今号では横山白虹の特集が組まれている。明治二十二年(一八八九年)生まれで昭和五十八年(一九八三年)に八十四歳で没した。正直なところ未知の俳人だ。編集部の紹介に新興俳句運動の推進者の一人とあって、そういえばどこかで名前は見たような気がするといった程度である。
なぜ白虹特集なのかはさておき、句誌でこういった特集を組むのは有意義だと思う。俳句は五七五に季語の定型を守り、花鳥風月的な写生におりおりの感覚を織り交ぜれば簡単に詠むことができる。ただ秀句名句と言わずとも、ちょっとでも人の記憶に残るような句を詠むのは大変難しい。詠むのは簡単だが、日本文学で一番奥が深く、一番傑作と呼ばれるような作品を生むのが難しいのが俳句である。
俳句に夢中になった人は、とにかく俳句を詠むことに憑かれているだろう。それを反映してどの商業句誌も俳句を詠むためのノウハウに多くのページを割いている。ただ一年も句誌を熟読し、俳人が書いた俳句ノウハウ単行本を何冊か読んで歳時記などを買い揃えれば、ある程度のノウハウは身につく。また単に技術を磨くだけで良い俳句は詠めないことに気づくはずである。
俳句は一句に集中して言葉を選び、並べ替えていただけでは良い句を得られない。数が必要である。季題や季語、なんでもいいが、様々な形で世界を詠まなければ新鮮な句は生まれないのだ。また俳句は短い表現だからこそ、俳句に集約して表現するための鋭い感性や思想が必要になる。
そういった感性や思想を学ぶには、先行する俳人の仕事が最も良い教材になる。また現役俳人よりも物故俳人の仕事の方が、色眼鏡なくその仕事を見ることができる。優れた俳人の仕事ばかりではない。突出した仕事を残していなくても考えながら読めば必ず学ぶべきものはある。
横山白虹は磊落と繊細を同時に備えたとびきりダンディで、文化全般への造詣が深く、ことに大正から昭和へかけての俳句と俳壇の場で不断に行動を続けた一人であった。
「天の川」や「傘火」など、九州から発行されていた新興俳句系の俳誌を経て、昭和十二年には自身の主宰する「自鳴鐘」を創刊している。十六歳から詩に親しみ、二十歳を過ぎて俳句を始め、「自鳴鐘」を創刊したのが三十八歳という円熟のときである。この間の句から成る『海堡』は、この時期だったからこそ書けた瑞々しい連作の句集である。わたしがことに好きなのが三十五句からなる「役の行者」、昭和十一年の作である。
怪鳥たつ梢も地震にうちふるへ
桟に血ぬれし母を抱きのぼる
葛城の山鳴りの夏の明け易く
全句にルビを付すという分厚さである。坪内逍遙の舞台「役の行者」の感興を作品にした俳句で、平面的な景を重厚なことばで立体化した意欲作といえる。この句群を収めた『海堡』には、他にも「よろけやみ」「出航」「陸軍病院」などの連作があり、横山白虹が新興俳句の方向や技法を基調にした俳人であることを歴然と表している。
(宇多喜代子「横山白虹第一句集『海堡』再読」)
特集では宇多喜代子さんが必要十分な白虹論を書いておられる。白虹は一高医科から九州帝大医学部に進学し外科医の仕事に就いたが、処女句集『海堡』は昭和十三年(一九三八年)三十九歳の刊行である。第二句集『空港』は昭和四十九年(一九七四年)七十五歳、第三句集『旅程』は昭和五十五年(一九八〇年)八十一歳刊で、生涯に出した句集は三冊のみである。
白虹は医業のかたわら小倉市議会議員、小倉市議会議長、九州文化連盟会長、現代俳句協会会長などを歴任した社会的名士でもあった。特集ではご子息の寺井谷子、横山哲夫さんが白虹の思い出を書いておられる。面倒見がよく懐の深い人だったようだ。
ただ生涯三冊の句集は少ない。医者と政治家という多忙な生活の中で、節度を持って俳句に接していたと言っていいだろう。処女句集から第二句集まで三十六年ものブランクがあり、句集『空港』が出た昭和四十九年(一九七四年)には戦後俳壇は百花繚乱の活況を呈していたわけだから、戦前刊の処女句集『海堡』が最重要になるのは当然である。
宇多さんが書いておられるように白虹は新興俳句時代の人である。新興俳句運動は多岐に渡るが初期の課題は高浜虚子「ホトトギス」の花鳥諷詠からの脱却だった。宇多さんは白虹処女句集から「怪鳥たつ梢も地震にうちふるへ」の三句を引用しておられるが、「坪内逍遙の舞台「役の行者」の感興を作品にした俳句」である。当時新聞や書籍は総ルビが多かったが俳句では珍しい。この視覚的に煩雑に見える総ルビも白虹俳句の大きな特徴と言っていいだろう。
少し乱暴なまとめだが、新興俳句初期の花鳥風月脱却の方法の一つにモダニズムがある。モダニズムは、これもいささか杓子定規だが、モダン=現代を獲得しよう、最先端の現代に追いつけ追い越せという文学(文化)運動だった。つまり〝遅れの意識〟である。日本は欧米最先端の文学より大きく遅れているという意識がダダイズムやシュルレアリスム、未来派を始めとする欧米前衛文学の積極的な大量移入になった。
俳句が日本の伝統文学であり、欧米最先端文学より遅れている、というよりほとんどそれと無縁だったのは言うまでもない。新興俳句のもう一つの大きな特徴に、俳句で強い自我意識を表現するという指向がある。それが昭和十五年(一九四〇年)の新興俳句(京大俳句)弾圧に繋がったわけだが、モダニズムと自我意識表現はコインの両面のようなものだった。
白虹の場合、自我意識表現よりモダンな表現という意識が強かった。それが日本古代の呪術師・役小角を現代劇にした坪内逍遙の劇の俳句的表現(再解釈)になっている。日本人が見慣れていてストーリーなどもわかっている劇の一場面を捉え、それを可能な限りドラマチックな言語表現にまで高めたわけである。宇多さんの言葉で言えば「平面的な景を重厚なことばで立体化した意欲作」ということである。古典劇の言語的〝異化〟である。
この言語的な異化は、新興俳句運動初期に大きな論争になった日野草城のミヤコホテル連作批判と質的に同じである。今読むとなんてことはないが、ミヤコホテルはいわゆる猥褻論争で、俳句に性を取り込む是非が問われた。草城は虚子や草田男から激しく批判され白虹俳句は好意的に受け止められたわけだが、それは取り扱った題材の違いであって俳句表現の幅を拡げようという意図は同じだった。俳句である以上、露悪的表現になるはずもなく、古典劇であれ性であれ言語的異化が底流にある。
一斉にたちて音あり浜の蠅
屏風絵のをりをり見えぬ榾明り
藻まみれの七夕竹や田打蟹
枯芝に軋道車灰をのこしたり
いかり綱透きとほりをりもづく採る
水しまし茨生かげの死魚に憑く
くらき夜や楊貴妃桜天に咲く
白虹はその初期は特に、とにかく俳句にいろんな要素を、言葉を詰め込んだ。スラリとした俳句は少なく起伏のある言語表現が多い。白虹は学生時代に川路柳虹や北原白秋と交わったことが知られており、その句風の底辺に当時のモダニズム的自由詩の影響も見て取れる。
岡野隆
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