睡蓮やふと日月は食しあう
睡蓮や内なる人のみ戸を開く
墨書を書くにあたってお気に入りの句はあるようで、今回の墨書展でも、安井さんは何作かを軸と色紙の両方に書いている。『睡蓮やふと日月は食しあう』もその一つである。また同じく『睡蓮』を詠み込んだ、『睡蓮や内なる人のみ戸を開く』も色紙に書いておられる。墨書作品をじっと見ていると、きっと『睡蓮』という字を書くのが楽しいせいでもあるのだろうなぁと思えてくる。
安井さんの墨書では平仮名の優しさと漢字の強さが目立つ。安井さんは作品で、漢字を使うのか、それを平仮名、カタカナにするのかにまで繊細に気を配る作家さんである。声に出して読み上げたときにわかりやすい句ではなく、まず目で読んだときの効果を考えておられるのである。こういう作家さんの場合は選択された表記方法にも当然意味がある。
たとえば『睡蓮やふと日月は食しあう』と『睡蓮や内なる人のみ戸を開く』から平仮名を省くと、『睡蓮日月食』と『睡蓮内人戸開』になる。漢文に見えるが、当然、中国語としてはめちゃくちゃである。しかし漢字文化圏の人たちにはなんとなく句の意味がわかるはずである。僕たちが漢文と思っているのは古代中国語で、現代中国人にはとても不便な書き言葉である。だから現代中国では漢字(表記)改革が進んでいる。
また漢字文化の裾野は広い。実に様々な地域性(ローカリティ)がある。古代中国語だけが漢文(漢字での表記方法)であるわけではない。だから漢字だけ読んでも意味がなんとなくわかる作品がある。中国人は眉をしかめるだろうが、周辺国の人たちは、案外抵抗なく漢字だけで意味を感受してしまうかもしれない。もっと言えば、そこに平仮名を足して作品の微妙なニュアンスを理解できるのは、ひとまずは日本人の特権ということになるだろうか。
菜の花や月は東に日は西に 蕪村
『菜の花や』は蕪村の代表句であると同時に、蕪村作だと知らない人でも、一度は聞いたことのある名句である。この作品が名句だと言われるのにははっきりとした理由がある。『菜の花』は春の季語である。当然、昼は短く夜の時間が長い。だから先に『月』が『東』の空に上がり、『日』が『西』の水平線に沈んでゆくのである。つまりはかなげな『菜の花』を中心に、循環的な季節感、世界観が力強くこの一句で表現されている。芭蕉の『古池や』と同様にはっきりしたイメージを結ぶ単純きわまりない句なのに、無限の読解が可能なのである。日本的な思想と感性がこれらの句の中に凝縮されている。
安井さんは『睡蓮やふと日月は食しあう』を蕪村句を意識して書いたわけではあるまいが、蕪村に近い感性を持っているお方だと思う。『睡蓮』の季語は夏。睡蓮は早朝に花を開き始め、昼頃には閉じてしまう。晴れ渡った夏の空には太陽が輝き、白々とした月がまだ空に残っている。だから『日月は食しあう』のである。なんの検証もせずに、安井さんを『前衛俳句作家』だと決めつけるのは早計である。彼は十分に古典的作家である。
『睡蓮や内なる人のみ戸を開く』は謎めいた句だが、もやもやとした読後感を含めてそのまま受け取った方がいいように思う。この句は『睡蓮や』があるから謎になる。鍵が掛かっている部屋なら『内なる人のみ戸を開く』は当たり前のことである。言い換えれば当たり前の事柄に『睡蓮や』を足したことで、この句は謎めいた雰囲気を放つようになっている。『睡蓮や』があることで『内なる人』は観念化される。『戸を開く』とは花を開かせることだと読むことができるようになる。普段は隠されている、脆く、神秘的な内面を、万人の視線の元に開示させる人なのである。それから先の読解は恣意に属する。夏の早朝に、池のほとりで睡蓮が開くのを見つめながら、『あれは誰が開花させているのだろう』とつぶやく方が実り多い。
『安井浩司『俳句と書』展』公式図録兼書籍の『墨書句解題』で田沼泰彦さんが書いておられるが、安井さんの俳句には『ふと』という言葉がかなりたくさん使われている。俳句のような表現では、『ふと』などといった作家の主観的な言葉はあまり多用しないものである。しかし安井さんはその禁忌を破っている。あえて無視して使っているのだろう。『名人は危うきに遊ぶ』ということなのかな。安井さんがなぜ『ふと』を好むのかについては、また今度考えてみます。
山本俊則
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■