あらー、阪神の藤波が先発して六回まで投げて、五回の裏に出会い頭のツーランホームランを打ちましたわよ。しかもこの二点が決勝打(2021年4月16日ヤクルト戦於甲子園)。ビックリだわ。球場は盛り上がったでしょうねー。あ、アテクシ阪神ファンですの。なぜかって言われても返答に困るわね。子供の頃からそうなの。田淵や江夏の時代からよ。西鉄から移籍した竹之内のファンでしたの古っ! 良い子の皆さんは竹之内のバッティングホームを真似しちゃダメよ。振り遅れるから。ま、覚えている方も少ないでしょうけど。ただスポーツですから、やっぱ優勝しなくちゃダメよ。矢野監督は今年優勝できなければクビよっ、クビっ! でも藤波の復調は嬉しいですわねぇ。東京ドームは嫌いなので(ジャイアンツ嫌いじゃなくてドームがイヤなのよ)、アテクシが阪神戦を観戦するのはスワローズ戦かベイスターズ戦になるわね。できればデイゲームの方がよろしおま。
で、アテクシは大衆小説も好きで、オール様を読んでいるのは時代小説が多いからですが、最近あんまり取り上げませんわねぇ。まーこれはだいぶ前からですが、時代小説の書き方がパターン化しているのよ。
「任三郎、ひと息いれませぬか」
「はっ、母上様」
任三郎は汗に濡れた肩で息をしながら竹刀を下ろした。母の側でお千代が笑っている。
まー、だいたいこんなパターンでオール様の時代小説は始まりますわね。説明抜きである視覚的場面を提示してそこで後に拡がってゆく物語の伏線を張る、と。もちろん読ませるための、小説を売るための大衆小説にはこれ以外にも様々なパターンがあるわけですが、ちょっとマンネリ気味というか飽和に達しているようなところがござーますわね。
内容のマンネリ化は言うまでもござーませんけど、大衆小説とはいえ世の中の動向を反映しますから、池波正太郎先生の時代のようなスカッとした小説はなかなか書きにくいのよねぇ。ただ絶対的な社会規範が失われつつあり、社会規範とは何かの定義が揺らぐ時代であるからこそ、勇気を持ってある倫理を表現する作家様は頼もしいですわ。
なによりも俺は幕臣にならなければならぬと思っていない。いや、そもそも武家であれねばならぬと思っちゃいない。世間は跡取りに生まれつかなくて生憎だったと見るだろうが、俺はむしろ幸運だったと思っている。お陰で、武家の身分に縛られずに済む。俺は町人にも百姓にも、筋者にも女衒にもなることができる。俺は身分の段差がない。いまは、その幸運を味わい尽くそうとしているところだ。それが俺の「己を磨く」だ、味わい尽くせば、無理に求めずとも己の息する場所が見えて来るだろう。学問吟味はあくまで栄誉であって、出仕につながるわけではないらしいが、それえでも俺には、己を武家の檻に閉じ込める営みとしか思えなかった。
(青山文平「台」)
青山文平先生の「台」の主人公は旗本次男坊の俺です。跡取りの兄がいて母は亡くなっていますが父親と祖父母は健在です。で、主人公はもちろん、兄、父、祖父母の名前は書かれていません。あくまで俺、兄、父、祖父、祖母という呼び方なのですね。これには意味があって、〝俺の家族全員〟が広義の主人公だからです。青山先生はやっぱ小説の書き方がお上手ね。
設定は天保時代。時代小説は江戸以前の設定が多いわけですが、たいていは文化文政期から天保時代頃を舞台にしています。この時代は残っている資料が多く、かついわゆる近代的自我意識を持った人間がかなり増えてきているからですわ。安政以降になると幕末動乱ですから太平の江戸の世は描きにくくなる。かといって江戸初期の元禄頃を舞台にすると、残っている資料が少ないので小説のリアリティ設定が難しくなりますわね。元和まで遡ると戦国ですし。それに江戸初期には現代人と共通する自我意識が希薄です。どうしたって書きやすいのは幕末には至らない江戸後期ということになります。
主人公の俺はいい男ですが、次男坊の部屋住みですから遊びほうけています。岡場所の内藤新宿で髪結いの亭主を気取ったりもしています。もちろんお遊びです。ただ天保の自我意識が芽生えた時代の若者ですから、俺は「武家の身分に縛られずに済む。俺は町人にも百姓にも、筋者にも女衒にもなることができる。俺は身分の段差がない」と考えたりもします。さて、ここからどう物語を動かすのかが正念場ですわね。
六十九歳の老人に女で負けた俺は並べ替えられた本の山のようだった。
見た目は同じだが、中身はまったく違った。
なによりも、遊びが馬鹿馬鹿しくなって、盛り場にも近づかなくなった。(中略)
しばらく呆けていたが、でも、俺は二十一歳の若い男子だった。いつまでも、なんにもしないでいるわけにはいかない。俺は江戸者だ。意気地と張りだ。てれっとしているのはなしだ。(中略)
やってやろうじゃないか、と思った。
二年と七月足らずで及第してやろうじゃないかと思った。(中略)
兄が言った。「これまでになかった新しい備え方」に取り組んだ。
(同)
俺の一人称独白体小説なのですが、この小説ではそれが、俺の知性の高さを表現する効果を持っています。旗本次男坊の冷や飯食いですが、俺は単に遊んでいたわけではない。一所懸命遊んでそこで活路を見出そうとしていた。しかしそれが意外なところで崩れてしまう。
俺の家では清というおぼこ娘を下女として使っていたのですが、どうも堅物の兄が清に惚れている気配です。俺はいたずら心から清を口説きにかかります。一所懸命遊んだから女を口説く技術には自信があった。しかしふと気づくと清のお腹が大きくなっている。兄は「おまえしかいない」と烈火の如く怒りますが、俺ではない。兄でも父でもない。すると祖母が「清に訊きました」「あの夫ですよ」「わたしの夫」と言ったのでした。俺は六十九歳の祖父に負けたのです。それが俺の転機になります。
堅物ですが兄は権威的な総領息子ではなく、弟のことを心配していました。兄が以前から勧めていたのは昌平黌の学問吟味の試験を受けることです。すぐに仕官に繋がるわけではないですが、学問を修めた武士として尊敬はされる。それによって兄は、少なくとも良い養子縁組の話が来るやもしれぬと話していたのでした。祖父に負けた俺は攻略対象を女から学問に変えて、学問吟味を受けることにしたのでした。女を口説くのに自信があって、またそれを一所懸命習得したのに、あっさり祖父に敗れ去ったことがよほどショックだったんですね。
祖父の子とわかってからも清はずっと家に居て、産月近くになると、祖母はまるで孫娘のお産のように親身になって世話をした。(中略)
祖母と祖父が、互いをどう思っているかはわからない。
俺とて、祖父には心穏やかになりにくいものがある。なんで、清は俺ではなく祖父だったのだろう、といまだに振り返るときがある。祖母は俺どころではないはずだ。(中略)
少なくとも、傍らで三人の息遣いを感じている限りでは、剣呑なものは窺えない。そして、学びに疲れ、襖を開けて、三人の笑顔に目を遣っていたりすると、なにか、巡らせていた考えに血が流れていくように感じたのは事実だ。
(同)
ここで描かれているのは理非を超えた人間世界の秩序です。この秩序原理に沿って小説は大団円を迎えます。俺は旗本次男坊ですから立身出世したとしても幕臣にならざるを得ない。また運良く仕官がかなっても、すぐに明治維新の大動乱に巻き込まれる世代です。しかし俺は摩訶不思議でもあり、自然でもある家族の姿からある生の指針をつかんだ。
で、小説表題の「台」がどのように活かされているのかは、実際にお作品をお読みになってお楽しみくださいませ。
佐藤知恵子
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