今号では「長寿結社の秘訣」が組まれていて、これがけっこう面白かった。特集巻頭に川名大さんが論考を書いておられる。「「俳句年鑑」(角川文化振興財団)の「全国結社・俳誌一覧から、戦前の創刊で現在も継続中の主な俳誌を創刊順に挙げてみよう。「ホトトギス」(明30)「層雲」(明44)「半夜」(大1)「南柯」(大2)「渋柿」(大4)「海紅」(大4)「獅子吼」(大8)「京鹿子」(大9)「馬酔木」(大11)「山茶花」(大11)「辛夷」(大13)「獺祭」(大14)「若葉」(昭3)「火星」(昭11)「自鳴鐘」(昭12)「鶴」(昭12)。非情な歴史的淘汰だ」とある。
ほとんどの結社誌は終刊してしまうので川名さんは「非情な歴史的淘汰だ」と書いておられるのだが、古くは明治時代から続いている結社誌が十六もあるのだから十分だという気がしないでもない。川名さんとは別に編集部が「主な長寿結社一覧」を作っていて、そこでは三十二誌がリストアップされている。ちょっと驚きですな。できれば現在の結社員数も明らかにしていただければさらに面白い資料になっただろう。
文学の世界には結社誌と同人誌があるが、主宰がいる結社誌は短歌と俳句の世界だけである。小説と自由詩には同人誌しかない。俳人で小説同人誌を手に取った人は少ないだろうが、分厚いのが常である。小説は最低でも一人三十枚くらい書くから厚くなるのは当然だ。経済的負担もそこそこ重い。誌面は基本的にダーッと小説作品が並んでいて特集などは少ない。同人誌といっても特定のカラーがあるのは稀で、まあ要は商業文芸誌、あるいは商業出版社の下部組織である。同人は商業文芸誌でデビューして名の知れた出版社から本を出すのを目標にしているわけだ。ちょっと言葉は悪いが抜け駆け集団である。だからこそ同人は真剣で競争も熾烈という面がある。徹底した個人主義ですな。
もちろん小説では文芸誌で新人賞受賞というデビュー方法もある。ただ同人誌に書いている作家には過去に受賞したり佳作になったりした作家も多い。小説に限らないがどのジャンルでも新人は二十代三十代で若くてスター性のある人の方がいいわけで、年齢があがると(再)デビューもなかなか難しくなるのである。しかし小説家への道が閉ざされているわけではない。最近では西村賢太さんが同人誌からデビューしている。同人誌で力を蓄えた作家の方が、たまさか新人賞を受賞した若い作家より、その後安定して創作活動を続けられるという面もある。
自由詩でも同人誌は商業詩誌の下部組織という面が強かった。ただしこれは過去の話である。現代詩が短歌俳句よりも知的で高尚で、仰ぎ見るような輝きに包まれていた(かのような)時代を覚えている方も多いだろう。現代詩は詩の世界の前衛で特権的位置を占めていたのだった。それを反映して詩人が活躍できる場は一般商業誌まで幅広かった。詩の同人誌は詩壇デビューするのが目的というより、詩壇で地歩を固めて新聞や一般誌で活躍するための踏み台だった面がある。
ただここに来て驚くほどの現代詩の凋落である。もはや誰も現代詩が詩の世界の前衛だとは思っていない。例外は言いにくいが現代詩手帖誌で、誌名に過剰に縛られているせいか、盛んに現代詩特集などを組んでいる。詩の業界の外から見ると現代詩はとっくに終わっているのだが、いまだに過去の威光にすがっている。しかし実際には戦後詩や現代詩という柱を失った詩人たちはてんでバラバラで、今や詩壇があるかどうかすら怪しい。
現代詩の凋落とは別に、自由詩の同人誌には本来、小説同人誌にはないハッキリとした特徴がある。小説を書くには一定の修練が必要で、ズブの初心者が小説同人誌に参加することはまずない。ただ自由詩ではそこのところが微妙だ。自由詩はその名の通り、形式的にも内容的にもまったく制約のない言語表現である。詩人一人一人が自分なりに詩の書き方、つまり一定の形式を練り上げなければならないわけで、その切磋琢磨の場として同人誌は機能してきた。詩の同人誌がはっきりとしたカラーを持ちやすいのはそのためである。自由詩の歴史は同人誌の歴史として辿れるほどだ。
その一方で、詩の同人誌ではある書き方を体得すると、同人間に亀裂が走りやすい。詩人たちは個々に書き方――つまり世界の捉え方が違うわけだから意見の相違が露わになりやすいのである。そのため自由詩の歴史に名を残す同人誌の多くが終刊号を出さずに空中分解している。少し残酷だが主要同人が激しく角突き合わせ、火花を散らしてド派手に空中分解するのが自由詩同人誌の華である。自由詩の世界ではすでに出来上がった詩人が集まって同人誌を出しても、それは発表場所を確保したというだけでたいてい面白くない。
で、俳句の世界には結社誌と同人誌があるわけだが、杓子定規に言えば結社は主宰を頂点としたピラミッド型のヒエラルキーで、同人誌は所属同人が対等でリベラルな集団ということになる。ただまったくの俳句初心者が同人誌を組むことはまずない。以前どこかの結社に所属していてそれなりに句歴のある俳人が同人誌を組むのが一般的だ。中心になる世話役がいる場合も多い。端で見ていると「この人がいなくなったら空中分解だなぁ」と思うこともしばしばで、実質的には結社に近い同人誌の方が多い。金子兜太主宰の「海程」も最初は同人誌だった。重信の「俳句評論」は最後まで同人誌だったが、名実ともに重信主宰だったのは言うまでもない。つまり俳壇内部の人たちが考えているほど俳句界では結社誌と同人誌に差はない。俳壇は(歌壇もそうだが)やはり結社中心と言っていい。
僕は個人的には俳人が結社に所属し、一定の修練を経て作品や批評を量産できるようになったら自らの結社を持つことに賛成である。これは結社を作りそれを大きくした方が現世の俳壇利益を得やすいといった俗事とはまた別の問題である。同人誌の一同人でいるよりも結社主宰になった方が間違いなく得るものが多いからだ。結局は〝型〟が最大問題になる俳句や短歌の世界では、小説や自由詩の同人誌のように強い個人主義を貫徹できない。ただこれについて書くと長くなるのでまた別の機会にします。
深雪晴れあの小さいのは活火山
枯園や日なたを踏んで黒猫は
見送りしのち見送られ寒北斗
(川越歌澄「阿武隈川」第1回北斗賞受賞)
へめぐるといふはをかしき蜷の道
木の股に海木の股に海うらら
ひかりのなかを光ゆく胡蝶かな
(堀本裕樹「光ゆく」第2回北斗賞受賞)
コンビニを往復すると初雪に
もどかしき指よ風花拾ふには
厄介は己を沈め鳰
(髙勢祥子「鳰」第3回北斗賞受賞)
身代わりになることのなき白薔薇
モルヒネを打ち尽したる夕焼けかな
大瑠璃の音楽葬となりにけり
(藤井あかり「葬」第5回北斗賞受賞)
ふたご座の今日の運勢水温む
同僚の土産のクツキーはるうれひ
帰りきて家あたたかし明日もまた
(諏佐英莉「ロボット」第9回北斗賞受賞)
今号には俳句界主催の「北斗賞受賞作家競詠」が組まれている。現在までに北斗賞を受賞した九人の俳人の最新作である。北斗賞には確かに特色がある。俳句は技術的に上達するのに反比例して、表現内容が平板になりやすい言語芸術である。どっしりと安定はするのだが、どこかで読んだような感慨や詠嘆になりやすい。
北斗賞は応募時四十歳以下の俳人という規定もあり、まだ技術的に完成していない俳人の、型にはまらぬ感情や感覚の揺らぎを表現した作品を積極的に評価しようとしている。藤井あかりさんのように、ちょっと背伸びして壊れかけた作品もあるが、これはこれで面白い。
一番つまらないのは俳句に油断し、これでいいと自己の作品を甘やかしてしまうことである。それに比べれば不安定な作品の方がスリリングで読んでいても得るものがある。
岡野隆
■ 金魚屋の本 ■