コロナ禍なので鼎談もZoomで行われています。ITの世界では十年前は太古の時代と言われたりしますが今はオンライン会議はZoomかTeamsです。Skypeを使う人はほとんどいなくなってしまいました。東日本大震災の時はSkypeがけっこう活躍したんですけどね。Skypeには有料通話があって一般電話回線は軒並みダウンしてしまったのですがそれを使うと電話が通じたのです。外人さんたちは有料通話を買っている人がけっこういたのでそれで実家や友人たちと連絡を取っていました。
東日本大震災ではフクイチ原発事故が起こったのでその後すぐにダダダッと外人さんたちが帰国していきました。「元気でね」と握手して見送ったり「こんな時に悪いね」と言う外人さんもいたのですが「そんなことないよー」と答えていました。
フクイチの事故はなんやかんや言って日本の責任です。だから祖国ではない外人さんたちには降って湧いた災厄であり原発事故です。帰国するのは当然です。外国で戦争やテロやクーデターが起こったりすると外務省が「今すぐ帰国しなさい」と勧告するのと同じですね。日本にそうとうな縁故があれば別でしょうが人間誰しも外国で酷い目にあったり極端な場合は死んでしまったりするのはイヤです。故国に帰りたいというのは当然の人間感情です。
ただコロナは世界規模です。トランプ元大統領が「中国発祥だから責任取れ」と息巻いたりしましたが確証はありません。それにたとえ中国発祥だとしても世界中に蔓延してしまったのですから今現在の災禍を取り除くのと責任問題は別。ほとんど日経株価と同じような感じで毎日感染者数が報告されどの国でもそれに一喜一憂しているような有様なんですから。
元々自然災害は人間がそれをキチンと捉える対象としては厄介なものです。地震やウイルスは〝敵〟ではないからです。悲劇を乗り越え医学でそれを制圧しなければならないという意味では敵ですが敵が生じたり生まれたりする理由は人間世界とは別のセオリーに属しています。人間に対するように地震やウイルスを責めて責任を取らせるわけにはいかない。ただ絶望や怒りといった人間感情は当然生じますからそれを人間世界の誰かにぶつけるという現象が起こってきます。政治家は大変です。しかしまあ誰が指揮を執ったとしてもそう簡単ではないことは自明です。
高濱虚子は関東大震災の時に「地震は俳句にならん」とあっさりそれを詠むのを拒否というか無視しました。それがいいか悪いかは別として作家としての一つの態度ではあります。特に俳句の場合は「地震は俳句にならん」で通るかもしれない。虚子が言ったように俳句は花鳥風月で季節の巡りに合わせて人間感情を表現する芸術です。ストレートに人間感情を表現する芸術ではありません。
人間感情をストレートに表現する――表現できる文学をわたしたちは自我意識文学と呼んでいるわけですがこれが日本文学の主流になるのは明治維新以降です。俳句は御維新よりもずっと古いわけですから日本文学の中では鬼っ子のような非自我意識文学として残ったわけです。維新後の自我意識文学としては小説や自由詩や戯曲が代表的です。人間を描くのが表現の中心だからです。
じゃあ短歌はということになりますがこれは古代から人間を描いてきました。わたしはこう思うこう感じるが短歌表現でありその対局として花鳥風月の俳句があって日本文学のバランスが形作られてきた。あとは漢詩ですね。これはもう海外文学――当時は中国最新文学と思想――の受け入れ窓口でした。その役割を御維新後に自由詩が担うことになった。こういうことは鶴山裕司さんが『夏目漱石論』や文学金魚連載の『現代詩人論』で何度も書いておられます。一度そんな文学ジャンルの整理腑分けを聞けば多くの人が「ああそうだよね」と思うことなのですぐに一般認識になるでしょうね。
では古代から自我意識表現であった短歌はコロナの時代に突出した表現を為し得ているのかというとこれはまだ過渡的です。コロナ禍が終わってみてしばらくして総括しないとわからないでしょうね。人間世界に仮想敵を作って詠んだ短歌が除外されるだろうことは容易に想像できます。個の人間心理に食い込んでいなければ優れたコロナ短歌とはなり得ないわけですがそれがなかなか判断しにくい。わたしたちはまだまだあまりにも渦中にいます。
馬場 戦争中でも個人主義は無くなったわけじゃないですよ。みんな心に持っている。だけどごまかしてるのね。私なんか女学生だったけれども、戦争も末期になると、もう危ないのが大体見えてて、国の行き方を侮蔑していました。近代の歴史なんて国家と個人の葛藤ですよ。国家っていうのはやっぱり個人を侵すんです。だけど人間って賢いんだけれども、それをなかなか意思表示できない。私たちは戦争中もみんな個人主義でしたよ。江戸時代にも不要不急のものに携わっていた絵描きとか、俳人、学者はみんな政策に合わなくなれば追放ですから。でも、どんな時代になっても個を奪うことはできない。しかし全体の中で難しいですね。今だって電車の中でマスクしてゴホンと咳をしたら、次の駅で降りろと言われた人がいる。本当に嫌ですね。だけどもじっと辛抱してるのね。私、今度のことで一番思い出したのは、「不要不急」なんです。昭和十九年に、戦争に不要不急のものとして劇場・映画館、街の寄席まで一斉に閉まった。戦争のためだったということを思い出してね。今はコロナでしょうがないけれども似ているなって。不要不急なものを引き算したら人間の暮らし何が残るのかということですよ。
コロナ禍特別鼎談「なぜ歌を詠むのか」馬場あき子×三枝浩樹×穂村弘
歌壇のオピニオンリーダーとして馬場あき子さんと穂村弘さんを特に優れた作家だと常日頃思っているのですが今回の鼎談は馬場さんの「不要不急なものを引き算したら人間の暮らし何が残るのか」という発言に尽きるようです。野球もサッカーも演劇も音楽コンサートも不要不急ではないですね。文学ももちろんそうです。じゃあ飯を食ってクソをして寝ていれば人間幸せかというとそうではありません。
東日本大震災の翌日会社に行こうと家を出て駅に着くと電車が走っていないので長打の列ができていました。ネットでは社畜云々と小馬鹿にする人も多かったですが必ずしも会社への忠誠心から並んだわけではないと思います。
「昨日と同じ今日でありますように。明日が今日の続きでありますように」
といった感情が晴れ渡った寒空の下で並ぶ人たちの心の中にあったような気がします。駅員にダイヤを問い合わせる人は大勢いましたがおしなべて皆静かでした。人間本当に追い詰められるとなんらかの形で祈る。ムダですが祈りに近い感情が湧き出ます。しかしそこまで行くと文学にならない。諦めだからです。諦めないで日常の中で一番大切なものを見出すのが危機の文学かもしれません。
■馬場あき子選 コロナ禍短歌■
婚儀ととのひ祝言挙げたき我が家に大きな決断迫るウイルス 福島ひろし
「いい人生だった」と人口呼吸器を若者に譲り逝きし老女よ 篠原俊則
■三枝浩樹選 コロナ禍短歌■
弾く音の祈りの響き夕暮れのクレモナの街この星の芯 龍田茂
登校日ほんの二時間だけれども校舎を渡る風がうれしい 坂本千津子
■穂村弘選 コロナ禍短歌■
今日一日私を守り私から世界を守ったマスクを外す 池田典恵
ウイルスが人語を消したこの街に澄みてきこえる猫語や鳥語 松本尚樹
鼎談のお三方が選んだコロナ禍短歌です。まだまだ中間報告といったところでしょうが単なる記録ではなくどれだけ人間心理に食い込むコロナ関連の短歌が詠まれるのか楽しみです。
高嶋秋穂
■ 馬場あきこさんの本 ■
■ 三枝浩樹さんの本 ■
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