今号には宮部みゆきさんの短編小説「ぼんぼん彩句」が掲載されている。
散ることは実るためなり桃の花
という宮部さんの自作句から発想された俳句である。宮部さんは押しも押されぬ流行作家だが俳句がお好きだ。流行作家は想像を絶するくらい忙しい。オール讀物などの大衆小説誌を読んでいると流行作家にも明らかな序列があり、浅田次郎、夢枕獏、宮部さんなどはトップクラスの作家である。全盛期には月産500枚近い小説を書くダンプカーのような作家たちである。少し落ち着いてきても月産300枚は書いているだろう。まあ驚異的執筆能力である。たくさんの読者を抱えているのだから原稿は当然各社取り合いになる。宮部さんクラスの作家が商業句誌に小説を掲載するのはかなり異例のことだ。
漱石や芥川龍之介を始めとして小説家には俳句を好む人が多い。手軽だからというより小説とは距離のある表現だからである。俳句的に言うと小説は人事である。人間世界を描くわけだが、わかっちゃいるけどやめられない的な人間存在の矛盾や苦悩をこれでもかというくらい描き出す。小説家は基本、俗事にまみれているのだ。川端康成が新幹線で週刊誌を読みながら、気になる記事のページをバリバリと引き裂いていたエピソードなどもある。俳人が吟行に出るとたいていは美しい自然の風景などを見出そうとするのに対して、小説家はゴミを捨てている人がいたとか喫茶店でこんな話を聞いた、駐車場で男女が激しく口論していたとかのネタを探す。創作のスタンスが違う。
仕事として人間存在の矛盾や苦悩を探し続けている小説家にとって、俳句が一種の息抜きになる面はある。しかし短歌ではそうはいかない。短歌は基本「私」の感情や思想を表現する器であり、その苦悩表現は小説に近い。平安王朝小説を思い浮かべれば一目瞭然だが、小説は短歌が母胎なのだから当然ですね。小説家が短歌を詠んでも本業とハレーションを起こしてしまう傾向がある。
ただだから歌人から小説へと表現領域を広げていった作家も現れやすい。歌人で小説家だった作家に子規派の伊藤左千夫、長塚節、荻の舎の樋口一葉、与謝野鉄幹新詩社同人だった岡本かの子らがいる。最近ではあの小佐野賢治氏の大甥である小佐野彈さんが歌人から現れた期待の新人作家ということになるだろう。短歌と小説は本質的に通底する部分を持っている。特に日本文学ではそうである。
しかし歌人とは対照的に、俳人から小説へと表現の幅を拡げた作家はほとんどいない。代表的なのは高濱虚子だろう。虚子の少年時代からの夢は大作家になることで、大作家とは小説家のことだと何度も書いている。実際虚子は漱石と競うように大正から昭和初期にかけて小説を量産した。しかしハッキリ言えば一作もこれはいいと言えるような小説を書き残せなかった。資質俳人の作家が小説へとジャンルの壁を乗り越えるのは極めて難しい。
もちろんたいていの俳人は俳句に専心一所懸命なので、別に小説なんて書きたくねぇや、他ジャンルの表現なんぞに興味はねぇ、俳壇で少しでも認めれられればそれで満足だねというスタンスだろう。それはそれで立派なことだが、多少は俳句という表現を相対化して捉えた方がいい。
他ジャンルの表現について考え試してみるのでもいいし、永田耕衣のように禅などから刺激を受けるのもいいだろう。ただし当たり前だが真剣にやらなければ得るものはない。俳人がしばしば言うように、俳句は小さな器だが大きな何ごとかを表現できる器である。ただ小さな器に大きなものを盛り込むためには俳句だけに視線を注ぎ込んでいたのでは不十分である。
昭子は足を止め、一歩あとずさりして、目を凝らした。
間違いない。(中略)
光葉の夫の土屋優一だ。(中略)
しっかりしろ、あたし。ショックでへたりこむなどもってのほかだ。行動せよ。あたし。
内心の命じる声に忠実に従い、昭子は娘の夫を尾行することにした。
途中から、スマホで動画と写真の両方を撮った。優一と女はべったりとカップル歩きをして、誰はばかることなく二人の世界に浸りきっていたし、昭子は慎重に距離をとって尾けていったので、さすがに会話までは録れなかったが、まったく気取られずに済んだ。
そして、二人が大通りを外れ、静かな裏道に面したホテルに入るところまで見届けた。
宮部みゆき「ぼんぼん彩句(1)」
宮部みゆき「ぼんぼん彩句(1)」の主人公は昭子。早くに夫に先立たれ、ほとんど女手一つで娘の光葉を育てた。光葉はキャリアウーマンだが本業のほかにコンビニでもアルバイトしている。夫の優一の司法試験のための高額な予備校費を稼ぐためだ。優一は司法試験を目指して勉強している、ことになっている。しかし何年経っても一向に合格する気配がない。
母親の昭子の目には初対面の時から優一がどこかいぶかしい男に写っていた。果たして昭子の予感は当たった。優一は生活費から予備校費まで娘の光葉におんぶにだっこで働く気配がない。光葉に頼り切りで平然としている。おまけに昭子は優一が浮気相手といちゃついて、ホテルに入るところを目撃してしまったのだった。昭子は優一の浮気を写真と動画に撮った。また興信所に依頼して浮気の証拠を揃えてもらった。それを娘の光葉に突きつけたのだった。
この小説の大団円がどうなるのかは実際にお読みになって確かめていただきたいが、光葉がすんなり「別れます」と言わないのは当然である。それは巻頭の「散ることは実るためなり桃の花」という句を読めばわかりますね。
この小説はちょっと今話題のプリンセスの恋愛を下敷きにしている気配があるが、女にとって「散る」のが離婚(男とすんなり別れること)ではないという作家の考えを示唆している。「散る」は「実る」であり、甘い恋愛の先には第二章、第三章がある。社会倫理的に言えば母親に夫の浮気を目撃され、興信所が揃えた証拠を突きつけられれば妻は離婚とならざるを得ないだろう。しかしそこで摩訶不思議な人間の生態と心理を断ち切ってしまうのか、第二章、第三章といわゆる物語を続けるのかは少なくとも小説という形態では考えものである。当然、後者の方が面白い。宮部さんは基本的に長編作家であり、その手法が短編にも表れている。
また「散ることは実るためなり桃の花」という句は、この小説のテーマを高い所から見下ろすようにして表現した句である。自己の作品世界を相対化して捉えるのはとても大事なことだ。客観的に、人ごとのように自分の作品世界を眺められるのが作家の理想でもある。他者に、社会に向けて作品を発表してゆくためには自己作品の相対化が必須である。
宮部さんが小説家の高い資質を持った生粋の小説家であるのは言うまでもない。しかし俳句という表現を巧く活用しておられる。別に宮部さんは転んじゃいないが、小説家というしぶとい表現者はただでは転ばない。「はいはいおっしゃる通り、先生素晴らしい」と俳句の先生を立て、気楽に俳句で遊んでいるようで必ずそこから何かを得てくる。お遊びを自己の小説表現の糧とする。骨の太さが違うのである。
岡野隆
■ 宮部みゆきさんの本 ■
■ 金魚屋の本 ■
■ 金魚屋 BOOK Café ■
■ 金魚屋 BOOK SHOP ■