巻頭は村田沙耶香さんの「信仰」。芥川賞作家だがエンタメ系作品も書くことができる数少ない小説家の一人だ。「信仰」は七十五枚くらいか。短篇と中編の間くらいの枚数で、とりあえずオチはある。この作家らしい世界の拒絶がテーマになっているわけだが、テーマをじゅうぶんに表現するには枚数が足りなかったかもしれない。
私は子供のころから、「現実」こそが自分たちを幸せにする真実の世界だと思っていた。
私は自分だけでなく、周りの人にもそれをすすめ続けた。(中略)
「え、化粧水が1万円? 嘘でしょ? ほら、成分見てみなよ。私がマツキヨで買った400円のやつと、成分はほとんど同じでしょ?」
私は友達を幸せにしたくて言っているのに、皆、私の指摘に表情を曇らせた。皆、目に見えないきらきらしたものにお金を払うのが大好きだった。私がそれはぼったくりだと言い張っても、皆、絶対に、目に見えない幻想にお金を使うのをやめないのだった。
(村田沙耶香「信仰」)
主人公は永岡ミキで、実家に戻って会社勤めしている若い女性である。ミキは子供の頃から堅実な女の子だった。お祭りの縁日で売っているヘアバンドを買おうとする友達に、「やめなよ。あんなの、原価100円くらいだよ。ぼったくりだよ」と言って大人たちに「しっかりしてるわねぇ」とほめられていた。もちろんミキは単に無駄遣いを嫌う女の子ではない。それでは小説にならないわけだ。ミキは無駄遣いをたしなめはする。しかし彼女が正しいと思う「現実」に、「きらきらしたものにお金を払うのが大好き」な友達あるいは世間の人たちとは違う、絶対的に正しく揺るぎない根拠があるわけではない。
「お姉ちゃんの『現実』って、ほとんどカルトだよね」
私は妹の意味不明な言葉に顔をしかめた。
「え、何言ってるの? カルトの手口に陥りかけてるのはあんたじゃない。私はこんなに! こんなに! 私、あんたのためを思って言ってるのに!」(中略)
最後にあった日の、妹の言葉が頭から離れなかった。(中略)すっかり自信がなくなり、久しぶりに会ったアサミたち同級生の価値観に従属することにし、原価よりはるかに高い服を身に着け、原価の十倍するコーヒーを飲み、原価の二十倍はする高級なお菓子を持ってアサミの家のお茶会に顔を出し、鼻の穴のホワイトニングまでやった。けれど、なんでこんなものにお金を、という気持ちは消えなかった。
私は石毛に誘われたとき、彼を嘲笑することで自分の「現実」への信仰を取り戻そうとしたのかもしれない。けれど、未だにそれは完璧には取り戻せないまま、失うこともできないのだった。
(同)
ミキが主張する「現実」に決定的な懐疑を投げかけるのは妹である。妹はミキとは反対に夢見がちな女の子で、大学卒業後はアルバイトをしながらアクセサリーショップを開くのを夢見ていた。妹は高額な起業セミナーに通い始めるのだが、ミキは騙されているだけだと必死になって止めた。しかしそんなミキに、妹は「お姉ちゃんの『現実』って、ほとんどカルトだよね」と言い放ったのだった。
ミキの言う「現実」は、小難しく言えばマルクス『資本論』などを手がかりに考えなくてはならない商品論にまで行き着くだろう。そんなことを言い出さなくても、資本主義社会では無形のサービスに至るまでコストがかかっている。資本主義社会では本質的に無料のサービスや商品はない。原価通りに商品を売っていたのでは誰も生活できなくなってしまう。また人は何かにお金を使う。食に興味のない人にとってグルメは無駄遣いであり、服に興味のない人にとってブランド服は無駄遣いだ。お金を貯めるのが好きという人以外、現代人は何かにお金を使う。もちろん主人公は貯金に喜びを見出す人ではない。
妹の言葉にショックを受け、実家に戻って同級生たちと付き合い始めたミキは、彼女らと同じように無駄遣いを始める。しかし違和感はある。ミキは自分が信じてきた「「現実」への信仰」を「完璧には取り戻せないまま、失うこともできない」。つまりミキが求めているのは本質的には幸福論だということである。
「斉川さんは石毛とは違う。斎川さんは『騙される側』の人間を愛してる。ねぇ、私もそっちに連れていって。私には石ころはただの石ころにしかみえないし、プラスチックはただのプラスチックにしかかんじられない。でも、みんな、原価じゃない、目に見えないものにお金を払ってる。そのことを愛してる。目に見えない幻想を共有してる。私もそっちにいきたい。(中略)斉川さんなら私のこと騙せるかもしれないって、そう思ったの」
「なんでそう思うの?」
斉川さんはまっすぐ私を見て尋ねた。
「斉川さんは、だれよりも『信仰』している人だから・・・・・・」(中略)
斉川さんは私の言葉に一瞬、微笑んだ。そして青白い顔で小さく頷いた。
「私は・・・・・・このカルトを、本物にしたいの」
やっぱり、と私の心に喜びが広がった。斉川さんは、サイゼリヤの片隅で発光しているように見えた。
「私、本当に、浄水器でみんなを幸せにしようと思っていたの。みんなのためを想ってたの。今度こそ、本当に幸せにしたいの。カルトだって、それで世界中の人が救われたら、真実になるわ。そう思わない?」
(同)
ミキは地元で久しぶりに出席した飲み会で石毛という男の同級生に会った。夢見がちで楽して稼ごうとしている男である。飲み会の後石毛から電話をもらい、ミキは会うことにした。「今度お茶しないかと強引に誘われたとき、私は、あ、勧誘だなと思った」とある。ミキは石毛という人間の本質を見切っている。そうと知りながら石毛と会うことにしたのは「何に騙されているのか興味があった」からである。石毛は「俺と一緒に新しくカルト商売を始めないか」とミキを誘うが教祖は石毛ではない。同級生だった頃から真面目だがどこかミステリアスな雰囲気があり、大学時代にはカルト的な浄水器の販売に熱をあげて友達に迷惑をかけまくった斉川という女性だった。
ミキは石毛ではなく斉川に強い興味を抱く。斉川が「『騙される側』の人間を愛して」いて、「だれよりも『信仰』している人だから」である。斉川の信仰が何かは彼女自身が説明している。「今度こそ、本当に(みんなを)幸せにしたいの」ということである。斉川は「カルトだって、それで世界中の人が救われたら、真実になるわ」と言う。
ミキは石毛と斉川のカルト商売に参加するのではなく、斉川のカルトセミナーに十万円払って参加することにする。結末は作品を読んで楽しんでいただきたいが、ミキ自身が「みんな(中略)目に見えない幻想を共有してる。私もそっちにいきたい。(中略)斉川さんなら私のこと騙せるかもしれない」と言っているわけだから、おおよその想像はつくだろう。
楽しめる小説だが、枚数的な制限があるのはこのあたりである。インチキだと知りながら自ら騙されに行く以上、ミキの幸福論は本質的には満たされない。短・中編だからこういうプロットになるわけだが、ミキは早々と自分の手の内を明かし、教祖の斉川もカルト商売あるいはその信仰の手の内を明かしてしまう。つまり謎がない。長編ならカルトに惹かれ、それに埋没してゆく信者及びカルト主催者には、作品の最後まで緊張を持続するための謎が残されていなければならない。
もちろんこのくらいの長さの小説にも、作家が抱える根源的なテーマが表現されているから村田さんは純文学作家なのである。ただこの作家が抱える時に拒絶にまで発展する現代社会への違和感をもっと強烈に表現するためには、さらに強い社会性が必要だろう。
お金であれ夫婦や家族の幸せであれ、他者から見ればものすごく満たされている人の心にもミキが抱えた揺らぎや空虚は忍び寄る。カルトは本質的にそういった富裕層をメインターゲットにしている。また最初に強く詐欺ではないかと疑う人はカルトに心酔しきることはない。宗教であれカルト商売であれ、雷に打たれるようにそこに〝真理〟を見た人が教祖や信者になってゆく。幸福と不幸が裏腹になっていると意味で、そちらの方がミキが追い求める幸福論に近いものだろう。
大篠夏彦
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