今号は大特集『今もひびく昭和の名句』(前編)が組まれている。編集部の特集リードには「「昭和」は日本の歴代で最も長く続いた元号である。この昭和という時代を背景に、どのような俳人が活躍し、どのような名句が生まれたのか。今回は、明治生まれの俳人50人と取り上げる」とある。
『昭和の名句』と言っても当たり前だが昭和生まれの作家がそれを担ったわけではない。昭和初期から中期にかけては明治生まれの俳人たちの全盛期であり、以後、大正生まれ、昭和生まれの作家たちのそれが続く。ただ『昭和の名句』と元号で切ると、維新後の子規らの時代はそこに含まれないことになる。つまりは実質的に虚子「ホトトギス」全盛期が昭和名句の基盤である。
昭和俳句を日本韻文史上の高峰に押し上げたのは、明治生まれの俳人たちだった。例えば、「ホトトギス」昭和二年九月号雑詠欄を見てみよう。
啄木鳥や落葉を急ぐ牧の木々 秋櫻子
蟻地獄みな生きてゐる伽藍かな 青畝
方丈の大庇より春の蝶 素十
七月の青嶺まぢかく溶鉱炉 誓子
四Sと称され、史上に名を刻む彼らの傑作が同月号に並ぶさまは圧巻である。
青木亮人「述志の文業」
まったく青木さんが書いておられる通りで、昭和初期の「ホトトギス」ほどレベルの高い俳句が並んだ時期はほぼ皆無だろう。昭和二年九月号の「ホトトギス」は手にしたことがないが、当時の俳誌は今の結社誌や同人誌に比べると遙かに活字が小さい。現代では読者年齢が上がり、新聞でも文庫本でも小さな活字では読みにくいので大きめの活字で印刷するのが主流だが、現代より目の悪い人が遙かに多かっただろう昭和初期の活字の方が小さいのである。そのビッシリと俳句が並んだ雑詠欄を全国の俳人たちは目を皿のようにして読んだ。そういうところからも当時の俳句熱が伝わってくる。
その句群を閲した選者の高濱虚子は当時五十代半ばで、彼も明治人である。(中略)「子供心にも、朝敵であり、敗残者である松山の市民の、其頃知事以下薩長の顕官の下に屈辱に甘んじてゐるのを不甲斐なく思つた。何事か為すであらうことを私は心に誓つてゐた」(『虚子自伝』)。虚子は幼少時に賊軍の汚名を雪がんと誓うような士族だったのだ。その小さな子が後に俳人になり、昭和期に「ホトトギス」雑詠欄選者として君臨した際、次の句群が各地から寄せられるようになる。
夜濯のしぼりし水の美しく 汀女
露の玉蟻たぢゝゝとなりにけり 茅舎
梅白しまことに白く新しく 立子
とつぷりと後ろ暮れゐし焚火かな たかし
ぬかづけばわれも善女や仏生会 久女
蟾蜍長子家去る由もなし 草田男
彼らは士農工商の家柄や経済格差が歴然と横たわる明治に生を受け、男や女の自覚を痛烈に求められた俳人たちだった。(中略)俳句が隠居老人の嗜みや日陰者の余儀と見なされた時代、彼らは人生を賭して句作に打ち込み、選者の虚子はそれらを黙々と選句し続けたのだった。
同
青木さんは今回の特集の巻頭評論を「封建社会の色濃い時代に生まれ、数多の自己実現や可能性を捨て去った宿命を甘受しつつも否応なく滲み出るもの、止むにやまれぬ感情の昂ぶりを巨大な沈黙に溶けこませながら、有季定型に遊んだ奇跡が昭和俳句であり、それを為しえたのは明治に生を享けた俳人たちだった」で締めておられる。評論のタイトル通り、昭和俳人たちは〝述志〟の作家たちだったということである。
ただ意地悪で言っているわけではないが、「こんなキレイごとじゃ、ないんじゃないですか」と言いたいところはある。俳人たちが嫌々にせよ日々巻き込まれ、俳壇外から見れば「アホちゃうか」と言いたくなるようなくっだらない俳壇政治の風土を作り上げたのは間違いなく虚子である。それだけではない。俳句はお遊び文芸でよいと規定したのも虚子である。俳人がバカの一つ覚えのように「俳句は五七五に季語であり、この定型さえ守っていれば俳句はすべからく素晴らしい文学であり、俳句を詠む人は上から下まで詩人である」と言えるのは、虚子「花鳥諷詠論」の主張から始まっている。俳人たちが生涯高い志を持った述志の詩人で終始したとは到底思えない。虚子は毀誉褒貶の吹きだまりのような俳人でもある。キレイごとじゃあ済まない。
批判しているように思われるかもしれないが、まあ納得してもらえないかもしれないが、そういう意図はないのである。要するに、「俳句文学」というタテマエと俳壇の大勢であり実態である「お遊び文芸」との間に距離がありすぎるのではないかと言いたいわけである。こういった特集では俳人誰もが口を開けば「俳句は文学」というタテマエに終始するが、日々やっていることはぜんぜん違うだろう。そのあまりにも表と裏が違いすぎる俳句の偽善的在り方を縮めなければ、俳句という表現の本質を捉えたことにはならないんじゃないですか、と言いたいのである。
もうちょっと付け加えておくと、僕は俳句からお遊び文芸の要素は絶対になくならないと確信している。むしろあってもいい、いやお遊び文芸要素がなくなれば、俳句は衰退するでしょうな。じゃあなぜ俳句はお遊び文芸であってもいいのか。
明治維新以降に小説を中心とした日本文学は、いわゆる漱石的自我意識文学―欧米的自我意識文学に変貌したわけだが、俳句は違うでしょうと思うのである。「俳句は文学である」と主張してもいっこうにかまわないのだが、その基準を自我意識文学に置くのは間違っている。俳句独自の「文学」の規定が必要である。生涯俳句のことを考え俳句を書き続けるのなら、そのくらいのこと、考えなさいよと言いたいのであります。俳句が世界のすべてだと思っているから俳句を遠くから眺め、相対化して捉えられないのである。
ちるさくら海あをければ海へちる
山鳩やみればまはりに雪がふる
雪の山山は消えつつ雪ふれり
きらきらと蝶が壊れて痕もなし
蝶ひとつ人馬は消えてしまひけり
高屋窓秋
今回の特集アンソロジーを通読して、やはり窓秋の俳句はちょっと特異だなと思った。無を表現した俳人はたくさんいる。耕衣や赤黄男もそうだが、耕衣は沸騰するような無で赤黄男は一点に凝縮するような無の表現だった。しかし窓秋の無は虚空に抜ける。
もちろん窓秋は寡作で、俳人の特権的な大きな富である多作と自在さとは無縁だった。その意味で物足りない作家ではある。しかし窓秋的な虚空に抜ける無は、案外芭蕉に近いかもしれない。もちろんこれは僕の個人的感想である。
岡野隆
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