今号は「特集 開眼の一句はこれだ!」。納得のいく一句を得るのは大事だが、それだけでは済まないのが俳句の難しいところである。俳句だけではない。どんな文学ジャンルだって一作いい作品を書いて終わりというわけではない。納得の仕方を間違えると一つ秀作を書いてもそこで行き止まりということにもなりかねない。とにかく素晴らしい作品を書こうとするよりも、自分が納得できる作品とは何か、どうやってそういう表現に至ったのかをキチンと把握する方が後々大事になると思う。
短歌から来たせいか、どうも思いを述べるのに忙しく、いい句がちっともできなかった。とにかく、俳句の構造がわかっていなかった。本質がわかっていなかった。(中略)
転機は、さる歳時記に少し関わるようになったことだった。季語の本来のあり方、例句が本当にふさわしいか等について、延々と会議してゆく中で、「自分はなんて馬鹿だったのだろう」と青くなった。(中略)
では、どうしたら改善できるのだろう。そこで「兼題をしっかり学ぶ句会をつくってしまおう」と思い立った。最低でも十の兼題を提示して、季語の使い方や誤った用い方について皆で考える、それがいいかしらと思うに至った。(中略)そうした中で生まれたのが〈海流のぶつかる匂ひ帰り花〉という句である。これは、一物仕立てにされがちなこの季語に、何か取り合わせることができないかと思って得た作品だった。
櫂未知子「喪失がもたらすもの」
「喪失がもたらすもの」は、櫂未知子さんの高い俳句理解を示す優れたエッセイである。「俳句の構造がわかっていなかった。本質がわかっていなかった」とあるが、完全とは言えないにせよ、今は俳句の構造や本質が理解できたということである。櫂さんの場合、季語の理解を深めることが契機だった。しかしそれが五七五に季語を入れるといった単純な操作でないことは言うまでもない。
一瞬にしてみな遺品雲の峰
仮通夜や冷やし中華に紅少し
両親の遺髪の揃ふ野分かな
櫂未知子
「兼題をしっかり学ぶ句会」を解散した二日後に、櫂さんのお母様がお亡くなりになった。引用はその時詠んだ句で、「あの時思ったのは、「死は具体的なもの」ということ。死にまつわるあれこれは、全て「遺品」「(冷やし中華の)紅」「遺髪」といった「もの」を通しての感慨によって表現されるのだと知った」とある。
櫂さんが指摘しておられるのは、俳句の言葉は抽象ではないということである。もっと突き詰めれば季語は季節の象徴=シンボルではないということだ。季語はモノであり循環する季節という抽象概念をその中に含む。俳人は季語=モノから季節の巡りという抽象概念の本質に迫ってゆくのである。俳句においては季語=モノが絶対的(な主語)なのであり、作家の強い自我意識表現は従ということでもある。
このあたりの機微を簡単に説明するのは難しいが、俳句では「私が」と短歌的に書き出せばまず間違いなく行き詰まる。ではどうしたらいいのかと真剣に問いかければ、俳句がなぜ季語を手放さないのかがわかってくる。俳句にとって季語は一種の絶対言語である。
櫂さんは「私の低迷期は、俳句を始めた一九九〇年から「遺品」の句が生まれた二〇一〇年まで続いたのだから、なんと二十年に及ぶ」とも書いておられる。二十年は確かに長いが、櫂さんがつかんだ俳句の構造・本質は正しいのだから、それを正確に理解する者は二十年を十五年、十年に縮めることができるだろう。
現代は男の子受難の時代である。俳壇を見回しても文学として優れた俳句を書いている作家は櫂さんや恩田侑布子さんなど女性が多い。ジェンダーとも多少関わりがあるが、男の子の独断場は社会性である。天にも昇るような極端な観念軸が立っていないと男の子の作品は魅力的にならない。
しかし現代ではそういった社会的観念軸を得るのが難しい。震災だ、原発だ、重信から続く唯一の安井浩司的前衛句がよさそうだと、どう見たって寿命の短い観念に後先考えずにしがみついては玉砕してゆく。櫂さんのように地に足のついた思考と試行が必要である。しばらくは文学としての俳句は女性作家によって支えられる時代が続くかもしれない。
中村草田男、加藤楸邨、石田波郷という人間探求派の三人に関する気になる文書を発見した。大野林火の「現代俳句の二つの道」(「風」昭和二十九年八月号)である。(中略)
林火はこの中で、十五年ぐらい前なら俳句の道は自然諷詠と人生諷詠の二つの道であったが、それが近年、更に二つの道に分かれているという。
現代俳句は俳句を自分に引きつけたところから詠ふといふことになるのですが、それがいま二つの道に岐れているやうに思へるのです。
つまり「揺れている現代の中」に於て社会性を強く詠はうとする人とさうした中に於る個人を強く詠はうとする人とがいるんです。波郷さんなどは後者です。前者には楸邨さん、草田男さん、さらに(中島)斌雄さんなども数へられませう。
林火はここに登場する人間探求派の草田男、楸邨、波郷が「二つの道」に分かれているというのである。具体的な作品に即して考えると分からなくはないのだが、それももとは人間探求派であったはずだ。一体この二つの道はいつから分かれたのであろうか。
筑紫磐井「人間探求派の二つの道」
今号には「人間探求派俳句」の特集も組まれており、筑紫磐井さんが「人間探求派の二つの道」の巻頭論考を書いておられる。筑紫さんは昭和二十九年(一九五四年)の大野林火の「現代俳句の二つの道」という講演を元に論じておられるわけだが、林火の発言は確かにいろいろ考えさせられる。林火は彼の現代(昭和二十九年)には、
・「揺れている現代の中」に於て社会性を強く詠はうとする人
・「揺れている現代の中」に於て個人を強く詠はうとする人
が新たに現れたと言っている。「揺れている現代の中」を前提として「人間探求派」が生まれたわけが、主に社会性を表現したのが加藤楸邨と中村草田男、主に個人を表現したのが石田波郷になると言う。この人間探求派内での分岐がいつ起こったのかを筑紫さんは論じておられるわけだが、それは実際に論考を読んでご確認いただきたい。ここでは大野の発言の一番の前提にこだわってみたい。
林火は「現代俳句は俳句を自分に引きつけたところから詠ふといふことになる」と言っている。一種の主観俳句であり、これが子規-虚子の客観写生からの水原秋櫻子の離反、戦中の新興俳句、そして戦後の人間探求派、兜太の社会性俳句、重信の前衛俳句など様々な流れになっていったと言うことができる。比喩的に言えば俳句という抽象的絶対存在(とりあえずそう言っておきます)を前提とせずに、作家の個性で俳句を染め上げようという動向が戦前からあったわけである。
この広義の主観俳句は現在まで一貫した大きな流れとしてある。商業誌や結社、同人誌を読んでいて「ああ違うな」とパッとわかるのは純客観俳句の作風である。もちろんそれは子規―虚子の写生俳句とはちょっと質が違う。素直な外界の写生ではなく、いったん主観表現を突き抜けて客観に達した質の句である。櫂未知子さんの句などが典型的だろう。
柿食ふや命あまさず生きよの語
命美し槍鶏頭の直なるは
今生は病む生なりき烏頭
石田波郷
死ねば野分生きてゐしかば争へり
鰯雲鼻の孤独の極まるなり
冬の薔薇すさまじきまで向うむき
加藤楸邨
降る雪や明治は遠くなりにけり
塩ささやく寒卵なる茹玉子
林檎掻き出し掻き出し尽きし其籾殻
中村草田男
人間探求派三人の句である。病苦に悩まされた波郷句が主観表現中心になるのは半ば必然である。波郷はそれを能動的に選択してもいる。楸邨は俳壇の重鎮として多くの弟子を育てて淡々と生きたが、その俳句もまた主観によって外界を内面化している。草田男はちょっと違う。もちろん兜太に通じるような社会的発言意識の強い作家だったが、最良の作品は主観表現を抜け出している。このあたりの現代俳句の二つの大きな流れの源流として人間探求派は重要な位置を占めるのだろうと思う。
岡野隆
■ 櫂未知子さんの本 ■
■ 金魚屋の本 ■