季節、季語に敏感な俳句雑誌なので、今号は新春特集である。「新年詠33名!」で俳壇を代表する俳人の新作句が掲載されているほか、「実用特集 私だけの新年詠の詠み方」も組まれている。「私だけ」もないもんだとは思うが、角川俳句ではおなじみのホットドッグ・プレス方式である。手っ取り早くノウハウを学んでとにかく俳句を書く、それが俳句の王道だ。
ただま、それがあながち間違いではないのが俳句の面白いところであり、怖いところでもある。どんなバカだって俳句くらい詠める。初心者でなにも知らず、なんの欲もなければそれなりに面白い句が二、三句詠めてしまうのが俳句というものである。だからヒマになった高齢者が俳句にはまったりするわけだ。しかしそこから先にはなかなか行けない。知恵をつけなければならないわけだが、知恵がつけばつくほど、なぜかしょうもない句が増えたりする。
商業句誌はテニヲハ指導のオンパレードで、毎月毎年同じことを繰り返している。どこかの版元からほぼ毎月のように書籍で出ているテニヲハ本も似たような内容だ。つまりテニヲハ技術の知恵をつけても俳句はよくならない。では理論を極めるべきなのか。これも難しい。
小難しい理論をこねくりまわしても、俳句は必ず五七五に季語に戻ってくる。結果は同じなのだから理論などやってもムダ、だから些末なテニヲハ指導になる。それでも真剣に俳句について考えようとすれば、なぜ五七五に季語なのかという問いになるわけだが、これに決着をつけるのは難しい。俳人には土台無理で、だから俳人は俳句の定義をあっさり「五七五に季語」と定式化する。俳句とは五七五に季語であり、俳句が文学である要件も五七五に季語。要するに考えることを放棄して平然としている。
今号では「新春座談会 俳句の可能性」をちょっとだけ取り上げる。ちょっとだけなのは、それほど座談会の内容に新鮮味がないからである。
山田 母の世代が中心の結社ですが、下の世代にも参加してもらうようにしなければと思っています。今後は、師弟関係と言うよりは、プロデューサー的な感じで、その人をどう生かしていくのか、その人のいいところとまずいところを指摘してあげたり。そして、自分の作品で方向性を示していく。
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堀田 主宰の選句は絶対的な基準が設けられながらも、今後、未来を担う弟子たちを育てるという大きい使命があると思います。
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堀本 特にツイッターをやっていて思うのは、ノマド的にどこにも属すことなく、俳句を楽しんでいる人もいるけれど、指導者を求めている人も中にはいて、さまよっている人が結構いるということ。(中略)様々な場に投句することによって、自分に合う指導者はいないかなと探しているんじゃないかと思います。
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今瀬 かつて能村登四郎が八十代後半で「この歳になっても師のありがたさを痛感する」と言っていました。これは決して郷愁ではなく、尊敬し信頼できる師に就いた時期を経てきたということは、自分を確認する拠り所を持っていることでもあると思うのです。これからの時代の結社のありようを考えれば、大物主宰は似つかわしくないかもしれませんが、やはり、主宰は一本筋を通して、主義主張を持っていなければならないと思います。
「新春座談会 俳句の可能性」より
結社ありき論で、この手の座談会は比較的リベラルな俳人を集めるので、たいてい主宰を中心に緩い理想の俳句共同体を作りましょうという主張になる。そこに広い意味での「俳句の可能性」があるわけだ。俳壇の討議はこのようなポジショントークになりやすい。結社であれ同人誌であれ、自分が所属する集団が素晴らしいになる。群れを恃まなければにっちもさっちもいかないのが俳句の世界の現実だ。
ただこれも一概に悪だとは言えない。今瀬さんがおっしゃるように、俳人は多かれ少なかれ「師のありがたさを痛感する」ようになる。俳句は近・現代文学の、唯一無二の自我意識表現という基本と鋭く対立するわけで、まずその理由をはっきりさせなければ結局はおらが村の素晴らしさの主張になってしまう。もちろんリベラル系の俳人がリベラルな結社の素晴らしさを口にするのは、まだかなりの数、絶対専制君主のような結社主宰が俳句界には生息しているからである。
また討議の前半は参加者それぞれが「私を驚かせた俳句」について語っているが、この部分と後半の結社必要論がリンクしていない。多くの俳人が鴇田智也さんの句を「私を驚かせた俳句」に挙げておられる。確かに鴇田さんの句は最近では最も新し味を感じさせる。しかし鴇田さんの句を従来通りの俳句作法で評釈しても、その新し味は正確に理解できないだろう。
結社必要論の俳人は、大局を言えばすべての俳人が結社のために、もっと言えば俳句のためになんらかの寄与をすることを前提にしている。俳句が集団的営為であればそうなる。しかし鴇田さんの句は濃厚にスタンドアロンを感じさせる。結社未所属なのはもちろん、その句はどこか俳句伝統と切れている。鴇田さん個人に留まる表現なのか、俳句全体に寄与する表現なのかは未知数だということだ。そのあたりの匂いを嗅ぎ分けなければ、いつも通り、ちょっと優れた句を挙げて句作の参考にしましょうということにしかならない。
そもそも論に戻れば、討議に参加した今瀬一博さんは俳句結社「対岸」「沖」同人で俳人協会幹事である。山田佳乃さんは結社誌「円虹」主宰。堀本裕樹さんは結社誌「蒼海」主宰。堀田季何さんは現代俳句協会IT部長で「とりあえず俳句部」代表である。俳句の世界には星の数ほど要職めいたものがあるが、それぞれが重要な役職に就いておられるわけである。
要職に就いているから商業句誌で討議に呼ばれたのだと言いたいわけでは必ずしもない。俳句界というか、俳壇はいつもこうなのだ。芭蕉没後から変わっていない。江戸時代でも明治大正昭和時代でも、各地に群雄割拠する結社の主宰が俳壇を代表してきた。俳人の数は無数だが、主宰(俳句宗匠)の数も恐ろしく多い。そしてほとんどの場合、俳人たちを束ねる結社主宰が各時代の俳壇の顔となり、高低はあるにせよ、時代時代を代表する俳句を詠んできた。
SNSの発達で結社などに所属する俳人は減っている。結社主宰の束縛を嫌って同人誌を組む俳人も多い。ただそういった俳人は、俳壇では常に〝主宰が結果を残してきた〟ことを心底恐れなければならない。いっぱしの顔をして誇り高い創作者だと思っていても、俳句の歴史がこの世界は結社主宰中心だとハッキリ示している。生半可なことではその壁は破れない。
俳句は集団的営為であり、個の創作活動でもあるが、その関係性を俳人は曖昧なまま放置してきた。それを把握しなければ、小説や自由詩のような個として俳句で頭角を現すのは難しい。結社主宰は同人誌やどこにも未所属俳人に比べれば、膨大な仕事をしている。年に数冊雑誌を出し、年に数十句俳句を詠んでいたのではダメなのである。
俳句結社は閉鎖的な面があり、同じ県であっても他結社の内実は窺い知れない。どの結社がどこの協会に属しているのかさえ、容易に知ることは難しい。(中略)先日、ある俳句大会で「師系を考える」という講演をしたのだが、参加者に尋ねたところ、自分の所属する結社・団体の主宰または代表が、どういう立ち位置にいるのか、どのような俳句観を持っているかということを知らない人が少なからずいた。結社に入った理由も「たまたま知り合いに誘われて」であることが多い。結社には属していても、師弟関係は成立していないということだ。
白濱一羊「地方の俳壇事情――どこに立ち、どこを目指すか」
結社ありきの典型的な俳壇ドメドメ文章だが、白濱さんが指摘なさっていることは面白い。俳壇はインターネット世界のように、ほとんど無限に拡がっている。とりあえず中心はあるのだが、結社や同人誌に所属している俳人は、たいていはそこが世界の中心だと思っている。俳句の中心めいたポジションに立てば、うっすらとではあるが、俳壇を見回せるようになる。しかし俳壇そのものを相対化して捉えられる俳人はほぼ皆無である。
俳壇は極めて特殊な世界である。現実制度も実際の創作活動も、俳句の世界がとても特殊でわかりにくいことを示している。俳句の大きな特徴であり、メリットもあるがディメリットも深刻だ。ただポジショントークからは何も生まれない。誰もが俳句の世界をよりよきものにしようと奮闘していることは疑わないが、結社=集団的文学、師系=俳句史の重要性が身にしみているなら、俳句の世界をもっと高い視点から相対化する必要がある。
岡野隆
■ 今瀬一博さんの本 ■
■ 山田佳乃さんの本 ■
■ 堀本裕樹さんの本 ■
■ 堀田季何さんの本 ■
■ 白濱一羊さんの本 ■
■ 金魚屋の本 ■