から様子が変だという連絡が義母の方に入った。結婚前に緊急連絡先を夫の実家にしていたので義母の家に電話が行ったのだった。義母は心配する。なにをしているのかと衣津実を責めもする。ただ衣津実も義母も研志を精神科に連れて行くといった決定的な行動は起こさない。研志の変調を見守っている。風呂に入らない以外はあまり変わった点はないのだ。
夏休みに衣津実の田舎の実家に旅行に行った際、研志は川で水浴びした。その後も一人で衣津実の田舎に行き、川で水浴びするようになった。しかしそんなことでは日常は戻らない。研志の仕事は続かず会社を辞めることになる。衣津実は研志といっしょに田舎に移住することにした。研志が田舎を気に入っていてそこなら川で水浴びできるからだ。ただそれは決定的解決策ではない。むしろ消極的選択だ。
衣津実は研志が「二人の生活をこのまま継続させるために、自分を殺して生きていってほしい」と思う。また同時に「夫には、健やかに幸福でいてほしい」とも思う。どちらも本当だ。どっちつかずだと言ってもいい。衣津実にも研志にも強い生の欲望や目的がないからである。「元々からっぽだった」夫婦なのであり、「満ち足りているわけではない、代わりに、決定的に足りないものだってなかった」二人なのだ。物語はどん詰まりに来ている。これ以上は動かしようがない。
雲の灰色がぐんぐん濃くなっていく。道路には街灯が点いているが、川へ下りる道や河原は、足元が見えないほど暗い。
懐中電灯を持ってくるか、廃校までは車で行くべきだったと、走りながら彼女は思う。スリッパじゃなくて運動靴に履きかえれば良かったとも思う。そして、そんなことに思いつかないほど自分は焦っていたのだと気付き、それがまるで愛の証明であるような気がして安心する。安心していると気付き、また頭の中で自分を責める。走りながらずっとそんな風に考え続けている。息が切れる。
廃校の空き地へ着く。
細い道をたどって河原まで下りるまでもなく、川の水の勢いが激しいことが分かった。
いつもは河原の半分も水が流れていないのに、今は小屋ほどの大きさのある大岩すら見えないほど、次から次へと水が落ちてきている。
同
衣津実は研志と山奥にある祖母の家に移住した。衣津実は市役所の契約職員になって働くことにするが研志は無職で家事をこなし、河原に水浴びに行くという生活になった。
ただ夏のある日、大雨が降る。夫が水浴びしに行く川の上流にはダムがあり、大雨になると放流が始まって瞬く間に水かさが増加するのだった。市役所でダム放流のサイレンを聞いた衣津実は仕事が終わると急いで家に帰る。家の中に研志の姿はない。衣津実は河原に彼を探しにゆく。川は恐ろしいほど増水していた。研志の姿はそこにもなかった。
小説のラストで研志はどうやら川に流されたのだと示唆される。が、ハッキリそう書いてあるわけではない。どうやらそうらしいと推測できるだけだ。で、この終わり方はどうなんでしょうねと思ってしまった。
もし研志が水死したのならそれは大事件である。風呂に入らなくなったどころの騒ぎではない。それをスキップするのは純文学的都合であり、平穏なまま動かせない夫婦の生活を水死という事件で審級を変えるのは無理がある。むしろなんてことのない事故死を冒頭に持ってきて他者から見れば摩訶不思議だが、理解と秩序ある夫婦の生活の本質を描く方が審級を変えやすかったのではなかろうか。小説という表現は物語を軸にした構造である。物語の筋そのものではなく、筋が形作る構造が作品の良し悪しを決める。「水たまりで息をする」の衣津実と研志はただ静かに生きて静かに死んでゆくのを望む人間として造形されている。200枚強の小説だが、長く長く夫婦の日常を描いた果ての事故死は少し苦し紛れの印象がある。
もしかしてそうかなと思ってWikiで調べてみたら「水たまりで息をする」は芥川賞の候補になっていた。あーそうだよねと思う。いかにも芥川賞好みの作品だ。ただ「おしい」をドンピシャに持って行くのはけっこう難しいものだ。
芥川賞の選考委員がお飾り的なのは見ていてわかる。文藝春秋か財団かよくわからないが、芥川賞補完機構とでも呼ぶべき集団の力の方が強いだろう。その集団も二つに分かれている感じだ。一つは冒険したがる派、もう一つは一昔前の純文学権威を信じてその延長上で作品を評価する派である。「水たまりで息をする」の評価は後者のものじゃないかと思う。
芥川賞があざといのは純文学を信仰する従順な作家を育てながら、一番おいしいところは従順とは言えない作家に担わせてしまうところにある。話題をさらうのはたいてい飛び道具の方だ。純文学従順作家は十年も我慢すれば芥川賞はもらえるかもしれないが、それがピークで以後は凋落の道をたどることが多い。要するにメディアが盤石の基盤を維持するために必要としている作家たちだが本質的には使い捨て。別に悪いことではありません。それぞれ立場があるだけのこと。作家はそのあたりのことをよく考えないとなかなか厳しい道行きになると思いますよ。
大篠夏彦
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