今号では特集「不易と流行」が組まれている。不易流行は芭蕉俳句の中核理論で、芭蕉その人が俳句を文学に高めた(成立させた)人なので俳句の中核理論でもある。巻頭に大輪靖宏さんが「芭蕉俳句と不易流行-不易流行と今後の課題」を書いておられるが「この不易流という言葉を直接に論じた芭蕉の文章は存在しない」とある。蕉門の向井去来の『去来抄』などによって芭蕉不易流行は広く知られるようになったのだった。
芭蕉不易流行についてはうんざりするほどの論が書かれている。俳句の中核理論だから当然だが、たいていは同じ論旨に終始する。特集巻頭ということもあり大輪さんの論は従来の主張のレジュメという感じだが、この論を元に芭蕉不易流行論の問題を探ってみたい。
去来は(中略)不易と流行とを根源は一つであると考えているだが、(中略)流行の句とは作者の内に特別の趣向があってそれが世に受けたものとし、不易の句は特別な趣向に頼らない故にいつの世にも受け入れられる句としている。
これに対し、(蕉門の服部)土芳は(中略)不易も流行も「風雅の誠」が根本にあると言っている。風雅の誠とは俳諧精神と言えば良いかと思う。(中略)
つまり、土芳は、去来と違って、不易の句、流行の句と分けることはせず、世々の歌は変化しているのであり、それだからこそ歌には永続性があると言っているのだ。
(大輪靖宏「芭蕉俳句と不易流行」)
杓子定規に言えば、流行について去来は個性に基づく表現とし、土芳は時代時代の技法的(修辞的)新し味だと考えたということである。両者ともに、俳句は不易と呼ばれる普遍的な基盤の上に流行(新風)が乗っているとしたのであり、それは芭蕉の考えと同じだろう。しかしだからといって不易絶対主義になってしまうのは問題である。不易と流行は一体概念であったはずだ。
しかし、不易のためには流行することが大切だという原則が無条件で行われると、不易のためにはどんな変化が生じても良いことになってしまう。永遠性を保つための変化にはおのずから元を壊さないための制約が存在しなければならない。(中略)俳句の場合にも決して崩してはならぬ最低条件があるはずだということを考えておくことは大切だろう。
俳句において最低限守らなければならない条件は、五七五という定型と、季の詞を入れるという有季の二条件である。
(同)
別に大輪さんの論を批判しているわけではないが、たいていの不易流行論が、不易だけ採った有季定型絶対論になる。「芭蕉は有季定型が不易だとは言っていない」と主張すると子供の言い争いになってしまうが、有季定型のお墨付きを与えてくれるのが芭蕉の不易だと強引に結論づけている。じゃあ流行はどこに行ってしまったのかということになるが、有季定型を守った上でその中で創意工夫をしましょうという論旨だ。しかし不易は普遍である。どうやってそれを流行(変化)させるのか。絶対矛盾である。不易、つまりは俳句の基盤が有季定型という〝形式〟だと考えた時点で俳句を巡るダイナミックな思考がハタリと止まってしまうのは間違いない。
大輪さんは「よく、無季不定形の短詩形式の作品に対して、同じ土俵から産まれたものだから同じように俳句と言っても良いではないかという意見を聞くが、それは違うと思う」「私も、個人的には種田山頭火や尾崎放哉の作品は大好きである。だから、こういう形の文芸が発達することは強く望んでいる。(中略)ただ、形が違ってしまったのだから、識別のために違う名を使いたいというだけだ」とも書いておられる。たいていの、いわゆる伝統俳句派がこういった考え方をする。有季定型という形式の絶対化が始まっているのであり、排他的セクショナリズムと言わざるを得ない。
日本に限ったことではないが、誰にも変えようのないある本質が〝型〟として表れることはよくある。それを芸として捉えれば、茶道や能楽におけるような型になる。習い事芸であれば、窮屈で理不尽に思える型を守り肉体に染みつくくらい修練を重ねれば、なぜ型があるのか理解できるようになる。論理的に説明できなくても型が実に理にかなったものであることがわかるのである。それは俳句も同じである。
すべての俳人は、その出発において雷に打たれるように俳句に魅せられた者たちである。俳人はすべからく、初発においては五七五に季語を念仏のように唱えて句作に励む。一定期間それを続ければ、誰もが漠然とであれ有季定型が理にかなった型であると感受することになる。ただそこで有季定型を絶対的な〝型〟として捉えて思考も俳句も停止してしまう者と、型の本質とは何かとさらに思考と句作を新たな審級に進める者が分かれる。前者の方が圧倒的多数であり、後者の方が圧倒的少数である。しかし俳句界を泡立たせ、俳句の生命を更新し続けて来たのは後者の方である。
型の本質を探究する者は、型の発生現場を捉えようとする。もちろんそれを論理的に説明できた者はいまだにいない。しかし型以前の俳句本質は不定形に蠢いている。それが現実界に現象する時に有季定型という型になることが圧倒的に多いわけだが絶対ではない。型以前の俳句本質を捉えれば、それは有季定型以外の俳句としても現象可能である。河東碧梧桐から始まる無季無韻俳句であっても高柳重信系の前衛俳句であっても、俳句本質を捉えていれば間違いなく俳句は成立する。実際社会全般を見れば、山頭火や放哉、あるいは重信系の優れた前衛俳句を俳句だと考える人が大多数である。有季定型ではない俳句を蛇蝎のように嫌う俳壇とは温度差がある。いくら狭い俳壇で威張っても、伝統俳句派が正しいわけではない。
また古くは与謝蕪村を始めとして、平然と有季定型という型を破る俳人はいくらでもいる。そういった俳人には俳句史に残るような秀句・名句を詠んだ者が多い。型以前の俳句本質に思考と感性を遡らせれば多かれ少なかれ型は揺らぐ。それが俳句の自在さになる。パッと読むと有季定型のようでも、五七五の型を守っていなかったり季語がなかったりする秀句・名句はいくらでもある。意図的に伝統俳句に反旗を翻す前衛や反伝統派でなくとも、俳句本質から型が生まれる機微を感受すれば従来的な型に沿っているようでも新たな俳句は生まれる。
加えて自我意識である。俳句が型の文学であるとすれば、それは茶道や華道と変わらない。習い事のお遊び文芸である。実際俳壇は習い事お遊び文芸としての俳句を奨励することで活況を保ち続けている。一方で俳句が文学だと主張するなら、そこには作家独自の個性が加わっていなければならない。むしろなんらかの作家の自我意識が俳句に加わるからこそ、俳句はお遊び文芸ではない文学の要件を得る。
この自我意識の表現方法を、有季定型という型に押し込める理由はまったくない。むしろ有季定型の型の中で強い自我意識を表現すると、自然界の諸相に沿って作家の思想や感覚を表現する写生俳句(有季定型の実質的な別名)がイビツになってしまう。現代人なら時には俳句で独自の思想や感覚を表現したいはずである。それにふさわしい新たな型は必ずある。たとえ一時の新し味で終るとしても、そういった試みがなければ俳句界は活性化しない。
僕は個人的には俳句は何をやっても有季定型に戻ってくると考えている。また俳句は本質的に非―自我意識文学であり、形式的にだろうと内容的にであろうと作家の強い自我意識を俳句で表現することに賛成ではない。比喩的な言い方になるが、強い自我意識が非―自我意識にまで突き抜けることで初めて俳句本質に近づけると考えている。しかしだからと言って有季定型を絶対とすることには反対である。
最初の不易流行に戻ればそれは二つで一体である。軽重はない。不易があるから流行が生まれ、時代時代、あるいは作家ごとの流行があるから不易という基盤がはっきりする。ただ不易は有季定型という静止的な型とイコールではない。型を生み出す源基としての俳句本質である。それを踏まえれば流行と呼ばれる新風のいくつかは、必ず新たな俳句の基盤=不易になる。それがなければ俳句はすぐに習い事お遊び芸に衰弱する。
俳句を伝統俳句と前衛俳句(反伝統俳句)に分け、それぞれがそれぞれのテリトリーで思考と感性を固着化してしまうから俳句は堕落するのである。前衛(反伝統俳句)と呼ばれていても型を継承すれば伝統俳句となんら変わらない。また俳句の本質を理解しているのなら、伝統派は有季定型で防御を固めて過剰なまでに前衛俳句(反伝統俳句)を恐れ嫌う必要はあるまい。俳句から逸脱していってしまうような新たな試みは俳人なら脊椎反応でわかる。優れた俳人は、どんなに新鮮で無帽な流行を生み出したとしても必ず不易に戻ってくる。このダイナミックな往還が不易と流行と呼ぶべきものである。
岡野隆
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