今号では「“うまさ”は助詞で決まる 韻文のてにをは 一語で深くなる助詞の妙味」の特集が組まれている。俳句のような短い表現では一文字変えただけで印象が全く違ってしまうことがある。いわゆる「テニオハ」を何度も推敲してみる由縁だ。しかしまあ推敲は助詞に限らないわけで、五七五の短い表現の中で同じ名詞を上に持ってきたり下にしたりとあらゆる推敲というか表現の可能性を試してみるのが普通だろう。
表現である限り完成度を高めるのはとても大事なことだ。自分で行う推敲はもちろん、結社主宰などによる添削もそのためにある。ただ最も重要なのは作者が何を表現したいかである。俳句は作者の決定的なオリジナリティをなかなか表現しにくい器だが、作家の表現意図によっては通常とは違う助詞や助動詞の使い方が有効になる場合がある。ま、実作の現場で「テニオハけりかなや」が助詞なのか助動詞なのか気にする人はほとんどいないと思いますけどね。
実作者としての筆者の感慨に、「口語は一度しか成功しない」というものがある。文語は切字をはじめ、多くの人々が共有してゆける汎用性を持っている。たとえ、「や」「かな」「けり」を皆が使いまくっても、おそらくすり減ることがない。それに対して、ひじょうに印象的な口語表現はたった一度きりのもので、同じ作者が、あるいは別の作者がそれを用いようとしても、それはつねに二番煎じに終わる。筆者自身の若いころの句の〈春は曙そろそろ帰つてくれないか〉を本人が焼き直して発表したところで、失笑を買うのがオチだろう。
櫂未知子「緊張感を」
櫂未知子さんは今回のような初心者啓蒙用の原稿でも常に〝大局〟を前提に論をお書きになる。今回の「緊張感を」でも「この季節になったからこうなった、と感じるのはごく散文的な思考である。俳句が韻文であるためには、「こういうことがあったから、私は冬だと実感した」と自覚する心を持たなければならない」と書いておられる。春夏秋冬の季題を前提に句を作るのではなく、いわば〝冬とはどういうことか〟を具体的に捉えるわけである。俳句のための俳句ではなく、作者の表現欲求に沿った俳句である。
で、櫂さんが書いておられる「口語表現はたった一度きりのもので、同じ作者が、あるいは別の作者がそれを用いようとしても、それはつねに二番煎じに終わる」という指摘は「ああなるほど」と思う。対する「文語は切字をはじめ、多くの人々が共有してゆける汎用性を持っている」わけだ。
短絡的に考えれば口語表現は作家のオリジナリティを表現しやすいということになる。これに対抗させれば文語体(文語調)では比較的簡単に姿形のまとまった句を詠みやすい。が、オリジナリティの発揮という点では敷居が高くなると言えるだろう。杓子定規な言い方だがある程度は当たっていると思う。
口語表現を積極的に使い出したのは荻原井泉水「層雲」と中塚一碧楼「試作」あたりからである。俳句史的には後に自由律俳句と呼ばれることになる大正時代の試行である。一碧楼「啄木が死んだ、この頃の白つつじ」など句には作家の思考がストレートに表現されている。完全口語ということもあって、少なくとも文語体(文語調)と比べれば斬新な感じもする。
ただいいことばかりかと言うと、そうでもない。句集のアクセントとしてここぞという所に口語体の句を数句入れるのはよくあることだが、全体を口語にすると後戻りできくなる傾向がある。自由律俳句が〝自由〟という冠を戴きながら、自由の制約の上に成り立つ一つの俳句流派であるのは言うまでもない。積極的に文語体表現は使わないことで自由律俳句の、言ってみれば写生を中心とした伝統俳句とは違う流派的オリジナリティが保証されているからである。文語体(文語調)と口語体(口語調)との間を自在に行き来するのはけっこう難しい。
あすが来てゐるたんぽぽの花びらに 三橋鷹女
みづうみは光の器朝ざくら 片山由美子
あめんぼと雨とあめんぼと雨と 藤田湘子
火事かしらあそこも地獄なのかしら 櫂未知子
するすると岩をするすると地を蜥蜴 山口誓子
葱だけを見てとんとんと葱刻む 岩田由美
木にのぼりあざやかあざやかアフリカなど 阿部完一
今回の特集から平仮名を多用した俳句を抜粋した。俳句における現代口語体と概ね江戸以前の文語体の対立とは別に、幕末の尊皇上位思想の盛り上がりとともに、本居宣長ら国学者の間で「やまとことば」(大和言葉)と「からことば」(漢言葉)の二項対立が生まれたのはよく知られている。二項対立は白か黒かであり、「世の中の事象すべてそんなに単純じゃないよ」ということであまり素晴らしい方法だとは捉えられないことが多い。実際明治になると子規派が漢語(からことば=漢言葉)を日本語から排除したら表現が貧しくなるだけじゃないかということで、漢語も外来語も積極的に俳句で使うようになった。しかし子規も漱石もその評論のほとんどで二項対立を使っている。二項対立はプリミティブな方法で問題点も多いが、大局的問題を炙り出しやすい利点を持っている。
助詞か助動詞かという文法は置いておいて、「テニオハけりかなや」は平仮名である。これが俳句の中の名詞(漢語)を接続し意味のある表現というか、流れるような表現総体を作りあげるわけだ。
いにしえの国学者たちが主張したかったことをうっすら引き継ぐと、平仮名を多用すると膠着性と呼ばれる日本語表現の特徴が表れやすい。引用の句でも「あめんぼ―あめんぼ」(藤田湘子)、「かしら―かしら」(櫂未知子)、「するする―するする」(山口誓子)、「とんとん」(岩田由美)、「あざやかあざやか」(阿部完一)と繰り返しの撞着表現が多い。これらをひとくくりに口語表現と言うのは乱暴だが、平仮名を多用すると俳句では文語体(文語調)から口語体(口語調)のニュアンスが強まるのは確かである。
まあこれもまた乱暴な言い方をあえてするが、三橋鷹女「あすが来てゐるたんぽぽの花びらに」を「明日が来てゐる蒲公英花びらに」にして漢字だけを抜き取ると「明日来蒲公英花」でなんとなく意味は通じてしまう。片山由美子「みづうみは光の器朝ざくら」は「湖は光の器朝桜」で「湖光器朝桜」でこれもある程度まで意味を感受できるだろう。俳句のご本尊芭蕉の俳句を代表する句「古池や蛙飛びこむ水の音」は「古池蛙飛水音」でさらに意味は明瞭である。
表現を大局的に捉えると、俳句という表現自体が漢語(からことば=漢言葉)と非常に相性がいい。というか漢語がなければ俳句は成立しない。漢語が俳句の骨格なのである。これは俳句が室町時代に成立し、荻生徂徠ら蘐園学派全盛期に漢学に非常に堪能だった芭蕉によってその基礎が確立されたことに密接に関係している。
もちろん俳句は漢語だけで成立しているわけではない。ただ俳句表現が漢語を骨格としているからこそ「テニオハけりかなや」の平仮名が非常に重要になっている。平仮名が日本語表現の要となるわけだが、その前提として日本語の中で漢語が完全確立されて以降の俳句の成立を意識した方が良いと思う。
また自由律俳句などを別とすれば、俳句で平仮名表現を有効に活用し、魅力ある句を詠む俳人には女性が多いと思う。男性でも平仮名を多用すると表現が女性的になる傾向がある。これは茫漠とした印象論に過ぎないが、印象論という灰色の領域だからこそ俳句実作では有効に活用できるポイントだと思う。
岡野隆
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