今号には特集「師を語る」が組まれていて、十人の俳人が師に当たる俳人についてエッセイを書いておられる。
早いもので師のたむらちせいが九十一歳で死去して一年となる。(中略)
昭和三年生まれの氏は十七歳で敗戦を迎えて皇国少年から戦後民主主義の時代へと生きねばならなかった。この世代が否応なく置かれた人生航路ではあった。ことに氏は教師俳人であったので、戦後の高知県を吹き荒れた勤務評定反対闘争の渦中に遭遇することとなる。それは一般県民をも巻き込んで全国でも突出して苛烈に戦われ、一人一人の教師たちが人間性を問われる事態だったのである。(後略)
◎私の好きな師の五句
葡萄の木と非行少年は撃ち倒すべし
面とれば浜ひるがほに過ぎざりし
妻を描き月見草描き戦死せり
死ぬときの一言は蜩に習ふ
さてと立ち上がり水母と別れたる
味元昭次「たむらちせい-時代を生きた俳人」
味元昭次さんが師・たむらちせいさんについて書いておられる。高知県在住の俳人で中学の先生を長く勤められた。味元さんは一種の社会性俳句を代表句に選んでおられるが、民俗学的な雰囲気のとぼけた味の句も得意とされた。
燈心草日暮れ人の名呼ぶやうに
朴の花山姥ゐないゐないばあ
安曇野は闇こそ夏やみづぐるま
真葛原分けて都を探しにゆく
秋蝶の曳くまひるまの闇のいろ
家棄つや鬼灯もののけおいてけぼり
牡丹雪在世中はありがとう
秋深む家の中にもけものみち
SNSの普及もあって最近では結社無所属で師を持たない俳人も増えている。ただ必ず好きな先達俳人はいるはずで、師に近い形で敬慕する俳人を持っている方もいるだろう。師弟関係は短歌・俳句の世界独特の伝統だが、いわゆる〝見ぬ世の友〟として直接指導を受けたことのない俳人を師にすることもできると思う。
歌壇・俳壇は日本の昔ながらの人情世界という面があるので、公私ともにお世話になった結社主宰を師として仰ぐことが多い。しかしそれでは文学として面白くない。師から何を受け継いだのかをある程度明確に表現できなければ文学の問題にはならない。
世阿弥の能の秘伝書『風姿花伝』が吉田東伍の手で公刊されたのは明治四十二年(一九〇九年)のことだった。それまでは金春の秘伝書として秘匿されていた。能楽の大成者、世阿弥が二十年近い歳月をかけて練り上げた能の秘伝書(理論書)だからその価値は極めて高い。しかし『風姿花伝』が公刊された時、ほとんどの能楽師は驚かなかった。『風姿花伝』から生きた世阿弥の声、その肉体性を感じ取ることはできる。が、世阿弥が書いた能の心構えやそれに基づく所作を能楽師たちはすでに体得していた。能の要はいわゆる不立文字として代々師から弟子への相伝で伝わっていたのである。
俳句に関しても同じようなことが言える。俳句に一所懸命で結社を持つくらいになった俳人は、かなりの程度、俳句の要を体得している。じゃ、初心者は名の知れた俳人に師事すればいいのかということになるが、当初はそれで問題ないはずだ。俳句についてあまり知識も経験もないのなら、とりあえず誰かに師事して指導を仰げば、数年も経てば俳句というものがわかってくる。問題はその先だ。
水原秋櫻子は最初は松根東洋城の座に所属していて東洋城が師だった。しかし東洋城の俳句指導方針にあきたらず、東洋城ライバルの「ホトトギス」虚子に師事した。秋櫻子が4Sと呼ばれ「ホトトギス」を代表する若手俳人になったのは言うまでもない。しかし秋櫻子は虚子にも反旗を翻す。写生一辺倒の「ホトトギス」を批判して「馬酔木」を主宰したのだった。
最初から的確に師を選び、生涯弟子でいられた俳人はとても幸せだ。文学の問題として言えば、師の俳句が常に弟子の上をゆく形で変化していかなければ生涯師として仰ぐことはできない。もし師の成長が止まったと感じたら、人情などとぬるいことを言わずに別の師を選ぶか自分で結社を立ち上げた方がいい。もちろん一人きりの道を選ぶこともできる。緊張関係のない師弟関係は文学としては意味がない。
ただもっと根本的なことを言えば、短歌・俳句に師弟制度があり、今後も恐らく続いてゆくだろうことは、短歌・俳句がその表現の前提となる確固たる基盤を持っていることを示している。いわゆる伝統文学・定型文学というものである。能ほどではないが、盤石の基盤を持つ表現では当然自我意識を発揮しにくい。新たな創意工夫の余地が少ないのである。小説や自由詩のように、個の自我意識の赴くままに形式的にも内容的も自我のアウラで満ちたような作品を書くのは難しい。
また短歌と比較すれば、短歌は「私」の表現でありそれを五七五七七の形式で表現する。自我意識表現に五七五七七の形式フィルターがかかるわけだから徒手空拳の自由というわけにはいかない。しかし短歌ではかなりの程度作者の自我意識を表現できる。しかし俳句はそうではない。俳句で自我意識を直截に表現しようとすれば、まず間違いなくその試みは失敗する。俳句では短歌よりも遙かに形式的縛りがキツイ。
長年に渡って詠まれた俳人の代表句を数十句セレクトすれば、なるほどなんとなく俳人の個性というものはわかる。しかし句誌でズラリと並ぶ俳句はどれもこれも似ている。微細な差異が分からないのは俳壇門外漢だからだろと言うのはたやすい。しかし似ていることまで否定できない。俳句は作家の個性を表現しにくい器である。
この不自由な俳句で自由な表現をどうやって得るのかが意欲的俳人のアポリアになる。現代詩のような表現に赴く俳人もいるが、それではまず絶対に続かない。俳句でいわゆる〝飛び道具〟は使えないのだ。しかし伝統俳句に沿えば千篇一律のような俳句になって満たされないものを感じてしまうだろう。本質的には伝統の王道に沿って自由を得るしかない。
そんな時、地味かもしれないが、苦悩しながら独自の表現を確立した先達たちの姿が初めて見えてくる。時間の波に洗われているから彼らの作品はもう色褪せることがない。師は必ずしも現存俳人でなくても良い由縁である。
さくら幸せにナッテクレヨ寅次郎
好きだからつよくぶつけた雪合戦
土筆これからどうするひとりぽつんと
ゆうべの台風どこに居たちょうちょ
夢で会うふるさとの人みな若く
芋虫のポトリと落ちて庭しずか
十一月
小春日や柴又までの渡し船
村の子がくれた林檎ひとつ旅いそぐ
初めての煙草覚えし隅田川
団扇にてかるく袖打つ仲となり
打ち水をまつようにセミの鳴き
少年の日に帰りたき初蛍
ただひとり風の音聞く大晦日
花道に降る春雨や音もなく
「渥美清50句セレクション」(句集『赤とんぼ』より) 抄出・河内静魚
今号では特集「渥美清の俳句」が組まれている。『男はつらいよ』ブルーレイ&DVDボックス全50作刊行とのタイアップ企画のようだ。『男はつらいよ』全作を一週間くらいかけて見たら楽しいだろうなぁ。映画は一九六九年から一九九五年まで作られ渥美さんの死去で打ち切りになった。最近ではオンデマンド放送の普及で古い日本映画やドラマがコンテンツに加えられることが多くなった。物語の内容だけでなく、一九六〇年代の東京ってこんなんだっけと楽しむことができる。二十七年に渡って作られた『男はつらいよ』シリーズは社会学的な資料としても見ることができる。
渥美さんの俳句は渥美清=寅さんのパブリックイメージに沿ったものが多い。夏目雅子や成田三樹夫らも俳句を書いたがやはり俳優としてのパブリックイメージを裏切らない。一種の職業病かもしれない。ファンの期待を決して裏切らないということでもある。
ただ余技として楽しんで書いた俳句はなんてのびのびしているんだろうと思う。俳句に専心すれば楽しい嬉しいちょっと悲しいだけを風景に託して書くわけにいかないのは当然である。しかし俳句に一所懸命になればなるほど表現が堅苦しくなってゆく傾向はある。初心者や趣味の素人の方が自在な句を書く傾向があるのは考えてみてもいい課題だろう。プロ中のプロは意図的に自在でなければならないわけだが、それは高い高いテクニックを通り超した崩れの魅力なのかもしれない。
岡野隆
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