生まれてすぐに東京に出てきた。父は婿養子だったが、母の継母に男の子が生まれたので、父母は九州にいる必要がなくなったのだ。それまで、つまりわたしの生後半年ぐらいまでは母と、父の母親である祖母が子守りしていたようだ。『みんなの歌』が始まると、赤ん坊はおとなしくなってじーっとテレビに見入る。ほらほら今のうち、と二人して急いでご飯を食べたと聞いた。そのことを最近、やたらと思い出す。覚えているわけはないので、母から聞いたそのことを思い出すのだが、見ていたような情景が浮かぶ。
そんなことを思い出すわけはもちろん、DiVaの『よしなしうた』だろう。わたしはこれをずっと聞いている。最初は昨年12月初旬くらいだから、もう2ヶ月になる。ほとんど毎日飽きることなく、赤ん坊のように、ばかみたいに繰り返し聞いている。古いCDプレーヤーはついに壊れ、ヘッドを掃除してもエラーばかり表示する。途中からだとしばらくだいじょうぶなので、番号を適当にスキップさせて、やっぱり聞いている。
音楽には詳しくないが、音にはかなり神経質だ。すぐ聞き疲れることも頻繁にある。なのに『よしなしうた』ではそれが起きない。2ヶ月にわたって聞き続け、CDプレーヤーが壊れても、いまだに。こういうことはもちろん初めてだ。
いや、初めてなのだろうか、と考える。こうやって疲れを知らず、ばかみたいに聞いていたことが、もしかしたらあったのかもしれない、と。それで、赤ん坊の頃の話をしきりと思い出す。その頃のNHK『みんなの歌』では、いったい何を流していたのだろう。どういう耳で聞いていたのだろう、と。
ちょうど自宅マンションの全面リフォームが完了したところで、ネットの時代は照明器具もロールスクリーンも、安くてかわいいものが選び放題だ。自分には落ち着く場所になったけれど、ふと気づくと、でっかい子供部屋みたいでもある。テレビはない。もうそんな時代でもないし、NHK『みんなの歌』への幻想もない。昔も今も、どんな歌を放送していたにせよ、『よしなしうた』のようであるはずはない。
大人がこしらえたおっきな子供部屋に、『よしなしうた』は似合いすぎる子守唄で、いまやほとんど空間と一体である。なぜこれほど似合うのかといえば、「子供」の影がないからだと思う。もとよりDiVaの音楽は子供向けの風情ではあり、それこそ『みんなの歌』に採用されていい。小学校の卒業式にもふさわしく、それも傑作、「よい歌」と呼ぶべきものがある。ただ『よしなしうた』は、いわゆる「子供」向けではない。なぜなら「よしなし」はナンセンスの意であり、子供をとらえて育てようとする「センス」をことさら欠落させている。
無論、幼児はナンセンスが大好きだが、子守唄を卒業したぐらいの子供は多かれ少なかれ社会化され、すでに「意味」をはらんでいる。「よい歌」がふさわしく、しかしそれはせいぜい「よい歌」でしかない。わたしたちを疲れさせるのは、たとえよいものであれ、そこにある「意味」そのものだと、そのとき気づかされるのだ。さもなければ「よしなし」=ナンセンスに対して疲れ知らずでいることの説明がつかない。
それは純粋に、歌詞の問題なのだろうか。しかし『よしなしうた』の第一音、最初の音節を聞いた瞬間に、わたしはそれを感知した。
それは ものさしだった
みたこともない
おおきな ものさしだった
みわたすかぎりの
くさはらに たって
あきのひに かがやきながら
いったいなにを はかっていたのか
(「かがやく ものさし」冒頭部)
『よしなしうた』の冒頭には、まぎれもない巨大な「神」の姿が出現する。ナンセンスが掲げる大きな意味、というのは矛盾だろうか。その「神」は「ものさし」の言語的イマージュとともに、たしかに音、第一音としても存在を直観させた。
むじゅんしてるかなと そいつはいった
じんせいって そんなもんさ
と ぼくはこたえた
(「ふしぎ」部分)
ナンセンスとは矛盾そのものであり、意味がない、とは日常的な意味を無化することであり、より大きな意味をはらむ可能性を示唆する。大きすぎて視野に入らないほどの意味を。
意味の領域を広げるのは、一義的には言葉の側のあり方ではある。DiVaの歌詞は今回も谷川俊太郎の詩作品がベースであり、谷川俊太郎に関する詩論は、それはそれでひとつの仕事だ。歌詞として捉えたところで、それは確かに作品なのだ。かつてコーヒーのCMで流れた、長いコピーに蒼ざめた詩人は多かったのではないか。少なくともわたしは、ひどく慌てたことを覚えている。そんじょそこらのコピーライターにこんなものを書かれたのでは、いや、そんなはずは…と。テレビCMにしては長い長い時間が過ぎて、最後に「―谷川俊太郎」とテロップが出たときの安堵感は言い表しがたい。そりゃそうだよねえ。
真に詩人の名に値する者の書く言葉は、かくも違う。その差は、端的にいえば「永遠」を感じさせる要素が含まれているかどうか、だ。どんなに日常的な、あるいは単純に抒情的な、または俗な認識が先立つものや商業目的に転用されたものであっても、「永遠」のリトマス試験紙は敏感だ。岩成達也が「詩」の定義を、書き手と読み手の相互了解である、としたのは正しい。「永遠」のリトマス紙が反応すれば詩人の胸のランプは点滅するし、それは百発百中である。
そして同様の相互了解は、音にも成立するのではないか。そこに存在する「永遠」を音楽が認識しているかどうか。第一音から、それは明白なのではないか。ここでの相互了解もおそらく百発百中だ。そして社会的な意味性を排したナンセンスソングでは、「永遠」はより端的な「生死」へとラディカルに姿を変えている。
そう、端的に。ただ言えばいいのだろう。『よしなしうた』は出色の出来栄えである、と。なぜならそれは生死の境を超えている。
なんにもしないで いようとおもって
おかねもちの はくしゃくふじんは
めしつかいを よんだ
なにもかもおまえがやっておくれ といって
はくしゃくふじんは いすにすわったが
いすにすわれば いすにすわっていて
なんにもしないことには ならなかった
(「はくしゃくふじん」部分)
もちろんこの「はくしゃくふじん」は死んでいるも同然だし、死んだ方がよい。ただ、そこには批判も非難もないのである。ナンセンスといえば、ようは生も死もナンセンスなのであって、すべてに特に意味はない。
赤ん坊、ごく幼い子が死ぬと悲しいが、それはあまりにもあっさり死んでしまうからである。彼らは我々よりずっと死に近い存在なのだから、そしてつい最近まで死んでたみたいなものなのだから、仕方ない。その執着のなさが悲しいのだ。彼らの、ではなく生そのもののはかなさが現前する。彼らがやたら泣くのも、生きているという状態への異和感、異議申し立てみたいなものだろう。だからごくあっさり死にたがるし、またあっさりと転生してくるものであるらしい。
おれ さかなだったころ
あんなふうに きどっておよいだ
ちょっとおびれを うごかして
きゅうに させつしたりした
(中略)
にんげんになってから おれ
わらうことをおぼえた
おかしいとき わらった
かなしいとき わらった
おこったとき わらった
さかなより ずっとへただが
およぐことさえ ならったのだ
(「すいぞくかん」)
生死を超えた意識と視点もまた、自在に変転する。それを受けとめる音たちもまた、ありきたりの位置や文法を変転させ、何ものにも属さずに生死の生成を続けるのだ。
くろいもりのなかの いっぽんのきが
おおいと さけんだが
(中略)
まないたが たなからおちただけ
ざるは それをみてわらった
どなべは ぼんやりしていた
ほうちょうは ゆうべむすめのゆびを
きずつけたことばかり おもっていた
あざやかなあかいちが ふきだして
ほうちょうが うっとりとなったことを
きは しらない
(「おおい」)
この世で起こるすべての因果関係は自在に結び合わされ、新しい生と死が顔を出し得る。さらに世間によく見る出来事の、陳腐な因果関係のすべては相対化される。生死の境を超えた何者か、神であり、赤ん坊でもある者の視点によって。
そこで ころんだので
そこに すわりこんだ
わたしは これから
こいびとを なぐりにいくところ
(「中略」)
すわりこんで いきをしていたら
めのまえを じてんしゃがとおる
のっているのは せびろをきて
ネクタイをしめ めがねをかけたおとこ
なにを どこで だれと しにいくのか
わたしは これからバスにのって
こいびとを なぐりにいく
(「ふゆのひ」)
文字通り、どれも珠玉のような曲である。「よい歌」などではない。飽かず眺める玉のような、という意味で正確な比喩だ。それでも、あやされながら生の側に留まる子供のように、わたしにもお気に入りはある。壊れたCDプレーヤーで、エラーが出ればスキップして10番から再生する。
かえるは なにかいいふるされたことを
ほんきになって いいたいとおもった
で かえるは けけこといったのだが
だれも みみをかたむけなかった
おたまじゃくしだったころは
なにもいわなくて よかった
だまって あしがはえてくるのをまっていた
(中略)
だがそのまえは どうだったのか
それはついこないだのことだったけれど
おおむかしのようでもある
(後略)
(「かえる」)
かえるがへびに呑まれてしまえば、もちろんわたしも哀愁にみちてグルーヴするのである。けけこけけこけけこけけこけけこけこけこけこけけこけこけこけけけこけこけこけこけけこけこけこけけこけけ…
小原眞紀子
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