今号では「大特集 森澄雄」が組まれている。大特集の名に偽りのないページ数の割き方だ。特集を組むならこのくらい思い切った厚さがないと意味がないだろう。
森澄雄は大正八年(一九一九年)生まれで平成二十二年(二〇一〇年)に没した。享年九十一歳。長崎出身で九州帝大経済科卒だが父冬比古(雅号)が俳人だったこともあり高商時代から俳句を始め、加藤楸邨主宰結社誌「寒雷」に創刊号から参加した。楸邨山脈の主要俳人の一人である。二十三歳から二十七歳まで長期に渡って従軍しており、ボルネオに行かされたので凄惨な戦争も経験している。処女句集『雪櫟』上梓は戦後の昭和二十九年(一九五四年)で三十五歳だった。『寒雷』編集長を経て主宰結社誌「杉」を創刊した。六十三歳で脳梗塞で倒れてから左半身に麻痺が残ったが、旺盛に句作を続けた。
冬の日の海に没る音をきかんとす
除夜の妻白鳥のごと湯浴みをり
磧にて白桃むけば水過ぎゆく
明るくてまだ冷たくて流し雛
雪夜にてことばより肌やはらかし
父の死顔そこを冬日の白レグホン
綿雪やしづかに時間舞ひはじむ
餅焼くやちちははの闇そこにあり
送り火の法も消えたり妙も消ゆ
夢はじめ現はじめの鷹一つ
白をもて一つ年とる浮鷗
「森澄雄 百句」(抄出・森潮)より
ご子息森潮さん撰の「森澄雄 百句」から初期作を抜粋した。
「除夜の妻白鳥のごと湯浴みをり」は澄雄代表作としてよく知られているが、「磧にて白桃むけば水過ぎゆく」「白をもて一つ年とる浮鷗」など白を詠み込んだ俳句が多い。「餅焼くやちちははの闇そこにあり」は明暗が句の背景になっている。これを抽象的表現にすると「夢はじめ現はじめの鷹一つ」になるだろう。明るい光は闇と背中合わせであり、現実と夢は地続きであるといった表現だ。こういった清潔な淡さが澄雄俳句の特徴であり、その句が愛されている理由だろう。
これらの表現がどのような機微で生まれてきたのかを考えると、一つ森澄雄論ができあがるはずだ。澄雄の場合、足かけ五年にも及ぶ従軍体験はあまり俳句に表れない。金子兜太のような社会主張とはほとんど無縁の俳人だった。プライベートを俳句のテーマにした作家だと言ってよい。
ただその私的表現は実に淡い。比喩的な言い方をすると、澄雄は一度死んでいてそこから生に回帰してきたような印象だ。代表句「冬の日の海に没る音をきかんとす」は澄雄俳句の生成システムをよく表していると思う。冬の海に太陽が没する音が聞こえるはずがない。ただ澄雄はそんな音を聞こうとしている。この句が突飛な発想に頼った抽象句になっていない(そう受け取られていない)のは澄雄のいっけん淡いが、その強さを確信する心性あってこそである。
かつて「(飯田)龍太・澄雄」時代といわれた時期があった。(中略)
「龍太・澄雄」時代を導くのに一役買った山本健吉は、ある座談会で「龍太君は面を打つけど、澄雄君は籠手を取るから損をしている」(中略)と発言したというが(中略)龍太の隙を見せない正眼の構えに対して、澄雄の身構えることのない自在さをいったのだろうか。(中略)健吉は龍太の〈いきいきと三月生る雲の奥〉の句、澄雄が(中略)詠んだ〈雪国に子を生んでこの深まなざし〉の句を例証としている。あえてわたしがそれをあげるなら、
鶏毮るべく冬川に出でにけり 龍太(昭23『百戸の谿』)
磧にて白桃むけば水過ぎゆく 澄雄(昭30『花眼』)
ということになる。
堀切実「森澄雄から受け継ぐべきもの」
少し飛躍したことを言えば、堀切実さんが指摘なさっている飯田龍太と澄雄の句の違いは、人間探求派の魅力とそのわかりにくさをよく表している。
今さらだが人間探求派は山本健吉司会で、楸邨、中村草田男、石田波郷、篠原梵が参加した座談会で生まれた言葉というか、一つの俳句の潮流である。健吉が参加者四人の俳人の特徴を「貴方がたの試みは結局人間の探求といふことになりますね」と発言したことが発祥である。
ただ楸邨と草田男が犬猿の仲だったことからもわかるように、人間探求派といっても一枚岩ではない。ザックリ言ってしまうと草田男は俳句を文学として捉えたいと指向する俳人たちに支持され、楸邨・波郷は俳句を愛する人たちに支持されてきた面がある。当然楸邨・波郷支持の方が多いわけだが、俳句は表向き〝文学〟ということになっているので草田男の方がより俳句文学を代表する句だと論じられる傾向がある。
もちろんどちらかの立場が正しいと言っているわけではない。ただ人間探求派という言葉(俳句潮流)はよく知られている割にはその実体が曖昧だ。人間の心や行動を探求すると言っても俳句ではたかがしれている。澄雄俳句が写生俳句の系譜にあり、強い自我意識を詠もうとしたわけではないのは言うまでもない。ただ人間+探求がくっつけば、作家の自我意識を無視するわけにはいかない。
堀切さんの指摘は示唆的で、龍太「鶏毮るべく冬川に出でにけり」の句には作家の自我意識が表現されていない。龍太俳句は骨太な印象を与えるが、その理由は写生を徹底したことにある。「鶏毮るべく」は冬の川べりにニワトリの毛をむしりに行った(家族の夕食のため、あるいは客人をもてなすため)という意味である。人間の行動が描写されているわけだが、俳句だけ詠めばこれを龍太本人の行動と特定する理由はない。自己の感情はもちろん行動も客体化(写生化)されている。
対して澄雄の「磧にて白桃むけば水過ぎゆく」では、白桃を剥く人は澄雄本人でなければ句は魅力的にならない。賽の河原に黄泉比良坂で投げられた桃、という解釈が可能で、それが「水過ぎゆく」と淡く表現されまとめられるなら、その表現主体(解釈者)は作家自身とならざるを得ない。写生句の一種ではあるが澄雄句は意外と主観的なのだ。
亀鳴くといへるこころをのぞきゐる
めつむりてひらきておなじ春の闇
おのれいまおのれのなかに草紅葉
われ亡くて山べのさくら咲きにけり
妻がゐて夜長を言へりさう思ふ
妻恋へばここは現し世法師蟬
妻亡くて道に出てをり春の暮
水仙のしづけさをいまおのれとす
憂さもなし悦びもなし閑古鳥
美しき落葉とならん願ひあり
妻ありし日は女郎花男郎花
「森澄雄 百句」(抄出・森潮)より
森潮さん撰「森澄雄 百句」から中・後期の作品を抜粋した。
いずれも堂々とした見事な句なのだが、なにか引っ掛かる。なにが引っ掛かるかと言えば、澄雄俳句は初期から後期まで「亀鳴くといへるこころをのぞきゐる」の心性に留まっているのである。確かに「憂さもなし悦びもなし閑古鳥」「美しき落葉とならん願ひあり」といった達観を詠んだ句もある。しかし達観の心性を客体化して表現した俳句ではない。〝そうありたい〟と詠っている。それが澄雄俳句に今ひとつ虚空に抜けるような爽快感を与えない理由だろう。ちょっと極端なことを言えば、最初から死んだような心性で俳句を詠みながら生を諦めきれない人の、煩悩が非常に強い自我意識句といった感じがする。
澄雄中・後期の句では「妻がゐて夜長を言へりさう思ふ」「妻亡くて道に出てをり春の暮」といった句が比較的よく知られている。いわゆる妻恋の句である。ただここにも突き放したような作家の自我意識の客体化はない。やはり煩悩であり妄執が入り交じっている。ただそれが澄雄が生涯をかけて定着しようとした俳風である。
簡単に言えば楸邨-澄雄の人間探求派の俳句とは、自我意識を抑えて写生による徹底客体表現を是とした子規-虚子の有季定型写生俳句の流れを踏まえながら、主観のフィルターをかけて自然を写生(描写)する方法だったと言うことができる。そこに波郷の病床句の自我意識表現をプラスすれば、人間探求派という俳句潮流どんなものだったのかが見えてくるはずである。
写生は客体表現によって作家の自我意識を表現する。対する人間探求派(楸邨-澄雄-波郷)は自然といった外界を一度内面化して俳句に表現する。「おのれいまおのれのなかに草紅葉」「水仙のしづけさをいまおのれとす」といった表現が端的だろう。
この表現方法は現代人にとてもフィットする。楸邨-澄雄-波郷の人間探求派が、その定義が曖昧なまま多くの俳人を惹きつけ、大きな俳句潮流になり得た理由である。現代人は強い自我意識を持っており、客観写生に終始することに我慢がならないのだ。私を表に出しながら写生俳句に忠実であろうとした俳風が人間探求派だと言ってもいい。
ただ一方に龍太らの純客観俳句がある。また人間探求派の一方の雄である草田男は自己の主観フィルターを徹底して、龍太らの伝統とは別質の、自我意識をほぼ完全に客体化した俳句を詠んだ。
繰り返せばどちからの、あるいは誰かの俳風が絶対に正しいというわけではない。ただ正直に言えば澄雄俳句はどこかぬるい気がする。それが魅力的でポピュラリティがあると言われればそれまでですが。
岡野隆
■ 森澄雄の本 ■
■ 金魚屋の本 ■