昨日の最高気温は37度1分でした。いまさら体温を超える気温なんかちっとも珍しいわけではありませんが、今がとうに立秋を過ぎた、8月も終わりを告げようとしている頃合いであることを省みるに、異常気象がもたらす季節感の喪失には、焦りにも似た思いを抱かざるを得ません。とくに季語による季節感を成立要件とする俳句にとって、ゆっくりながら確実に失われつつある日本古来の季節感は、地球温暖化による海面上昇によって少しずつ後退を余儀なくされているツバル島の海岸線に匹敵するほど、不安を掻き立てられるといっても過言ではありません。
月刊誌たる『俳句』には、月毎に変化する季節感を誌面に反映させるという編集習慣があるはずです。この8月号は夏真っ盛りの7月25日発売ですから、暑い夏に相応しい誌面が求められてしかるべきでしょう。だから、先ず表紙をめくって目に飛び込んでくるのが、マシーントレーニングで胸筋を鍛えている男性のカラーグラビアだとしても、それが汗でてかりを帯びた精悍な顔立ちの初老男性だとしても、初老にしては羨ましいほど豊かに逆立った髪の毛だったとしても、俳句雑誌の季節感に特に異を唱えるものではありません。暑さには暑さをもって立ち向かうというような、「向かい酒」よろしき季節感もまた俳句的ユーモアのうちと言えるでしょう。
タンクトップから剥き出しになった上腕二頭筋が、20キロのダンベルの負荷にはちきれんばかりです。この俳人にあらざる風体の男性は、紛れもない俳人の今井聖氏ではありませんか。昭和25年生まれということはまだ62歳。高齢者人口の多い俳句の世界では、初老とお呼びするにはためらわれる年齢ですが、このようにナルシストであることは効果的なアンチエイジングに違いありません。グラビアフォトの端に今井氏の俳句が一句添えられています。「灼くる太腿ハードルを倒し倒し 聖」。季語の無い俳句ですが「灼くる太腿」がもたらす季感は夏から秋といっていいでしょう。しかしハードルを二つも倒すようでは、この選手にとって思うようなレースではなかったに違いありません。季節以上に体の中の血は熱く滾っていたことと思われます。
この句の「倒し倒し」というように、俳句作品にはしばしばリフレインが用いられます。もちろん詩や小説や歌詞なんかにもよく使われますが、俳句や短歌のような短詩形に用いられるとかなり目立ちます。俳句作品の中でリフレインが用いられると、それはしばしば主役であるべき季語を喰ってしまいます。リフレインを使う主体としての作者が、季語の存在感を凌駕すると言ってもいいでしょう。そのメカニズムは無意識の裡に作動します。季語という制度を超越するほどの無意識に発動する欲望とは、いったい何に起因するのでしょうか。そのひとつとして作者固有のナルシシズムを仮定してみましょう。つまりリフレインが作者のナルシシズムによって呼び寄せられたものと考えれば、逆にリフレインによって作者という個が俳句テクストに招来されると言えます。つまりナルシスティックな俳人ほど俳句にリフレインを使いたがる傾向にあるようです。今月号の巻頭を飾る高橋睦郎氏の特別作品50句の中にも、リフレインを使った作品が9句も登場します。
陵や葉うら葉うらの夏深き
露の門ひらくや露の柩出づ
一燈火夜なべ家族の向き向きに
餅好きのわれに切餅丸の餅
蟲出しに塞ぎの蟲や疳の蟲
水送りあれば水取り星豊か
三姫のことに雪姫春の雪
梅雨雷いつしか日雨日雷
天神は雷霊水霊(いかづちみづち)大夕立
高橋氏はもともとは詩人だったはずですが、今ではすっかり俳人の顔です。若い頃書いていたどちらかと言うと内省的な詩には、詩人のナルシシズムが言葉の端々からほとばしっていましたが、俳人になってもナルシストは変わらないようです。断っておきますが、俳句にとってナルシシズムが有益か無益かは別問題です。もちろんナルシストが悪いと言っているのでもありませんので誤解無きように。
季節感に話を戻しましょう。今月号では「どうなる!?二十四節気」と題された緊急座談会が目を惹きます。一年を四等分したものが四季ですが、二十四節気(にじゅうしせっき)とは一年を二十四等分に区分けしたもので、立春とか夏至とか秋分とか大寒とかいう言葉として我々の生活になじんでいます。ただし、清明(せいめい)とか芒種(ぼうしゅ)とか霜降(そうこう)などの二十四節気になると、特に暦マニアでもない限りあまりなじみがあるとは言えません。しかし季節感を要諦とする俳人にとって歳時記にも載っている二十四節気は、無視して通り過ぎることはできない基本と言えるでしょう。
「緊急」とセンセーショナルな冠詞がのっかった座談会のメンバーはというと、ひとりは今や俳壇の長老になりつつある宇多喜代子氏。そして来るべき伝統俳句の主導者たらんとする長谷川櫂氏。そして昭和5年生れの歴史学者にして暦研究家である岡田芳郎氏の三人です。緊急にしては錚々たるメンバーを揃えてくるあたりさすが角川ですね。因みに岡田氏と長谷川氏は「日本版二十四節気専門委員会」のメンバーとのこと。暦や季節といった文学の範疇をあっさり超え出るような、それこそ地球規模のマクロな問題を俳句というミクロな文学形式を媒介として見詰め直してみるにはうってつけの面々です。
ところで日本版二十四節気とあるように、二十四節気ってもともと日本古来のものではなかったんですね。啓蟄といい大雪といい子供の頃から生活に定着した言葉として耳慣れていたので、つい日本生れと勘違いしていたようです。座談会の冒頭で長谷川氏が、「(二十四節気は)古代中国で成立したため、日本の実態と合わないところがあります。たとえば立春は二月の初めですが、日本ではとても寒い時期です。いわゆる春とはずれている。ひとつはそのずれを正そうということでした。」と、そもそもの問題の発端を説明しています。なるほど中国伝来ならば日本と気候的な差があっても致し方ありません。
しかし、こうした暦の上での言葉の意味と、実際に感じる季節のもつ意味とのずれが、それほど深刻な問題として俳句に関わってくるのは何故なのでしょうか。長谷川氏の説明の続きを引用します。
委員を集めて話し合ったところ、二十四節気はたんに暦だけの問題ではなくて、日本の時間の制度のひとつの枠組みだから、日本文化の土台にかかわる。これを動かすとなると影響が大きすぎて、たとえば過去の文学が分らなくなって、文化の断絶も起きてしまうという認識になってきた。
俳句どころか日本文化の土台にまでかかわってくる問題なのですね。春分や大暑や冬至の時期の位置づけが季節の中で変わってしまうと、それまでに書かれた文学が理解できなくなり、それによって文化の断絶に至るという認識です。これはかなり深刻な問題です。暦に無関心なのを棚に挙げて偉そうに文学やら俳句やらを語っていた自分が恥ずかしい。一方で俳人サイドの問題意識を宇多氏の発言から探ってみましょう。
新聞の記事で(二十四節気)見直しのことを知り、腰が抜けるほどびっくりしました。二十四節気がなくなるなんて、こういうことがあろうとは思いもしなかった。
二十四節気を動かしたら、何かがぐちゃぐちゃになる。そう直感しました。(中略)違う日本になるんじゃないかって、大げさに言うと、そう思いました。
いま、俳人たちは現行のカレンダーで暮らしながら旧暦というフィクションの世界で暮らしているようですね。
御高齢なだけにちょっと大げさなのは仕方ないとしても一大事には変わりないようです。これに対し委員会に唯一俳人として参加している長谷川氏は冷静な姿勢を崩しません。宇多氏の言葉尻を捉えて暦の基本に立ち返ろうとします。
旧暦はフィクションではなく、いまもしっかりと生きています。(中略)日本は太陽暦の国だなんて単純に捉えられない。旧暦と太陽暦、それに旧暦が伝わる前の太古の月の暦もありますから、そういうものが三つとも共存している不思議な国です。
たしかに私たちの生活には太陰暦という旧暦が、それこそ月見草のように人知れず控えめに寄り添っています。私たちは戦後の合理主義教育によって太陽暦を常識として受け容れてきたわけですが、その文字通りの陰で太陰暦を情緒的に容認してきたのも事実です。それは旧暦がフィクションだからなのではなく、暦それ自体が我々の文化の中で十分フィクション足り得る存在になっているからに他なりません。つまり暦(=言葉)はいわば仮想された実感以上の存在ではあり得ず、私たちのリアル(=生活)のうちに入らないというのが実感であり実情なのです。
そうした仮想された季節感に敏感なのが他ならぬ俳人の長谷川氏です。二十四節気問題の発端である暦(=言葉)と季節(=生活)とのずれに関して、長谷川氏は次のように述べています。
中国の二十四節気を日本に持ってきた時、そもそも最初から日本の気候とはずれていたのです。でも、その「ずれ」が逆にとても大事です。(中略)この「ずれ」こそが日本文化を生んだと思います。ずれをなくして、暑い時が夏であって、寒い時が冬としてしまうと、じつに単純な、つまらない季節感になります。
長谷川氏のこの指摘は卓見です。本座談会中の白眉と言ってもいいでしょう。つまり日本文化が繊細な美を獲得した要因とは、リアルな生活(=季節感)とは「ずれ」た、よりフィクショナルな言葉(=暦)そのものにあったというわけです。フィクショナルであるからこそ「これからも旧暦は生き続けると思う」(長谷川)わけです。
また、最初は改変ありきで始まった「日本版二十四節気専門委員会」での論議は、「それはならんということになりました」(長谷川)という暫定的とはいえ、ほとんど最終的とも思える結論でいったん幕引きとなったということです。この結論に対して最後に宇多氏が一言、「安心しました」と締めくくっているのがなんとも微笑ましく、逆にじゃあ何のための緊急座談会だったの、というなんとも腑に落ちない後味の悪さを残して緊急座談会は唐突に終ります。
微笑ましいといって終らせるのはなんとなく癪に触るのでいらんことを言わせていただきますと、座談会の最後の下半ページには出席者である岡田氏の著書『暦ものがたり』の広告が入っています。言うまでもありませんが角川選書の一冊ですからこれは社告です。また今月号の裏表紙(広告用語で表4)は、江戸時代の天文学者を主人公にした角川映画『天地明察』のカラー広告です。内容を簡単に言うと日本独自の暦を創った天文学者の物語で、角川映画にしてはことのほか地味な、「暦」にまつわる人間像を描いた映画と言えます。
勘の鋭い読者の皆様はすでに御明察かと思います。「緊急座談会 どうなる!?~」とのセンセーショナルな企画はどうやらパブリシティだったようです。パブリシティとは本来「公的な」という意味で、メディアではいわゆる「記事」のことを指しますが、最近は「記事」に「広告」の役目を負わせるような、フィクションまがいの怪しいパブリシティも頻繁に目にします。つまり広告と考えれば、この緊急座談会のどことなく予定調和的な結末も納得できます。
気を取り直して次の記事へと目を転じましょう。その前にちょっと道草ではないのですが、私たちが文学作品を書いたり読んだりする際に、フィクションであるかリアルであるかがしばしば問題視されます。一昔前ですとそうした価値基準は作品の題材の検証に使われたものでしたが、テクスト論が批評潮流のメインストリームをなすようになった昨今では、もっぱら作品を構築する言語自体に対してフィクションやリアルといった価値基準が適応されるようになりました。
ここでフィクションとして戦争を持ち出すのは、何も時節柄というわけではありません。しかし、私たち戦後に生まれた世代にとって、戦争はお話でしか体験できないものです。どこまでいっても私たちにとって戦争はフィクションなのです。戦争体験の風化を防ぐという意味合いとは別に、フィクションとしての戦争体験による言語作品化が、どの程度リアルな世界を構築できるのか。なかなか興味深い問題であります。
そんななか今月号で最も刺激的だった記事は何かと言うと、特別寄稿と銘打った「GHQの俳誌検閲と俳人への影響」という川名大氏の論考でした。川名氏は近代俳句の研究者ですが、ちくま学芸文庫の『現代俳句』上下巻や『モダン都市と現代俳句』(沖積舎)といった著作からも伺えるように、その関心は戦後の前衛俳句周辺にあるようです。
川名氏の著作を調べても句集の類が出てこないことから、氏は純粋な研究者で俳句の実作はしていないようです。読者=実作者というのが当たり前の詩の世界では、大変珍しい存在といってもいいでしょう。しかしその論考は、具体的な資料の提示とそれに基づく考察を執拗に繰り返しつつ進むという、綿密にしてなおかつ分り易い内容です。いわゆる俳人による一方的な印象批評とは較べるべくもありません。具体的にいうと戦後のGHQによるメディア検閲のうち、俳句に対して行われたものを問題点別にまとめたものですが、事実関係の詳細な検証もさることながら、最後に総括として提示された「検閲が俳人たちに与えた影響」は、俳句史だけでなく俳句表現を考えるうえで大変興味を掻き立てられました。
川名氏は検閲が俳人に与えた影響として、戦時下で作られた聖戦俳句に着目します。聖戦俳句とは戦争を聖なる戦いと肯定的に捉えた上で作られた俳句のことですが、「明治生まれの旧世代の俳人たちの多くが、戦中の聖戦俳句を意図的に戦後の句集に収録せず、戦後俳句史の空白が生じた」として、検閲の俳句史的な影響を示します。ここでは聖戦俳句のいくつかを引用してみます。
十二月八日といふ日太陽(ひ)の如し 高浜虚子
寒林の疾風(はやち)呼ぶごと国起ちぬ 富安風生
蘭の花葉先の夜空神山本 加藤楸邨
松蝉や提督の死処天涯に 山口誓子
神鷲と言ひいわれもす畏しや 飯田蛇笏
こうした聖戦俳句を川名氏は、「戦意昂揚や皇国の観念を先験的に用意した句で、本質的な作品ではない」とします。そして聖戦俳句を収めなかった戦後句集として、蛇笏の『春蘭』、誓子の『激浪』、三橋鷹女の『白骨』などを挙げます。また、旧世代以降の新興俳句にも目を向けて、水谷砕壷の「神々の跫音に醜の敵崩る」や富沢赤黄男の「巨塞陥つしんしん春の雪降る日なり」などを聖戦俳句として列挙します。
川名氏はこうした実例を提示した後の考察において、俳人が戦中に作った聖戦俳句を戦後の句集に収録しなかった事実を、「聖戦俳句を作った作家的負い目を自己の生の軌跡からリセットしたいという心根は、GHQの検閲という外圧によって逆説的に遂げられたといえよう」と俳句史的に位置づけます。
さらに、「明治生まれの旧世代俳人の多くは兵役に服することはなかった。他方、渡辺白泉や石田波郷を最年長として鈴木六林男・佐藤鬼房・金子兜太ら大正世代の青年たちの多くは出征した」として、前者が銃後で作った聖戦俳句を「類型的」とし、前線で後者が作った「戦争俳句」を「本質的」と捉え、この対比を俳句史上の大いなる逆説と結んでいます。
川名氏が、前線の兵士が作ったと言う意味でより本質的と考える、つまりリアルな戦争俳句として引用した句は下記の3句です。
遺品あり岩波文庫「阿部一族」 六林男
曚曚と数万の蝶見つつ斃る 鬼房
魚雷の丸胴蜥蜴這い廻りて去りぬ 兜太
聖戦俳句がフィクションゆえの後ろめたさゆえに闇に葬られたのに対し、戦争俳句はリアルであるという本質ゆえに史的逆説として延命された、と考えられます。しかしこの両者の作品を注意深く読むと、聖戦俳句の方がフィクショナルな分だけより言語表現的とは言えないでしょうか。戦争俳句は言語によって戦争という題材のリアルさを超えることができていないように思えます。
もちろん川名氏の考察にも、やや類型的な評価基準による杓子定規な印象は否めません。また川名氏自身が書いているように、「俳句の検閲に関する研究はいまだ緒にも就いていない」のが実情のようです。
いまさら言うのもなんですが、こうした戦争にまつわる文学的な問題の究明は極めて遅れているように思われます。遅れているなら遅れているで今後進む可能性もありますが、そうした可能性の光の一筋すら見えないのが戦争文学研究の現状ではないでしょうか。それはまさに歴史の闇に葬り去られたといっても過言ではありません。フィクションとリアルの問題を戦争という物的証拠から考察する上で、川名氏の検閲研究の今後には是非注目し続けるべきではないでしょうか。
釈照太
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■