十一月号に引き続き、『今もひびく昭和の名句』(後編)の大特集である。今号は「大正・昭和生まれの俳人50人が、昭和に詠んだ名句を紹介!」の号だ。こういう特集は昭和が下限かもしれませんね。平成・令和になると今ひとつ和暦に切迫感がない。
アメリカ在住で、僕らと同じように欧米的な用語定義と論理で物事を考えるムスリムのイスラーム学者が、「いつもは西暦を使っているが、正統カリフ時代だけはイスラーム暦(ヒジュラ暦)を使わないと、どうもピンと来ない」と書いていたのを読んだことがある。
正統カリフ時代とは、ムハンマドから四代続いた初期イスラーム時代のこと。ムハンマドの血縁者によってイスラーム共同体が率いられたので正統カリフ時代という。ただ預言者の血縁者が有能な政治家で武人であるとは限らない。そのため血縁の系譜は第四代アリーで絶え、その後は現世的力を持ったカリフがイスラーム帝国を率いたのだった。言うまでもなくウマイヤ家ムアーウィヤが興したウマイヤ朝である。
異論はあるが、歴史学的には独自の暦を持っていることが独立国家の一つの指標となる。便利なので僕らも西暦を使うことが多いが、世界にはイスラーム暦、仏教暦などたくさんの暦がある。イスラーム暦はムハンマドのマッカへのヒジュラから始まるので二〇二一年は一四四二年になる。釈迦入滅から始まる仏暦では二五六四年。こういった暦は宗教・民族共同体のアイデンティティでもある。日本の和暦もその一つである。
明治維新が日本史上で最大と呼べるほどの変革だったのは言うまでもない。有史以来中国を先進国と考え、そこに顔を向けていた日本人は、文化から生活様式まで一切合切欧米のそれを採用したのだった。それだけではない。明治維新最大の理由の一つだった欧米列強のアジア植民地化のプレッシャーが日本を富国強兵に走らせ、日清戦争、日露戦争、そして欧米列強を真似たアジア植民地化支配を引き起こした。その無理に無理を重ねたツケが第二次世界大戦の悲惨な敗北であり、日本の多くの都市が灰燼に帰した。戦後生まれの僕ですら、一九四五年と言うより昭和二十年八月十五日と言う方がピンと来ることがある。
ただ平成や令和は今のところ印象が薄い。天皇陛下の代替わりという以上の意味を感じない。それは平和だからであり、まことに良いことなのだが、日本が諸外国との軋轢で危機的状況に陥るとどうしても和暦が際立ってしまうようだ。日本人は愛国心が薄いと言われるがそれは平時のことである。島国日本では危機的状況になるとあっという間に愛国心が盛り上がる。「日本人は愛国心が薄い民族だよね-」と言われている時の方が平和で良い時代なのである。
今号の特集は「大正・昭和生まれの俳人50人が、昭和に詠んだ名句を紹介!」なので当然太平洋戦争に引っかかる。昭和の終わりまではなんとなく太平洋戦争の傷を引きずったが、昭和六十四年-平成元年以降(一九八九年以降)は西暦の方がピンと来るところがある。あと数十年後に現代を振り返ると、多分一九九〇年代あたりが一つの大きなターニングポイントになるだろう。インターネット時代―高度情報化社会が完全に根付き始めたのがその頃だからだ。それは文学にも大きな影響を与えている。ただそこまで振り返って整理するのは時期尚早でしょうな。
近代以前、俳諧には滑稽性と古典の知識が必須だった。近代になると子規がそれらを切り捨て、西洋文化の影響の下に「写生」を導入し、俳諧を「俳句」へと革新した。この「写生」の思想によって「ホトトギス」の人々は自然の美を新たに発見する。これを徹底したのが虚子による「客観写生」である。これは新しい美学、近代の美学の徹底である。また、虚子は俳句の主題をほぼ自然現象に限定する。これはモダニズム文化からの影響を避けるためだと思われる。虚子はこの理念を「花鳥諷詠」と名付けたが、これも滑稽性や古典の知識を排除しているため、実は近代の美学である。これらの新しい美学は、それまでにない美しい作品の数々を生みだした。特に秋櫻子・誓子の美しさは若い俳人達を魅了し、新興俳句の誕生を促した。
今泉康弘「「写生」の近代から「言語」の脱近代へ」
特集では「総論~「昭和俳句」考」として、今泉康弘さんが「「写生」の近代から「言語」の脱近代へ」を書いておられる。戦前から昭和後期までの俳句の流れを簡便にまとめた評論で、これはこれでまとまっている。ただモダンとポストモダンという用語に引っ張られすぎかな、という感じがちょっとする。
モダニズムは基本、遅れの意識である。モダンは現代的という意味で、フランスを頂点とする文化先進国に追いつけ追い越せの文化動向である。日本、ドイツ、アメリカなどでしか起こっていない。日本で同時代の欧米文化を直接的に理解・受容しようとするモダニズムが入ってきたのは大正時代からで、虚子の自然描写中心の写生が「モダニズム文化からの影響を避けるため」というのは言い過ぎかな。虚子はモダニズムにもシュルレアリスムにもプロレタリア文学にも興味を持っていなかった。モダニズム俳句は篠原鳳作の「しんしんと肺碧きまで海のたび」や高屋窓秋の「ちるさくら海あをければ海へちる」が代表的で、写生といえば写生なのだが、日本的な情緒とは無縁にスコーンと虚空に抜けるような感覚的表現だった。ウェットな日本情緒から切り離されていたのがモダニズム俳句の魅力だったわけだ。
また秋櫻子・誓子俳句が新興俳句の素地になったのは確かだが、「馬酔木」に拠った秋櫻子の反「ホトトギス」姿勢は無視できない。秋櫻子は虚子の「写生」墨守に苛立って作家の主観重視を掲げて「ホトトギス」から離反した。この主観重視が新興俳句を生む素地になったわけだが、秋櫻子・誓子ともに新興俳句が盛んになるとそこから距離を取った。秋櫻子・虚子はやはり虚子門であり客観+主観俳句を是とした。作家の強烈な主観(自我意識)を表現する新興俳句とは質的に違っていたのである。
戦争が廊下の奥に立ってゐた 白泉
遺品あり岩波文庫「阿部一族」 六林男
切り株があり愚直の斧があり 鬼房
銀行員等朝より蛍光す烏賊のごとく 兜太
ロシヤ映画みてきて冬のにんじん太し 太穂
今泉さんが引用なさっている戦前の新興俳句から戦後の、広義の社会性俳句である。社会性俳句は兜太の専売特許のようになっているので使いにくいが、写生とは言えず作家の内面を表現した俳句くらいの意味である。これらの内面描写句(社会批判を含む)の源流が戦前の新興俳句にあるのは言うまでもない。ここから高柳重信の前衛俳句運動まではすぐそこである。重信が赤黄男を師と仰ぎ、新興俳句に根深いコンプレックスのようなものを抱えていたのはよく知られている。ただし重信は芸術至上派で同時代の現代詩運動にも影響を受けていた。兜太が表現内容重視の社会性俳句を掲げたこともあり、重信前衛俳句は俳句で未踏の表現領域を開拓する前衛に向かった。
この社会性(作家の自我意識表現と俳句の内容重視)の俳句と重信的な新たな表現を追い求める前衛俳句は、今日でも日に影に俳句に影響を与えている。俳句で新しい何事かを為そうとする意欲的俳人たちは、社会性俳句と前衛俳句の遺産を援用するのが常である。ただし一方で現代の俳句は秋櫻子的な写生+主観俳句が主流である。
秋櫻子処女句集『葛飾』の代表句に「梨咲くと葛飾の野はとの曇り」がある。写生なのだが「との曇り」という古語の援用に秋櫻子の主観が表現されている。風景が内面化されているわけだ。
現代の俳人たちの大半は、基本的には秋櫻子と同じ句法を用いている。子規―虚子的な純写生俳句は実は稀で、たいていは風景を内面化して、ということは自我意識のフィルターをかけて表現している。それが作家の独自性となるわけである。
さて、現代のいわゆる「伝統俳句」は実体験を重んじ、自然現象を自分の目で見つめるという姿勢をとる。しかし、高度経済成長以来、都市化・機械化が全国に進行し、自然環境の破壊は地球規模で進んでいる。(中略)私見を述べるなら、現代の「花鳥諷詠」の真の主題とは、現実の自然現象ではなくて、歳時記の世界観なのではないか。それは観念上の「自然」への「郷愁」であり、「伝統」観念への憧れなのではないか。
(同)
今泉さんも現代の俳句の大勢が、写生的、花鳥諷詠的になっていることを指摘しておられる。ただ現代世界の変容と歳時記的な季節感との違いという指摘は、評論としてはあまり刺激的ではない。もそっと冒険していただきたいですね。
社会性俳句、前衛俳句の遺産を援用すると言っても、現代俳人のほとんどがそれがもう過去の俳句動向だと思っている。生きた文学運動としては終わったのだ。では新しいことをしようとしても、なぜそれに頼らざるを得ないのか。なぜほかにもっと新しい切り口が見つからないのか。また歳時記的なフィクションに傾いているとしても、なぜ現代の俳句は古めかしい写生-花鳥諷詠になってしまっているのか。
そんなことを考えていると本一冊分くらいの評論を書かなければならなくなるだろうが、戦前新興俳句から戦後昭和四十年代くらいまでの社会性俳句・前衛俳句の熱い時代はとっくに過ぎ去った。今は凪のように大正・昭和初期の虚子「ホトトギス」全盛期のような凪いだ俳句の世界になっている。それはなぜなのかを明らかにできれば、画期的な俳句批評になるでしょうね。
岡野隆
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