「角川短歌2020年3月号」の時評の後半で寺井龍哉さんの歌壇時評の孫引きの形で柴田葵さんの歌集『母の愛、僕のラブ』を取り上げたのですが寺井さんの批評を引用した際に転記ミスがありました。恐縮です。
また柴田さんは第一回笹井宏之賞を受賞なさったのですが私は柴田さんの「これまでの歌はすべてが僕の夢、夢だから責任はとらない」という歌に関して「これは個人的な感想に過ぎませんが私なら柴田さんの連作に賞は授与しないですね。「これまでの歌はすべてが僕の夢、夢だから責任はとらない」という一首で候補から外します」と書きました。しかし賞に応募した歌にはこの歌は含まれていませんでした。恐縮です。
この連載は歌誌時評で角川短歌の時評から歌壇の今を探るのが趣旨ですが今回は例外で柴田さんの『母の愛、僕のラブ』だけの書評です。時評という歌壇の流れを追う批評とはまた違う形になります。短歌の大きな流れの時間と作家固有の時間は重なり合いながら当然異なる側面を持っているからです。
母の家を出た僕は恋人からボクっ娘をやめろと言われた。
甘いものが大好きでしょう女の子 さあどうでしょう私は烏賊なので
柴田さんの歌集タイトルは『母の愛、僕のラブ』ですが作者の性別は女性です。ことさらに性別を強調しているように思われるかもしれませんが男女平等に代表されるジェンダーと文学の表現は別です。文学では当たり前ですがフィクションを書いてもいいわけでどこまで柴田さんの歌の内容を信頼していいかわかりませんがかなりの程度自己を赤裸々に表現する短歌伝統に沿って読解します。
恋人に「ボクっ娘をやめろと言われ」「さあどうでしょう私は烏賊なので」とありますから作者が女性という性に違和を感じているのは明らかです。そうすると
これまでの歌はすべてが僕の夢、夢だから責任はとらない
はダブルミーニングということになります。僕は実際は性別女性だから「僕」として表現した歌は「僕の夢」でそれに対しては「責任はとらない」という解釈が成り立ちます。もう一つの意味はそうは言っても僕=女性なので自分が詠んだ歌にあくまで「責任はとらない」という解釈になります。後者はちょっと酷な解釈ですがそう読むことは可能です。ただし実際はその中間でしょうね。作者の表現は揺れている。「僕」という架空と実際の女性という性の間で「責任はとらない」がダブルバインドとして揺れているということです。
まひるまにほろほろと雪 生きている意味などすっ飛ばして生きたい
いいんだよ 私もひどいよ きみからのひかりの指輪は質屋に流す
まぼろしをまたほろぼして 進化して 鳥にも草にも戻れずわれら
ニューウエーブ短歌の大きな特徴として決定的な何事かを言わないあるいは決定的な立場や状況に自分を追い込まないということがあります。ただしこれもちょっと酷な言い方でどこか安住できるような場所があればいいわけですがそれが見当たらないと言った方がいいかもしれません。それが現代詩的と言いますかシュルレアリスム的な遠い物の連結のような巨視と微視を行き来する修辞を生んでいます。柴田さんの歌にもそれは見受けられます。ただ男のニューウエーブ歌人たちの純抽象に向かうような行き場のなさと違って柴田さんの歌には肉感的な手触りがあります。
「弟よ、全責任のはんぶんを持ってわたしは嫁いでいくね」
がんばれよ姉さん僕も熱心に生きてきみより歳上になる
「うん」
三万円くださいきっと心とか鍛えてより良い世界にします
『母の愛、僕のラブ』は細かく十四章に分けられた歌集ですが引用の歌は「より良い世界」の最後に置かれた歌です。弟は作者が作り出した「僕」の可能性がありますが結婚して家を出て行く際の姉弟の会話として書かれています。「うん」は世界の肯定ですね。世界は変わるけど普遍なものもあるということの肯定です。ただし「三万円くださいきっと心とか鍛えてより良い世界にします」ではぐらかされる。はぐらかさざるを得ないようななんらかの切迫感があるということです。
言うまでもなく「うん」だけでは短歌になりません。しかし作家はその直後にはぐらかしを置いても「うん」と書きたかった。こういう表現は消せません。作品の表現はすべて作者に帰ってくるのであり社会的責任という意味ではありませんが過去に――特に作品集として発表してしまった作品はずっと作者にのしかかってきます。
全長が五ミリしかない生命のもうなんてあかるい脈拍
八ヶ月後の分娩を予約する 枠が埋まると産めないらしい
男ならユウヤと呼ばれていたらしいわたしはどんなに生きただろうか
温かな羊のなかで誰も彼も眠った たぶん春はまぶしい
『母の愛、僕のラブ』は歌が書かれた時間がどのくらいだったかは別として作者が過ごしたそれなりに長い時間を作品化しています。独身時代から結婚して海外に行き子供を出産するまでの時間が描かれていることが読み取れます。
もちろん作者の時に攻撃的とも呼べるような表現になって表れる歌を読めば赤ん坊を出産するからといってそれが諸手をあげた生命賛歌になるはずがありません。ただこれももちろんですが自らが生み出す生命に対する否定などあり得ない。ここでもダブルバインドなわけですがそれをどこに落とすのかが『母の愛、僕のラブ』という歌集の読みどころかもしれません。
母とふたり暮らしだった。
僕は先生を漂白する役でドアノブを回すとへんな音
てづくりをする信念のママの子に生まれて着色されない僕ら
僕らはママの健全なスヌーピーできるだけ死なないから撫でて
【添うように歩みたくても細い道 わが子かわたしが前へゆかねば】
【戦争にいかせたくない わたし自身が戦争になってもこの子だけは】
【山芋をほのほの痒がる子の口を拭うわたしはいつでも味方】
友達がいないことを母に隠している夢だった。
学校に行けない夢から目覚めればもう三十歳だったうれしい
暮らしたい 私はわたしと暮らしたい けろっぴのコップにプリンを入れて
なん万の原始卵胞だきしめてただただ広い公園へゆく
歌集『母の愛、僕のラブ』の最終章は表題の「母の愛、僕のラブ」です。この章には時系列をごちゃまぜにして短歌が収録されている印象です。「僕」が印象的に復活してきています。また【】で括られた歌がありますがこれは例外という扱いで読めます。今の作者の心情が比較的ストレートに表現されている。しかしそれは『母の愛、僕のラブ』という歌集のメインストリームにはそぐわない。そういった例外扱いではないかと思います。
こういった作品のまとめ方は韜晦といえば韜晦です。短歌や俳句は作品集として公刊されますが特に最近の歌集では構成に頼った作品集がとても多い。構成を含めて作品集を読んで欲しいという作家の意図が強い。作品〝集〟としてはまとまっていますが一首としては弱い。それがいいことなのか悪いことなのかはさておき歌が一首で孤独に独立し難い時代を示しているのは確かなようです。
ただ柴田さんもそうですが幼年期――子供時代への思い入れが非常に強い。「暮らしたい 私はわたしと暮らしたい けろっぴのコップにプリンを入れて」という歌集最後から二番目に置かれた歌が典型的です。子供時代に本当の自分がいる。それは「僕」でもいい。性差の少ない時代ですから。短歌に限らず小説でも自己の幼年期を揺るぎない表現の中心に据えている作家がかなり見受けられます。それが何を示唆しているのかはもう少し時間が経たないとわからないかもしれない。
もちろん作家はいつまでも子供の頃にこだわってはいられない。そこからどう抜け出すのかが問われます。『母の愛、僕のラブ』はあえて最後まで幼年期――子供時代にうずくまってみせたという印象ですが実際の作者の成熟とは距離がある印象も受けます。『母の愛、僕のラブ』の「母の愛」は母親になった自分の子供への愛で「僕のラブ」は自分の母親への愛という解釈も可能だと思います。つまり最後までダブルバインド。母であり子供でいたい。普通は順接ですがこの作家の場合は決して二つが重なり交わり合わない。とりあえずこの歌集でその統合はない。
ただ一冊作品集を出しても作家には次が求められます。次は前と同じであってはならない。それでは作家としても作品を読む読者の側も満たされない。ただ女性歌人の方がそういったハードルをスルリと抜けやすい傾向はあると思います。
なお『母の愛、僕のラブ』を意味的に読み過ぎていると思われる方がいらっしゃるかもしれません。しかし言葉は必ず意味を伝達します。現代詩に毒されて「詩は意味伝達の道具ではない」といったいい加減なテーゼを頭から信じてはいけません。意味伝達のない作品などあり得ない。作品には必ず意味があり必ず意味が読み解かれます。むしろ確実に表現されている意味を無視して作品を雰囲気で読み解く方が危険です。
ニューウエーブ系の短歌は修辞に凝っている場合が多いですが現代詩に典型的ですが修辞はしばしば韜晦手段として使われます。決定的な意味を表現しないこと決定的な何かを表現しないこと時には作家の底の浅い思想や観念がわからないようにするために修辞が使われることがあります(柴田さんのことではありませんよ)。
優れた詩は意味がきっちり読み解けてなおかつ修辞的に優れている詩が多い。修辞が際立つ作品はあまり質がよくないとも言えます。まず意味を読むこと。作品に書かれている意味を正確に読み解く必要があります。作品に書かれていない意味を曖昧な修辞から拡大解釈して読み解くのは絶対にダメです。それはたいていの場合書かれていない夢の作品を語っていることにしかならないからです。作品を書けばたいてい批評で語られた夢は壊れる。それが日常言語を使って日常言語以上の詩を書こうとする詩人のアポリアです。作品本来の意味から乖離した批評は単に夢を語っていることが多い。
高嶋秋穂
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