今号の特集は「戦中のうた」です。先の戦争は日に影にずっと日本社会について回っています。ただ時代時代で戦争が戦後社会にもたらす影響は微妙に違います。今現在も戦争は大きな争点であるわけですが戦後何度目かの戦後体制の総決算(の試み)の時期にさしかかっているように思います。
このところずっとお隣韓国との関係がギクシャクしてるわけですがこれは日本の経済的な没落と関係しているように思います。戦後の高度経済成長からJapan as No.1の時代の日本は余裕があった。もちろん当時の政治家を含めた人々も戦争でアジア諸国に多大な迷惑をかけたことは痛感していました。責められれば「うんゴメンね」と頭を下げ続けていたわけですがそれがなかなか難しくなっています。
まあちょっと言いにくいですが日本は韓国に対して「いい加減にしろよ」と言い始めて韓国の方は「ふざけんじゃない」とそれに倍する形で態度を硬化させているわけです。これがいいことなのか悪いことなのかはもう少し様子を見なければなんとも言えませんがある意味初めて両国が互いの言い分をぶつけ合うようになりつつあるのは確かだと思います。韓国の経済力が強くなり日本のそれが衰退していなければ対等にモノを言い合い本気で喧嘩腰になることはなかったでしょうね。
アメリカも中国に対して締め付けを始めていますがこれだって経済が密接に関係しています。中国がまあ言葉は悪いですが先進国から技術を盗み(上手に活用してかな)国内的には全体主義ですが資本主義のうま味を思いっきり享受しているのは今に始まったことではありません。鄧小平さんの一九八〇年代の開放政策からですから半世紀近く経っている。アメリカは「なにをいまさら」という問題を蒸し返しているわけですがこれもアメリカの経済的没落が背景にあります。戦後体制が変わり勢力図が塗り替えられつつあるわけですがそれを考えるにつけ先の戦争が始まりだったなぁと思い知らされるわけです。
短歌は作家の内面的心情を歌うのが基本ですから俳句に比べれば政治的表現が非常に多いジャンルです。安倍内閣への批判などの歌をしょっちゅう目にします。ただ切迫した社会状況の渦中と事後ではまったく表現が違います。渦中にいる人間はほとんどの場合先を見通すことができません。また強烈な抑圧にも晒されています。
人間が批評意識を抱いた時に初歩的な形で誤りやすいのは自分一人で何事かを終わらせられると勘違いすることです。なにかに賛成であっても反対であっても作品や文章といった形でそれをまとめてゆくと自分が書いた批評に引っ張られて「ほんとうにその通りになる」と思い込んでしまうんですね。しかし世の中は複雑です。世の中「○○すべし」「○○すべき」の言説で溢れていますがたいていその通りにならない。「いっぺん起こったことはいつまでも続く」(漱石)のです。
今の社会で戦争反対の歌を詠むのは簡単です。政治批判も誰だってできます。そういったありきたりな表現を越えたいと思うなら渦中に身を置くような精神状態を考えなければなりません。それには渦中の作品を読むのが一番手っ取り早い。短歌のような短い表現で肉体の軋みが伝わってこないような歌が読者の心を打つことはないのはいつの時代でも同じです。
■翼賛短歌■
おほけなき宣戦布告の大詔をひれ伏して聞く涙たりつつ
伊藤政一
汝が自決知りたるときに必ずや父も完爾とありと思ひね
星野丑三
愉楽からむ日本男子が本懐ぞ征け弟よ顧みなくて
志條みよ子
「召集令来た」との文字はかすみゆきやがて笑顔の兄が浮かびぬ
長崎信子
おのが子とゆめ思ふなよすめらぎの大御田子等のひとりぞ今は
岩村一木
■従軍短歌■
吾が汽車を追ひ来る母は憲兵の制止もきかで呼び続けたり
加畑孝太郎
吾が近く倒れし兵を抱きあげ声かけたれど血をはけるのみ
佐々木昇
熾烈なる敵弾道下に伏す兵の眼するどく草を握れる
前畠雅俊
波の上に暫しうめきてただよへる形相を今日のうちに忘れむ
山内清平
征くわれに口うごめかし何事か言ひたまふ母のみ声にたたず
中野正巳
今回の特集の面白いところはプロの有名歌人の作品を集めたわけではないということです。「金雀枝」「香蘭」「国民文学」「心の花」「真樹」「短歌(中部短歌)」「短歌人」「潮音」「日本歌人」「覇王樹」「ひのくに」「ポトナム」「水甕」という戦前戦中に刊行されていた歌誌から「戦中のうた」をセレクトしています。ほとんどがあまり世に知られていない歌人たちの歌です。
充実した特集でかなりの数が掲載されていますので便宜的に「翼賛短歌」「従軍短歌」といったふうにセレクトしました。翼賛短歌と言っても一筋縄ではいかないことがわかります。「汝が自決知りたるときに必ずや父も完爾とありと思ひね」「おのが子とゆめ思ふなよすめらぎの大御田子等のひとりぞ今は」には父である歌人が息子を戦地に送り出す際の断念が表現されています。「思ひね」「ゆめ思ふなよ」という言葉は息子ではなく作家自身に向けられた言葉です。単なる戦争賛美ではないですね。
「「召集令来た」との文字はかすみゆきやがて笑顔の兄が浮かびぬ」を翼賛短歌に分類しましたが果たしてそうなのかどうかは微妙です。意味的にいくら分類しても結論は出ないでしょうね。この歌もまた「笑顔の兄が浮かびぬ」という言葉で止めなければ作家の心がもたない。いずれもそれなりに雄々しい決意や決心が表現されているわけですがそれはプツンと切れて沈黙に流れ込んでゆく。
従軍短歌はおしなべて視覚的で瞬間を捉えた歌が多いです。「吾が汽車を追ひ来る母は憲兵の制止もきかで呼び続けたり」とありますが〝それからどうした〟はありません。読者の中でその後の光景が続かないのです。「波の上に暫しうめきてただよへる形相を今日のうちに忘れむ」は痛切な歌ですが表現し記録すると同時にキッパリと忘却するために書かれています。表現は鋭いのですが歌が持っている時間軸は短い。
■反戦短歌■
みづからをリベラリストと誇れりし人ら潜めり罪負へるごと
早川淸
父のみの父がをかせる罪ありや午前六時頃に検挙されたり
熊谷健一
爆音は今し頭上をすぎむとす大阪へむかふ大阪へむかふ
眞利藤雄
ねがはくばかたみの祖国戦ふ日なかれと云へる声のかなしき
石井衣子
常の死のごとく泣きしか公報のきたりしときは妻と二人ゐて
中島哀浪
■戦中生活短歌■
防火着のままに寝たるが元旦の朝を哨戒の爆音に覚む
安城登喜子
配給の炭渡らねばこの朝も子らを集めて焚火するかも
佐々木久輔
我をとりまく人の世の動きを感じをり春の花集め描き籠る日を
築地正子
限りなく諸物価あがる時にしてしみじみ子等を重荷とおもふ
岩田玄鳥
よき歌をよしと知るさへいのちなり世にいきのびて歌をまなばん
吉村春
今回の特集で驚いたのは意外と反戦(的)短歌が書かれ発表されていたことです。まあ今も日本社会は似たようなものですが当時は自主規制で一定方向に言説が誘導されていたわけです。少部数の歌誌まで当局がすべて目を光らせていたわけではありません。ただ指弾される可能性はあったわけで勇気のいることです。
ただ文学作品として見たとき反戦短歌は意外と魅力がありません。「みづからをリベラリストと誇れりし人ら潜めり罪負へるごと」も「父のみの父がをかせる罪ありや午前六時頃に検挙されたり」も書かれている通りの意味です。日本は戦争に負け戦中の挙国一致体制を一億総懺悔したわけですから戦後の文脈としては翼賛短歌の分は悪い。しかし屈折した心情が表現されているのはむしろ翼賛短歌の方に多いかもしれません。
歌としての完成度は低いかもしれませんしこれが反戦短歌と呼べるのかどうかは微妙ですが「爆音は今し頭上をすぎむとす大阪へむかふ大阪へむかふ」は心に引っ掛かりますね。米軍の戦闘機が大阪に向かっているという戦慄を表現していると解釈してもいいですし歌人がその音を聞いて大阪に急ぎ向かったと解釈してもいい。爆音は瞬間ですが時間軸が延び始めています。これが切迫した社会状況の最中の事後です。反戦短歌の持つ未来への時間軸だと思います。
「戦中生活短歌」になると歌が表現する時間軸がさらに伸びます。「限りなく諸物価あがる時にしてしみじみ子等を重荷とおもふ」「よき歌をよしと知るさへいのちなり世にいきのびて歌をまなばん」といった歌を読めば読者はその後の光景を思い浮かべることができます。子を重荷と思いながら親は戦後を生き延びたのでしょうし戦中に呑気に歌に夢中だった歌人はしぶとく生き延びるのでしょう。
短歌に限りませんが社会状況(問題)を主題にすると主客の逆転がしばしば起こります。文学は作家が主で社会が従でなくてはならないのですが社会に奉仕するような私が表現されてしまうのです。主義主張が先立つ歌は文学としての深みを得られません。
どんなに厳しい状況でも私が主体の歌には謎があります。それは時間軸で判断できます。翼賛短歌であっても割り切れない心が表現されていればそこで時間が澱のように沈殿しています。反戦や戦中生活短歌も同じです。どうなるかわからない世相を見てそれに耐えるわたしの時間軸は未来に伸びる。それは希望ということでもあります。
己がいのちさへ儘ならず恋ひゐたり水の冷静火のごとき熱
与へられし時間の終期浄くあれ天に向きてひらく花水木の白
風の入る窓の内にかく生きてゐるこの現実はいつまでつづく
いづくにか生あることをいぶかしむ心あり朝の桜若葉の下
死の刻は安らかにあれと願へどその瞬間は体験の外
孤独癖を亡き娘にいはれし吾がいま確かに孤り消えゆくらしき
死の予定してをりしかど栃若葉揺るる午前の窓を見てゐき
長生は己が希ひにあらざれどまだ果たすべき義務あるらんか
浄き死などあるはずもなしと思へどもしきりに想う晴天の富士
もう死ぬもよけれと思ふ一方でまだ仕終へたき仕事のいくつ
尾崎左永子「生きる」連作
今号の秀歌はなんと言っても巻頭の尾崎左永子さんの「生きる」連作です。尾崎さんのここ数年の歌はだいたい「生きる」連作のような質です。これはまったくもって失礼で誤解を招くような言い方なのですが簡単に言えば死にそうで死なない表現内容です。ただそれは短歌はもちろん文学にとってとても重要なのではないかと思います。
時代時代にその精神性をズバリと表現した短歌が書かれてきました。それはとてもカッコイイ。塚本邦雄などがその代表です。しかしそれとは別に文学は永遠に生き続ける人間精神を目指します。時代の寵児足り得なくてもしぶとく生き延びる表現というものはあるのです。尾崎さんの歌にあるように「死の刻は安らかにあれと願へどその瞬間は体験の外」です。文学の永遠性とは生死の境を見て死ぬのではなく生き延びることにあると言っていいでしょう。
尾崎さんは『源氏物語』の碩学のお一人ですが『源氏』では葵の上や紫の上や大姫といった魅力的な姫君たちが次々に死んでゆきます。でも『源氏』最後に表れる姫君の浮舟は死なない。最後まで死なない。正確に言うと自殺未遂して助けられたので再び死ぬことはない姫君です。
この姫君は何をしているのか。『源氏』最終一つ前のタイトルになっているように『手習』をして日々を送っています。文字を書いているのです。紫式部が長大な『源氏物語』で最後に描きたかったのは浮舟です。書き続ける姫です。文学者のあるべき姿でしょうね。作家が実際に存命かどうかは文学には本質的に関係がありません。永続性を持つ表現は死の淵から現れて未来へと時間軸が伸びている表現のことです。
高嶋秋穂
■ 尾崎左永子さんの本 ■
■ 金魚屋の本 ■