今号では「兜太と一茶」の特集が組まれている。先頃お亡くなりになった金子兜太さんが小林一茶に強い興味をお持ちになっていたことはよく知られている。『小林一茶』の評論があり、『一茶句集』も編んでおられる。
で、兜太と一茶に関連性というか影響関係があるかどうかだが、あると言えばある。一茶は江戸中期の宝暦十三年(一七六三年)に生まれ、江戸後期の文政十年(一八二八年)に六十五歳で亡くなった。兜太は大正八年(一九一九年)生まれである。百五十年も時間を隔てた俳人から強い影響を受けているのかというと、自分のことを考えれば歴然としている。受けているといえば受けているし、受けていないと言えば受けていない。
作家は自分より一世代か二世代前の先輩作品や同世代から最も強い直接的影響を受けるものである。古典作家の場合は客観的に作品の様々な長所に学び、短所を見極めて創作の糧にするのが普通である。もちろん作家には好みがある。兜太が一茶好きだったのは確かである。
ただ兜太俳句は直近や同世代の俳句に揉まれて練り上げられたものであり、その作風はバラエティに富んでいる。作品に即して兜太俳句と一茶俳句を関係づけようとすれば牽強付会になりやすい。しかし兜太が一茶の何に、あるいはどこに魅力を感じたのかは比較的はっきりしているだろう。
目出度さもちう位也おらが春
雀の子そこのけそこのけ御馬が通る
痩蛙まけるな一茶是に有
やれ打つな蠅が手をすり足をする
あの月をとつてくれろと泣子哉
一茶で最も人口に膾炙した句である。これだけ読めば一茶は心優しい俳人で、趣味で俳句を詠んだ余裕派でおおらかな人柄だったように思える。しかし現実はまったく違う。一茶は全身全霊の俳句狂だった。生涯に渡り切羽詰まった生活の中で俳句を詠み続けた。性格も温厚だったとは言えない。
芭蕉が日本全国に門弟兼経済的支援者のパトロンを持っていて、それゆえ奥の細道を始めとする旅日記を残すことができたのはよく知られている。一茶も俳諧師だったわけだが、江戸初期の元禄時代と一茶の江戸後期では俳句を巡る状況が大きく変わっていた。
芭蕉没後、蕉門の弟子たちは日本各地で独自の流派(分派)を作り、師から弟子へと宗匠の座が継承されていた。今と同じように結社が乱立し、それぞれの結社で主宰(宗匠)の座の世襲や禅譲が行われていたのである。
俳句がお遊び習い事文芸なのか、文学なのかという境界が曖昧だったのも今とほとんど変わらない。江戸の俳句宗匠たちは門弟になる者からお金などを受け取り、句会や添削を行う際にも対価を求めた。しかし俳句の質に基づく評価が皆無だったのかというと、そうとは言えない。ただ頭角を現すには時間がかかった。俳人はまずは自らが所属する流派の中で一定の地位を得なければ、俳壇で認められることはなかった。自己本位ではなく他の俳人の面倒も見られる高い処世術と作品の質、両方が必要だったのである。これは俳句に限らない。短歌でも漢詩でも事情は似たようなものだった。
一茶は筆まめだったこともあり、その生涯は驚くほど詳細に解き明かされている。兜太の一茶論に限らず様々な一茶研究が出版されているのでそれを参照していただきたいが、一茶はまず江戸の葛飾派という俳句集団に所属し、次いで夏目成美の俳句集団に移り、晩年に故郷信濃に戻って自らの流派・一茶社中を結成した。江戸の俳人は本業を持つかたわら趣味で俳句を詠む者が多かったが、一茶は生涯俳句以外の仕事に携わらなかった。自らの結社(社中)を持ったことは、一茶にとってはそれなりの成功だった。
故郷やよるもさはるも茨の花
露の世はつゆの世ながらさりながら
しなのぢやそばの白さもぞつとする
ともかくもあなた任せのとしのくれ
是がまあつひの栖か雪五尺
一茶の小林家は農民だがそれなりに裕福だった。一茶三歳の時に生みの母親が亡くなり、父は再婚して弟が生まれた。しかし継母との折り合いが悪く、一茶は十五歳の時に江戸に丁稚奉公に出された。小林家の家格や長男という出自から言っても当時は異例のことだった。これが後に継母と弟を相手にした十年以上にも渡る骨肉の遺産争いになる。
「故郷やよるもさはるも茨の花」「しなのぢやそばの白さもぞつとする」という句を読めば、故郷信濃で何か嫌なことがあったのだろうことは感じ取れる。しかし句からはその原因が骨肉の遺産争いにあることまではわからない。一茶が書き残した『父の終焉記』などを読んで、初めて句が詠まれた背景の事情を理解できるのである。
一茶は散文では継母や弟に対する罵倒に近い批判を書いているが、俳句ではそれを恬淡と表現した。生活は苦しかったがそれについても「ともかくもあなた任せのとしのくれ」と淡く表現する。ようやく生涯の重大事である遺産争いに決着がついても吐露された心情は「是がまあつひの栖か雪五尺」である。一茶は俳句で強い怒りや不満を表現することがない。それが俳句に対する一茶の姿勢――つまりは俳句文学理解である。
なお遺産争いでは、一茶の主張がまったく正しかったとは言えない。長男を丁稚に出したことに負い目を感じていた父親は、死に際して財産を弟と折半するよう遺言した。しかし一茶が十五歳で故郷を出た後、継母と弟は家業に励み父の代より家財を増していた。継母と弟の側から言えば、増えた財産まで折半するのは理不尽だった。江戸はかなり厳正な法治国家であり、裁判の末、おおむね一茶と弟で四対六の財産分与の判決が下りた。しかし一茶は不服でさらに争い続けたのだった。
それはともかく、一茶は芭蕉以降の俳人では例外的に全国各地を俳句行脚し、旅日記も残した俳人である。しかし芭蕉が文章の雅というフィルターによって俳句を統御したのに対し、一茶の文章と俳句には大きな乖離がある。一茶の近代人としての強い自我意識は散文では遺憾なく表現されている。しかし俳句では世の中を無常と見る姿勢が貫徹されている。兜太が最も惹き付けられ、自らの俳句の課題としたのは、この一茶の散文と俳句の乖離だったろう。
兜太が一茶を意識するようになり、意識的にそれを公にするようになるのは、作家としても歩みがかなり進んだ時期に差しかかってのことである。(中略)
よって、「前衛」の運動に賞味期限が見えてきた、一九七〇年代に、兜太にとって一茶が浮上してくることになる。「前衛」運動の結果、俳句の世界に大きな変更がなかったことがこの時期見えてきたことは、すでに青木亮人によって指摘されている。
(井上泰至「山峡の人」)
井上泰至さんが指摘なさったように兜太が一茶に注目するようになるのは――その是非は別として――兜太にとっての前衛俳句の限界が見えてきた時期である。また兜太は一茶論を書く前に、『種田山頭火 漂泊の俳人』も書いて山頭火や放哉の自由律俳句についても論じた。一茶と山頭火の共通点に、散文によってその俳句が広く読まれ、愛されていることがある。高柳重信は山頭火論で、山頭火は必ずと言っていいほど日記とセットで俳句が読まれていると書いた。
奴隷の自由という語寒卵皿に澄み
原爆許すまじ蟹かつかつと瓦礫あゆむ
銀行員等朝より螢光す烏賊のごとく
湾曲し火傷し爆心地のマラソン
二十のテレビにスタートダッシュの黒人ばかり
被爆福島孤花捨子花咲くよ
社会性俳句と呼ばれたように、批判をも含む社会への強い関心が兜太俳句の代名詞である。その意味で兜太俳句は自由詩の戦後詩――「荒地」派よりも「列島」系自由詩に近いだろう――になぞらえられる。しかし批判意識だけで俳句を書き続けることはできない。
兜太には「無神の旅あかつき岬をマッチで燃し」「霧の村石を投らば父母散らん」「涙なし蝶かんかんと触れ合いて」「梅咲いて庭中に青鮫が来ている」といった同時代の高柳重信系の前衛俳句に影響を受けた句もある。前衛俳句の成果をも貪欲に取り入れたわけだ。ただ兜太の関心が抽象的な言語実験に真っ直ぐに向けられることはなかった。
死にし骨は海に捨つべし沢庵噛む
きよおと!と喚いでこの汽車はゆく新緑の夜中
谷間谷間に満作が咲く荒凡夫
夏の山国母いてわれを与太と言う
よく眠る夢の枯野が青むまで
兜太にはいわゆる花鳥風月の句がほとんどない。しかし代名詞となった社会性俳句と同様、兜太は日常のふとした出来事や感情を題材にしながらそれを強い言語的表現にまで練り上げる。「私」といった主語が明示されることは少ないが、現実世界をねじ伏せるような強い自我意識が表現された句でないと兜太は満足しない。
兜太の山頭火や一茶への関心は、兜太が日銀のサラリーマンで日本各地を転々と転勤、つまり昔の言葉で言えば漂泊した経験から生じたと言われることもある。しかしそれよりも、兜太の現代人としての強い自我意識を俳句でどう表現するのかというヒントが山頭火や一茶にあったという方が本質に近いだろう。
山頭火や一茶はいわば俳句で身を滅ぼした無能の人であり、希代の俳句狂いだったからこそその作品が愛されている。しかし彼らの実人生と俳句には乖離がある。日記や散文を読まなければその壮絶な人生は感受できない。兜太俳句は山頭火・一茶の散文(日記)と俳句のいわば弁証法的統合である。俳句を読んだだけで作家の熾烈な個性に裏付けられた思想や感性が伝わる。それが兜太が考えたポスト前衛俳句であり、ポスト社会性俳句の姿だろう。
江戸後期には一茶と並び立つ俳句の巨星・与謝蕪村も現れた。蕪村は享保元年(一七一六年)生まれだから、一茶より半世紀ほど前の人である。両者の俳句を比較すれば蕪村は明らかに言語派である。実人生に基づく俳句ではなく、自在な技法を駆使して俳句表現の幅を大きく拡げた。
この一茶と蕪村の関係は、兜太の社会性俳句と重信の前衛俳句になぞらえることができる。重信前衛俳句と比較すれば兜太の社会性俳句は明らかに意味の詩である。ただどちらが正しいとも優れているとも言えない。両者ともに貴重な現代俳句の遺産である。
岡野隆
■ 小林一茶の本 ■
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