「短歌研究」二月号と三月号にユキノ進さんの「『水中翼船炎上中』という冥界巡り」が前編と後編に分けて掲載されています。正確ではありませんが前後編で百五十枚は越える力作です。論の最後には「「水中翼船炎上中」の時間」と「「水中翼船炎上中」のキーワード」が一覧表のような形で掲載されています。『水中翼船炎上中』は平成三十年(二〇一八年)刊の穂村弘さんの最新歌集です。多少時間は経っていますが現存の中堅作家の最新歌集に関してこれだけのページ数を割いた評論を掲載するのはあまり例がないでしょうね。それだけ穂村さんの短歌が注目されているということだと思います。
ところがその後自分でも短歌を書くようになり「短歌研究」や「角川短歌」などの専門誌を読み始めると、今でも穂村弘の新作が載っていることを知った。待ち望んでいた穂村弘の新作が、しかもそこそこの頻度で発表されているではないか。
けれどもそこにあったのはこれまでの歌集に収められていたユーモアと抒情の入り混じる歌ではない。中年の男が昭和のステレオタイプな思い出を詠った歌が多く、穂村作品にかつてあった高揚感はすっかり影を潜めていた。なんだ、こんなの平凡な昭和ノスタルジーではないか、という残念な気持ちとともに、歳をとっていくというのはたいへんなんだなとさえ思った。(中略)
おまえ何を探してるのとあかときの台所の入り口に立つ影 (出発)
(歌集『水中翼船炎上中』)冒頭の章「出発」の最後の一首である。懐かしい時代への旅立ちにこんな不穏な歌を置くのはなぜだろう。
これはノスタルジックな自分史の歌集ではない。あるいはそう読むべきではない、と考えたのがこの文章を書くきっかけだ。作者が隠しているものがある。作者の意図せざるものもきっと隠れている。それらを明るみに出し、歌集になって漂いはじめた不思議な緊張感のもとを探りたい。
ユキノ進「『水中翼船炎上中』という冥界巡り」(前編)
穂村さんの歌集は第一歌集『シンジケート』(平成二年[一九九〇年])第二歌集『ドライ ドライ アイス』(平成四年[一九九二年])第三歌集『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』(平成十三年[二〇〇一年])で途中自選歌集『ラインマーカーズ―The Best of Homura Hiroshi』(平成十五年[二〇〇三年])を挟みますが『水中翼船炎上中』が十七年ぶりの新歌集です。ニューウエーブ短歌の旗手とみなされている歌人ですから注目されるのは当然ですね。
ユキノさんの『水中翼船炎上中』読後第一印象は「穂村作品にかつてあった高揚感はすっかり影を潜めていた」というものです。しかし自分史をたどるような構成の『水中翼船炎上中』は「ノスタルジックな自分史の歌集ではない。あるいはそう読むべきではない」と考えるようになった。「作者が隠しているものがある。作者の意図せざるものもきっと隠れている」という予感を元に書き始められた評論です。
⑨ 新しい髪型
母の死後、主に父との生活を描く章。「メモ」には「その後」とだけ記されている。
新訳『星の王子さま』たちの囁きのなかを横切る旧訳のキツネ (新しい髪型)
『星の王子さま』の日本での著作権が切れ、長く親しまれてきた内藤濯訳の岩波書店版とは別の「新訳」が相次ぎ話題となったのは二〇〇五~〇六年。倉橋由美子訳、池澤夏樹訳などが出版された。歌の中で「新訳」とわざわざ記しているのでこれはその新訳ブームの時期だろう。
同(前編)
『水中翼船炎上中』には著者による「メモ」が栞として添付されていて歌集の章の時期がだいたい明示されています。「出発」「楽しい一日」「にっぽんのクリスマス」「水道水」「チャイムが違うような気がして」「二十世紀の蠅」「家族の旅」「火星探検」「新しい髪型」「ふご」「水中翼船炎上中」の十一章から構成されるわけですが最初の水中翼船炎上中は現在で「楽しい一日」は子供時代で最終章の「水中翼船炎上中」で再び現在に戻ると穂村さん自身によって示されています。
ユキノさんの読解は俳句の評釈に近いものです。俳句では作者がいつどこでどんな気持ちで句を読んだのかを事細かに明らかにするのが批評の常道ですがそれに近い。評論の前半では歌が穂村さんの実人生のどの時期に詠まれたのかを特定しようと試みています。ではこの方法がどのような批評的結末に結びつくのか。
・この歌集は記憶を順にたどったものではなく意図をもって構成されている。
・一九六二年四月~六四年三月生まれの主人公の半生を振り返る体裁となっている。
・「チャイムが違うような気がして」の章と「二十世紀の蠅」の章の間には十年以上の断絶があり、青春時代が抜け落ちている。
・歌集の前半は死んだ母に会いに行く冥界巡りの旅となっている。
・日本とアメリカが歌集に通底するテーマであり、国家(父)と母国(母)、アメリカ(警官)の歪な関係が示されている。
・デモクラシーの喪失など社会の変容に対する批評が隠されている。
同(後編)
ユキノさんの俳句評釈的な読解の結論は以上のようなものになるでしょう。このうち「日本とアメリカが歌集に通底するテーマであり、国家(父)と母国(母)、アメリカ(警官)の歪な関係が示されている」というのはいささか強引な読解だと思いますがまあこれもアリかもしれない。ただこの評論の最初に設定されていた「作者が隠しているものがある。作者の意図せざるものもきっと隠れている」という予感が露わになったのかと言えばいささか心もとない。『水中翼船炎上中』は自伝風ですが意図的構成であり社会批判などを含むのは評釈的に読解しなくてもわかるのではあるまいか。
おまえ何を探してるのとあかときの台所の入り口に立つ影 (出発)
「出発」の章(最初の章)の最後の歌である。追想の甘い旅に出る門出の一首がなぜこんな不気味な歌であるのか、初読の時はわからなかった。しかしそれも明らかになった。章のタイトルである「出発」は冥界への旅立ちなのだ。そして旅の起点は台所である。話しかけるこの声は母の声なのだ。歌集を通して主人公に話しかけることが皆無であるとみられた母は、実はここで彼岸から呼びかけているのだ。「なにを探してるの」と問いかけられた主人公が探しているのはもちろん母である。そして母に出会うための旅に出るのだ。
同(後編)
歌集をテマティックに読めばユキノさんが指摘しておられる通り「母」が通底するテーマということになるでしょうね。ただし母的なものでありそれが様々な形で展開されている。母国などもその一つです。これもまた詳細に歌集を分析しなくても読み取れるのではあるまいか。
ユキノさんの『水中翼船炎上中』論を低く評価しているように思われるかもしれませんが決してそうではありません。ただこの批評はいわゆる「批評メモ」の段階にあります。ユキノさんはなかなか穂村さんの新歌集が出ないので「やがて穂村さんはもう「うたのわかれ」をして散文の人になったのだろうと考えるようになっていた」と書いておられますがそれはある程度本当のことであり穂村弘は歌壇を越えて一般読書界で通用する批評やエッセイの書き方を体得した数少ない歌人の一人です。穂村さんに強い興味を抱くならその点にも学ぶべきところがあるでしょうね。
「作者が隠しているものがある。作者の意図せざるものもきっと隠れている」の〝隠している〟〝きっと隠れている〟では弱いのであり〝明らかにこれが表現されている〟〝穂村のテキストの無意識はこうである〟の確信を持って書き始めなければ歌壇を越えたレベルの批評にはなりません。「批評メモ」段階の評論を短歌研究に掲載する幸運に恵まれたわけですが歌壇外でも通用する批評家を目指すなら「『水中翼船炎上中』という冥界巡り」という評論は三十枚程度でまとめられます。百五十枚以上の批評メモ的評論を読者にちゃんと読んでもらうのは難しい。
またユキノさんの『水中翼船炎上中』初読印象は単純に言えば「ガッカリした」というものです。その当否は別としてこの感覚を無視していや『水中翼船炎上中』には自分が求める短歌の姿があるはずと深読みするのは危険です。他者は自分ではないので自分が期待する成果を表現しているとは限らない。批評では深読みで対象を自分の期待値にまで上げるのは避けた方がいいということです。
夜更かしの人がどこかにいることが救いだという夜更かしの人
燃えそうなアンドーナツを食べているなにもできない感じのまま
紙一重紙一重紙一重紙一重ぼんやりしながら焦る
一粒のタピオカ食べたそのせいで決勝で一点差で負ける夢
「ぼろぼろになってもいいじゃない」という友の言葉に「がんばる」と返す
タイトルだけ先にと云われタイトルだけ先に伝えた「ウインターカップ」
穂村弘「ウインターカップ」
今号には穂村さんの特別作品三十首「ウインターカップ」が掲載されています。穂村弘という歌人が真摯に苦悩していることが伝わってきます。作家はいつだって正念場ですが穂村さんの正念場はけっこう厄介で大きなものだと思います。
批評家は自分の批評で対象をすべて解釈解明したいと無意識的にであれ望むものですがそれは不可能です。生きている限り作家は変わってゆく。もし作家が変化を止めてしまえば生きているかどうかは別として読者は作家に対する興味を失うのです。
高嶋秋穂
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