夏目漱石は俳壇では文人俳句(俳人)に分類されるのが常である。文人俳句というカテゴライズは小説や戯曲など他ジャンルの仕事をメインにしながら俳句を詠んだ文学者という定義のようだ。芥川龍之介や久保田万太郎も文人俳句に含まれることが多い。しかし万太郎を文人俳句と呼ぶのはどうかと思う。また芥川と万太郎、漱石の俳句理解にはかなりの差がある。芥川の俳句は余技の域を出ないが万太郎はプロ俳人と言ってよく、漱石は俳句の要を把握しながらあえて俳人にはならなかった作家である。ただストレートに言えば漱石の俳句は万太郎より劣る。しかし俳句理解が劣っていたわけではない。資質的にあまり俳句には向いていなかった人だった。
「連載 偏愛俳人館 第12回 夏目漱石(2) 拙を守る」で恩田侑布子さんは「どこからか「俳句には理屈は不要」という反論が聞こえて来ます。でも、思想と理屈は別のものです。古来、思想のない一級の芸術はありません」と書いておられる。俳句には思想が必要だと考えておられるところが恩田さんの優れた俳人たる由縁だ。
もちろん「俳句には理屈は不要」というもの事実である。子規派を始め俳人たちは運座(句会)などで盛んに遊び笑った。同じ季題で他者が詠む俳句に驚き意表を衝かれ笑うのは俳句の属性と言っていい。それがお遊びで終わるのか俳句探求になるのかは紙一重だ。俳句から集団的営為という側面を排除することはできないからである。「私」が表現の中心になる短歌とは違い、俳句はほとんど絶対神のように不可知の〝俳句本体〟を俳句で言語化する芸術である。一番合理的な方法は五七五に季語だが方法は様々だ。無季無韻でも俳句本体は表現できる。不可知の俳句本体の言語化だから集団的営為――つまり様々なアプローチが必要になる。
明治の日本の近代化を「皮相上滑りの開化である」と喝破した漱石は、当代の小説家には少しも「オリヂナル」の思想がないと二十二歳で慨嘆しました。(中略)西洋の近代的自我と老荘の無我に引き裂かれつつ自己形成を果たします。その思想深化の一里塚に、従来注目されなかった論考があります。二十五歳の東洋哲学の単位論文「老子の哲學」です。(中略)漱石の老子理解の要点をみてみましょう。
①「道」の根本は言語化できない。第一章「玄之又玄衆妙之門」は全体の大首意である。玄も無も相対的観点では把握できず、しかも虚空や真空ではない。
②老子は学問を無用とし、嬰児に復帰し、静に安んずる消極的退歩主義である。
③無為不言が目的で全章はそこに達する方便である。只その無為に至る過程を明示せざるを惜むのみ。
④悉く相対的な人間の知識をもって絶対を説くのは推理能力による想像の言辞といわけばならない。それを治民に用いようとは驚くほかない。
⑤「道」は五官では知り得ない万物の実体である。「道」は自化自生するが、その変化に無自覚である。無為にして為さざる無しである。
恩田侑布子「連載 偏愛俳人館 第12回 夏目漱石(2)拙を守る」
「老子の哲學」は帝大文科大学英文科二年生の東洋哲学の論文として書かれたものである。恩田さんは「これは三十七歳から小説家として立つ漱石の実存の叫びです。この指摘は、東洋の叡智の急所を突くものです」「言語に信を置かず、理性で解決しない身心一如の思想との苦しい文学のたたかいがここから始まってゆきます」と書いておられる。
漱石がいわゆる近代的自我意識――明治維新以降に欧米から流入してその後の人間存在の基本的権利となった唯我独尊の自我意識と、社会全体、あるいは人間個々の倫理的規範=道との整合性に呆れるほどの愚直さで思い悩んだ文学者であるのは言うまでもない。同時代の自然主義作家たちは奔放な人間の自由意志を主題にして、時に反社会、反倫理的なその言動をも描いた。漱石も強烈な自由意志(自我意識)を持つ人間を登場人物にしたが、一方でそこには倫理がなければならないと考えた。「道」である。しかしキリスト教を社会全体の倫理規範とする欧米とは違い、日本あるいは東洋世界には明文化できるような倫理規定がない。老荘的「道」は孔子正名論に基づく杓子定規な正統儒教の枠組みを解体した先に人間存在の倫理を見出そうとする哲学的帰結だが、「玄も無も相対的観点では把握できず、しかも虚空や真空ではない」――つまり禅のように直観でしか認識把握できない倫理である。
木瓜咲くや漱石拙を守るべく 30歳
この「拙」はただの拙さではありません。陶淵明の「拙を守りて園田に帰る」の典拠、「盈大は冲しきが若く、其の用はきわまらず。大直は屈するが如く、大巧は拙なるが如く」という老子の「道」の一つの性質です。(中略)のちの『草枕』(三十九歳作)で、「世間には拙を守ると云ふ人がある。此人が来世に生まれ変わると屹度木瓜になる。世も木瓜になりたい」と主人公にいわせています。拙や愚は、老荘の反骨精神を体現するほがらかで自在な生き方なのです。
同
漱石が小説処女作『吾輩は猫である』を書いたのは数え年三十七歳の時のことである。それまでの漱石は英文学者であり、創作者としては目立たない子規派俳人の一人に過ぎなかった。そして英文学研究と俳句両方が漱石にはとても重要だった。漱石はいわゆる小説習作を一作も描き残しておらず、いきなり『猫』という完成度の高い小説を書いた。英文学研究から得た小説理解がそれを可能にした。また三十七歳までの漱石の創作意欲は俳句で表現されていた。
「木瓜咲くや漱石拙を守るべく」は一種の述志である。恩田さんが書いておられるように「老荘の反骨精神を体現するほがらかで自在な生き方」への憧れのようなものが表現されている。小説を書き始めてからの漱石はこのような観念的な句を詠まなくなる。小説と俳句の分かれがあり、自我意識を巡る観念的主題は小説で表現されるようになる。それにともない俳句では観念性の薄い自在境への憧れがストレートに表現される。
秋の江に打ち込む杭の響きかな 43歳
胃潰瘍で大吐血した修善寺の大患から蘇生して「約十日許して不圖出來た句である。澄み渡る秋の空、廣き江、遠くよりする杭の響、此三つの事相に相應した様な情緒が當時絶えずわが微かな頭の中を徂徠した」と自解します。江戸末に生まれ、明治を生き抜き、大正五年に五十歳を前に他界した漱石は日本近代文学の偉大な一本の杭になりました。日本の近代化の「外発性」とその弊害、人間疎外を胃に穴があくまでわが身に引き受け日本人の「内発性」を模索しました。
同
修善寺の大患は『思ひ出す事など』にまとめられたが、九死に一生を得た漱石が病床で仰向けに寝ながら最初に書いた句が「秋の江に打ち込む杭の響きかな」である。漱石の詩人としての資質は晩年の長篇小説『明暗』を書きながら一日一作日課のように書いた漢詩に遺憾なく発揮されている。漱石は理屈っぽく観念的な作家であり、その資質は詩でも俳句のような短い表現向きではなかった。しかし漱石は最後まで俳句を手放さなかった。
「秋の江に打ち込む杭の響きかな」は小説を書く前の句に比べると素直であり、透明で平穏な心を表現している。漱石は資質としては生粋の小説家だが、表現者としては専門小説家だったとは言えない。漢詩人であり俳人でもあった。
漱石は小説は一文字も書いていない『明暗』原稿用紙右上に「189」と書いたまま、机に突っ伏して苦悶しているところを妻鏡子に発見された。鏡子に「おれは今かうやつて苦しんでいながら辞世を考へたよ」と言った。漱石はそのまま病床に寝かされ亡くなってしまうが、辞世は恐らく俳句だったろう。
複数の表現方法を持っている作家は今際の際まで表現することができる。小説ばかり注目されるが漱石は子規と同様にマルチジャンル作家だった。恩田さんが俳句から漱石文学を読み解いたように、漱石文学の全貌は漢詩や俳句を含めて綜合的に理解しなければ決して正確なものにならない。
岡野隆
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