今号には鈴木牛後さんの句集『にれかめる』の特集が組まれている。第64回角川俳句賞を受賞した俳人である。北海道で酪農を営みながら俳句を詠んでおられる。角川俳句賞受賞作品は「牛の朱夏」だが、この時の連作を含む新句集『にれかめる』が角川書店から刊行されたのだった。
自社の出版物を書評したり、その特集を組んだりするのはどの版元でもやっていること、というより版元の義務のようなものだが、角川俳句賞受賞までほぼ無名だった俳人の特集を大々的に組むのは異例であまり記憶にない。それだけ話題性があるということだろう。
牛死せり片眼は蒲公英に触れて
『にれかめる』で最も印象に残る句は「牛死せり」だろう。実景を詠んだ写生句である。少なくとも現実描写の写生句として読める。
様々に評釈できるが、人間にとってはもちろん、動植物にとっても死は重大事である。苦しみに満ち、楽しい時間もあった生は死によって無残に断ち切られる。人間なら善人であったか悪人であったかを問わず、動植物なら世界にとって必要なのか不要なのかわからないような存在であっても、それが消えることは、世界を彩ってきた大事な要素が一つ消え去ることを意味する。死は無残でやるせない。ただ「牛死せり」は死の無残を詠んだ句ではない。
「片眼は」とあるから、牛は眼を見開いて死んでいる。肉体は死にながらその眼に世界を写している。生死の境は見開いた眼に、そこに写る世界によって表現される。決定的断絶だとも紙一重だとも言える。その眼に触れるのはごくありふれた蒲公英だ。もちろん蒲公英でなければいけない。生と死は地続きであり、ありふれたものでもある。
また蒲公英は当然、黄色い花を咲かせているはずだ。そこに生と死の循環性、最も日本的で俳句ではなじみ深いな循環的世界観が表現されているのは言うまでもない。
花を見ぬ牛と花見をしてをりぬ
終戦日牛の破水のざばんと来
涅槃雪牛の舐めゐる牛の尿
銀漢の氾濫原に牛と吾と
初空を絞りしやうな乳搾る
発情の声たからかに牛の朱夏
仔牛待つ二百十日の外陰部
牛の産むこゑ春暁を撓ませて
牛の尿月光を浴びすぐに消ゆ
正岡子規に俳句で糞尿を詠んだ句を評釈した文章がある。短歌に比べ、俳句は普通なら厭わしい糞尿を詠みやすい形式だ。それだけでなく、鈴木さんは牛の性や分娩も句で詠んでおられる。ちっとも猥雑ではない。無常観に近いような眼で世界を捉えているから糞尿や発情、出産などをサラリ的確に詠むことができる。作家が過剰な観念をかぶせれば無残になりやすい句題である。
糞尿を詠んだ句ではすぐに蕪村「大徳の糞ひりおはす枯れ野かな」が思い浮かぶ。聖は俗に通じ、その逆もまた然りである。鈴木さんもこのセオリーを踏まえておられる。もちろん俳句は万能ではなく、同じ句題を人間の生に即して表現するのは難しいだろう。ただ生と死を、その中間にある糞尿やセックス、出産を詠むことができる俳人の世界観は丸い。世界を球体として捉え、その全体を詠むことができるということである。
また俳句の表現の基本である写生は、人間存在の自我意識を小さくして、世界の本質と呼べるフレームを的確に表現するためにある。鈴木さんの場合、写生されるのは牛だが、牛であるからこそ自我意識の曇りなく世界の本質が表現できるのだとも言える。セザンヌは「林檎でパリを驚かせよう」と言ったが、鈴木さんは牛でそれを為したわけである。
羊水ごと仔牛どるんと生れて春
獣声のけおんとひとつ夏果つる
牛の眼のろろんと春日嚙みかへす
春動くるろるるろると牛の舌
牛糞を蹴ればほこんと春の土
ストーブを消せばききゆんと縮む闇
特集巻頭に仲寒蟬さんが「今こそ牛の先頭に」という鈴木牛後小論を書いておられる。引用は仲さんが選んだオノマトペを含む句である。仲さんは「これらは他に類を見ないこの作者だけの独創である。こういうことはやり過ぎると敬遠されたり飽きられたりするものだが、牛後さんの場合は実感に基づいているので読む側は受け容れざるを得なくなる」と評しておられる。
三句目の「くるろるるろる」は牛の鳴き声をそのまま言葉にしたのだろう。五句目の「ききゆん」は意図した言語的オノマトペである。俳句が創作である以上、オノマトペにも作家の作為が入り交じるのは当然である。ただ鈴木さんの句の場合、オノマトペを作為的言語操作だと受け取るとその魅力が半減する。俳句創作技術として捉えてもあまり意味がないということである。
誤解を招くような言い方になるが、鈴木さんはいわゆるプロの俳人ではないと思う。プロの俳人とは机の前に座り、過去の俳句を念頭に置き、同時代の作家を見回し、同時代の社会風俗などを参考にして俳句を生み出す作家というくらいの意味である。結社の主宰となればなおのこと、結社誌にお手本となるような作品をほぼ必ず掲載しなければならない。無理にでも俳句を詠まなければならないのだ。
このようなプロの俳人たちがいつの世でも俳壇を形作っているのは言うまでもない。しかし俳句は逆接の文学だ。俳壇ではなく〝俳句史〟を見れば、必ずしもプロの俳人が文学としての俳句を活性化させてきたとは言えない。
芭蕉が俳句の祖であり、これかからも絶対的祖であり続けるのは間違いない。だた芭蕉没後の蕉門は、芭蕉の教えを繰り返し規則化することによってじょじょに衰退していった。江戸時代に俳句中興の祖になったのは蕪村だが、夜半亭を継いだ俳句宗匠ではあるが、彼は南画家だった。俳人に専心したわけではない。明治以降の俳句の祖になった子規も同じである。短い生涯だったので一番仕事がまとまっている俳句が子規の代表作になったが、短歌、自由詩、小説も手がけた作家である。
もちろん大正から戦後には専門俳人が増える。しかし――これは多くの俳人が反発するだろうが――俳壇内ではなく、俳壇外の一般社会で人口に膾炙し、俳句文学の代表となっている句は俳壇中央から少し外れた作家が多い。久保田万太郎、中村草田男、尾崎放哉、種田山頭火、高屋窓秋、渡辺白泉、富澤赤黄男、永田耕衣らがその代表である。俳壇内では黙殺されているが、いまだ自由詩の詩人に最も愛されているのは高柳重信である。
俳句は表現を規則化すると途端に堕落する。重信のように俳句形式を壊す試みには結論が出たと思うが、五七五に季語が俳句の基礎で、写生が俳句の基本技法だとしても、それを規則のように繰り返すと堕落するのである。基礎、基本技法を額面通り捉えるのではなく、それが生まれてきた深層を探った作家だけが、本質的に俳句史に名前が残せる作家になると言ってよい。
撞着的な言い方になるが、俳句は素直に俳句を詠もうとすると、俳句にしかならない。どこかで見たような、すでに書かれたような俳句ができあがるのである。では新し味のある、俳句史に刻まれるような俳句を詠むにはどうしたらいいのか。俳句が「こんな俳句もあるんだね」と驚くような句を詠むことである。鈴木さんがいわゆるプロの俳人ではないというのはそういう意味である。「ああそうか、こういう俳句もありか」と俳句が意表を衝かれる句を詠んでおられる。
足跡を道と呼びたる雪野かな
『にれかめる』は雪原にまた一つ未踏の足跡を刻んだ句集になるだろう。
岡野隆
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