短歌は本来的に女性的表現だと言うと男女平等の世の中ですから今度は男性から異論が噴出するでしょうね。ただこれは男女という生物学的な違いを前提としているわけで男性性と女性性を問題にすればもう少し普遍的な展望が開けます。
先日遅ればせながら金魚屋プレスから刊行された小原眞紀子さんの『文学とセクシュアリティ―現代に読む『源氏物語』』を読みました。『源氏物語』は言うまでもなく紫式部という女性が作者で要所要所に和歌(短歌)を散りばめた歌物語です。物語文学が和歌から発生したことがはっきりわかる古典ですが小原さんがメインで論じておられるのは和歌からの物語の発生ではありません。文学における男性性と女性性という二大ベクトルです。
小原さんはまず男性性と女性性というベクトルは生物学的な男女差ではなく人間がすべからく持っている社会的かつ感情的な力であると論じておられます。男性でも女性性は持っていますしその逆もまた然り。この二つのベクトルを鮮やかに表現するのが文学でありその嚆矢となったのが『源氏物語』だということです。
現代フェミニズムの文脈で言えば『源氏物語』は皇胤である光源氏がその社会的力と金力によって多くの女性を弄んだ物語にしかなりません。しかし馬鹿馬鹿しい議論です。平安時代に『源氏物語』が書かれて以降そのメイン読者が女性だったという一事を挙げるだけで十分な反論になります。封建社会で虐げられた女性たちが『源氏物語』の不幸な女性たちに自らの身の上を仮託したとも言えない。女性読者が夢中になったのは『源氏物語』の姫君たちの華やかさなのです。『源氏物語』は女たちの物語です。光源氏は理想のプリンスですが影の薄い主人公です。小原さんは光源氏は「女たちの下僕」だと書いておられます。
では何をもって『源氏物語』は女たちの物語なのでしょうか。小原さんはテキスト曲線という図を使ってそれを説明しておられます。一方の極に男性性がありもう一方の極に女性性がある単純な図ですが人間精神の構造を的確に表現しています。男性性はものすごく単純に言うと〝制度〟です。出世や金力などの社会的ヒエラルキーを形作るのが男性性ということになります。もう一方の極である女性性は〝非―制度〟ということになります。常に男性性が形作る制度を壊し新たに生まれ変わらせる力です。
光源氏は天皇を除けば現世の最高位である太政大臣にまで登りつめます。位人臣を極めたわけです。しかしこの〝あやにく〟な主人公が惹かれるのは必ずしも美女や高位高官の娘ではありません。小原さんが指摘しておられるように光源氏の女の趣味は常に「人妻か幼女」です。人妻は母性を体現しており無償の愛の表象です。幼女は無邪気さの表象です。つまり光は純な女性性を追い求めているのであり男性でありながらその本質を理解できる資質を持っています。『源氏物語』が本質的に女性の物語である由縁です。
光は生母桐壺更衣の面影を慕って父桐壺帝の妻だった藤壺更衣と密通して後の冷泉帝をもうけます。皇子が不義の子(しかし光は皇子なので天皇家の男系は守られます)だと露見することを恐れた藤壺更衣に拒絶されて以降の光は母性を体現した女性を希求するようになります。またこの思考は無邪気――つまりは邪気がなく男性性が体現する制度をあっさりと否定する女性にも向かいます。夕顔や末摘花が典型的です。また光源氏最愛の妻紫の上は幼女の頃から育てた娘でした。
この逆に光は息子夕霧を生んだ最初の正妻葵の上や愛人六条御息所とは折り合いが悪い。その理由は単純で彼女たちが男性性の側に――つまりは制度の側に立っているからです。葵の上は左大臣の娘でいわゆる政略結婚でした。六条御息所は前の東宮妃で気位が高過ぎるくらい高い。六条御息所が夕顔や葵の上を呪い殺したという噂が立つのは彼女の社会的なプライドのせいです。女性に母性と無邪気を求める光はそういった女性の元では落ち着かないのです。
男性性が体現する制度は社会的ヒエラルキーですからそこに属する者を恐るべき力で縛ります。光源氏が位人臣を極められたのは彼が皇子だからですがそれは現代でもさほど変わりません。制度に属する者は一つでも上の位へ進むことを望みますがほとんどの場合中途で挫折します。しかし女性性は違います。女性性は男性性のヒエラルキーをあっさり転覆させてしまいます。光源氏が明石で生ませた身分の低い貴族の娘明石の姫君は天皇の后になります。制度をぶっ飛ばしてしまうのですね。
この構造は現代文学にも見られます。小原さんは岡本かの子や有吉佐和子や松本清張などを例にして説明しておられますが最も端的なのは『源氏物語』を現代語訳した谷崎潤一郎です。谷崎はマゾヒズムの作家と呼ばれますがそれは彼の文学の表面的特徴に過ぎません。谷崎文学では社会的地位も金力も知力も上のはずの男性が女性によって精神の根幹をなし崩しにされ女性に従属してゆく様子が描かれています。谷崎文学で描かれているのは女性性の本源的な力です。谷崎はその最も古く基層的なテキストとして『源氏物語』を現代語訳しそこから多くを学んだのです。すぐれた作家が行う翻訳とは本来そういうものです。
小原さんが指摘なさった文学(人間精神)の二大要素である男性性と女性性は天上と海や視覚と聴覚など様々な現象的な現れ方をします。日本の古典文学で言えば男性性は俳句が体現し女性性は短歌に集約されると言っていいでしょうね。俳句が写生に代表される視覚的文学であるのは言うまでもありません。これに対して短歌では調―しらべが重要です。馬場あき子さんは「歌を声に出して詠ませれば作家の本質がわかる」と言いましたが卓見です。
日本は鎌倉時代以降に武士の世になり江戸に入って儒教がいわば国家体制思想となります。士農工商や主君と家臣の身分を絶対とする封建社会で制度破壊として作用する女性性は隅っこに追いやられてゆくことになったのです。勧進帳などの封建社会を体現する歌舞伎が当時の社会精神を体現しています。しかしその一方で江戸の庶民たちは一貫して八百屋お七や曽根崎心中といった女の物語に熱狂してきました。幕府がいくら禁止しても心中モノの物語は手を変え品を変え上演され続けたのです。そこで描かれていたのは封建社会を無化し嘲笑するような女性性の力です。男性性の制度が強まれば強まるほどそれを破壊しようとする女性性の力もまた強くなるのです。
今号の特集は「「心の花」の女性歌人たち」です。「心の花」は明治三十一年(一八九八年)に佐佐木信綱を中心に創刊された歌壇で最も古く権威ある歌誌です。「心の花」は信綱-治綱-由幾-幸綱と男性歌人によって受け継がれてゆきますが数々の女性歌人がその歴史と作品を彩りました。紆余曲折はありますが百二十年を超える歴史を持つ歌誌であり近代に限っていえば短歌史を集約したような歌誌です。「明星」が与謝野鉄幹を主宰としながらその華が晶子であったように「心の花」の華は女性歌人たちだったと言うこともできます。男性主宰を中心に女性たちが華やかに活躍するのはどことなく『源氏物語』に似ていますね。
誰か似る鳴けようたへとあやさるる緋房の籠の美しき鳥 柳原白蓮
筆をもて吾は歌はじわが魂と命をかけて歌生まむかも
わがわれに与へむとするは百年の後に生くべき物語ぶみ
その昔かどはかされし我魂のかへり来るかも遠方の船
女てふ迷ひの国を三十路ほどあゆみて踏みしほそみ 片山廣子
月の夜や何とはなしに眺むればわがたましひの羽の音する
いくたびか老いゆくわれをゆめみつれ今日の現在は夢よりもよし
待つといふ一つのことを教へられわれ髪しろき老に入るなり
うら若きをとめ十九の初春はかすみの中に住む心地して 村岡花子
限りなく罪ある身ともかなしみぬふと一言に人をいためて
相容れぬ二つの性を盛る器、我という器、持ちあぐみけり
特集原稿から「心の花」の三人の女性歌人たちの短歌を引用しました。柳原白蓮は庶子ですが伯爵令嬢で美貌の持ち主でした。子爵北野小路資武と結婚して一児をもうけますが離婚し炭鉱王で庶民の伊藤伝右衛門と再婚しました。実家の経済的危機を救うための不本意な再婚でした。しかし白蓮は社会運動家の青年宮崎龍介と駆け落ちして伝右衛門とも離婚してしまいます。白蓮事件です。片山廣子は米国総領事吉田二郎の長女で翻訳家としても知られます。村岡花子はNHK朝の連続ドラマ『花子とアン』でその生涯が取り上げられたことで有名ですね。『赤毛のアン』を始めとするモンゴメリ作品を翻訳したことでも知られます。
彼女たちの歌には明治大正という今よりもずっと女性の権利などが抑圧されていた時代背景が表現されています。白蓮の「誰か似る鳴けようたへとあやさるる緋房の籠の美しき鳥」などが典型的です。しかし歌としてみれば社会的な抑圧はたいした問題ではありません。社会的なものであれ個人的事情であれ人間だれしも抑圧と鬱屈を抱えています。それを積極的に引き受けることからしか人間の切実な表現は生まれて来ないのです。彼女たちの歌はじっとその内面を見つめているから優れた絶唱になり得ているのです。
白い手紙がとどいて明日は春となるうすいがらすも磨いて待たう 齋藤史
たそがれの鼻唄よりも薔薇よりも悪事やさしく身に華やぎぬ
額の真中に弾丸をうけたるおもかげの立居に憑きて夏のおどろや
殺虫剤草の葉先ににじんでゆきもがいて虫らからだを反らす
薄き月さす病廊を何者か過ぎぬ 酸素テントのごとく光りて
白蓮廣子花子がその人生とともに短歌が読まれるのに対して齋藤史は作品主体の歌人だと言えます。男性か女性かは別として短歌史の王道をゆく歌人だと言っていいでしょうね。その理由は彼女が一九六〇年代頃から盛んになる前衛短歌を先取りしたようなモダニズム歌人だからです。近現代短歌独自の特徴ということになればモダニズムや前衛短歌はその代表になります。
ただ言語的な修辞の新し味を持ち味とする史の歌が人生の抑圧――悲しみや諦念やささやかな喜び――を歌った白蓮廣子花子よりも愛されるかどうかは微妙なところです。言語派の新たな試みは時代の熱狂が過ぎ去ってしまうと実に脆いところがあるのです。しかしながら「心の花」が史のようないわゆる男性性に属する歌を詠む女性歌人をも輩出していることはその度量の広さを示しているでしょうね。
俵さんは人が好きだ。(中略)
俵さんは肯定する。
(佐佐木定綱「俵万智論 人と今」)
「心の花」は現代の一般社会で最もよく知られた女性歌人俵万智も生んでいます。俵さんは幸綱さんに私淑したわけですがそれは偶然ではありません。俵さんは出世作『サラダ記念日』の代表歌になった短歌を幸綱さんが的確に評価したと回想しておられます。弟子は的確に師を選び師は的確に弟子の資質を評価したのです。
佐佐木定綱さんは幸綱さんの次男で次世代の短歌界のホープです。もしかすると二三十年後の短歌界は定綱さん中心に廻っているかもしれません。というかたぶん実質的にそうなっているでしょうね。特集原稿でも定綱さんの散文は目を引きます。「俵さんは人が好きだ。(中略)俵さんは肯定する。」の短い文章が定綱散文の特徴を端的に表しています。まず結論を端的に表現するのが定綱散文です。わかりやすくポピュラリティを得ることができる文章です。
逢ったのは砂漠でそこはぜんぶ死であなたが蝶に纏われていた 江戸雪
アカシアの花降ってくる道ゆきに肉より熱きこころこそ抱け
くちびるはいつもわたしをおいていく 君をなくした 靴を洗った
わが耳がみどりに朽ちたのち風が、そこでまた知るだろうあなたを
くちびるがすこししょっぱく砂を待つ 海だよここは、もう出会うころ
今号では江戸雪さんの作品で手が止まりました。一種の失恋歌ですが孤独の影が濃い。つまり男がいない。光源氏が「女たちの下僕」であるように失恋歌では具体的な男はいらないのです。男という絶対的不可知の異和を前にした作家の心を歌えばよい。これはなかなか男性作家には難しいかもしれませんね。
高嶋秋穂
■ 柳原白蓮の本 ■
■ 片山廣子の本 ■
■ 村岡花子の本 ■
■ 齋藤史の本 ■
■ 江戸雪さんの本 ■
■ 金魚屋の本 ■