歌誌はもちろん句誌や詩誌も一種の業界誌です。特に歌誌と句誌では巻頭にカラーグラビアがあって歌人や俳人のお姿が掲載されているのが常です。しかし一般の人たちはよほど有名でなければ歌人や俳人のお顔はもちろん名前すら知りません。別に歌人俳人を中傷しているわけではありません。どんな業界にもスターはいますがそこに興味を持たない人たちにとっては無縁の世界ということです。
ただ小さな世界を世界そのものだと意識すると作家の精神がそこに囚われてしまいます。視線が業界に限られそこから出なくなるのですね。歌人俳人について言えば結社を中心とした同好の士に向けた文章や発言が多くなるわけです。業界誌はそんな精神構造から作られてゆきます。
書店で詩誌を手に取ってパラパラとページをめくっていくとその機微がよくわかります。句誌はほぼ全誌が初心者俳人の指導に明け暮れていて俳句創作に興味のない人には読むページがありません。詩誌(自由詩の雑誌)は何が言いたいのかさっぱりわからない文章だらけです。一般読者は絶対に読まないと言い切っていいでしょうね。しかし歌誌は違います。文学金魚で取り上げているのは角川短歌だけですがほかの歌誌でもめくってゆくうちにふと手が止まり読み始めることがあります。
とても単純ですがこれは短歌の大きな特徴だと思います。創作が上手くなりたいとか詩人として有名になりたいといった欲望に溢れた業界誌のあり方とは別に短歌は人間の心全般に訴えかけるものを持っているのです。
食事が終わると、山本(五十六)は長官室に閉じこもっていつものように毛筆で手紙類を書いた。その中に「述志」と題する一文があった。
「此度は大詔を奉じて堂々の出陣なれば生死共に超然たることは難からざるべし
ただ此戦は未曾有の大戦にして、いろいろ曲折もあるべく、名を惜しみ己を潔くせんの私心ありてはとても此大任は成し遂げ得まじとよくよく覚悟せりされば
大君の御盾とただに思ふ身は名をも命も惜しまざらなん
昭和十六年十二月八日 山本五十六」
ここに記した歌は、自分の名誉とか命とか、そういったものをいっさい考慮に入れず、大君のために祖国のために戦いたい、という覚悟を述べている。
半藤(一利)氏によれば、開戦の前に山本五十六は近衛文麿に向かって、「日米が戦争を始めたら、初めの一年はどうにか持ちこたえられるが、二年目からはぜんぜん勝算はない。だから緒戦に最大の勝利をあげ、その後は政府が外交手腕を発揮して停戦に持ち込んでほしい」という意味のことを語っていたという。その気持ちが右の歌に影を落としている。
(高野公彦「精霊のささやき」)
山本五十六は言うまでもなく真珠湾攻撃を指揮した海軍大将です。昭和十八年(一九四三年)に飛行機でトラック島の前線を視察中にアメリカ軍戦闘機に撃墜され戦死しました。海軍甲事件と呼ばれます。山本は詳細に研究されていて先の見通しの利く理知的軍人だったことがわかっています。
日露戦争の雌雄を決した日本海海戦以降日本海軍は軍の中で特権的存在でした。ただ島国で船がなければどうしようもない日本ではその後の戦争の主役になる戦闘機の開発が遅れた面があります。また海軍と陸軍の対立も激しかった。中国戦線でいわゆる〝実利〟を拡大していた陸軍の発言力が政権内で大きくなっていったのです。また陸地の中国戦線が〝世界〟だった陸軍には太平洋を戦場とする戦争の姿が見えにくかった。陸軍の暴走が太平洋戦争を悲惨なものにした大きな要因です。
山本は真珠湾奇襲攻撃で戦争のイニシアチブを握ったら政府の政治力でアメリカと早期講和を結ぶことを望んでいました。資源の少ない日本には長期戦を戦える体力はありません。また日本の戦争の歴史としても当然です。日清日露戦争はともにアメリカを中心とする超大国の仲裁による講和で終わりました。しかし第一次世界大戦に参戦しながら中途半端にヨーロッパを離れその結果ナチスドイツの台頭を許してしまったアメリカは第二次世界大戦を殲滅戦とする覚悟でした。山本の希望は水疱に帰したのでした。
戦争の是非や戦争責任をひとまず措けば山本の歌には彼の心情がよく表現されています。「大君の御盾とただに思ふ」という言葉には彼の〝大義〟――つまり社会的役割が表現されています。人間は社会的動物ですからある瞬間にはその立場と役割から逃れられないことがあります。戦争は勝敗によってどうしても善と悪が分かれてしまいますが軍人も反体制で命を落とした人も大義に殉じたことに変わりはないのです。
生きている日々の、ある日ある時の思いを、この人たちは短歌で表現した。千数百年前からこの国に在り続けている歌という形式を選んで、思いを述べたのである。それぞれの人が歌を詠んだのだが、それはまた、古くからこの国に棲む歌という精霊が人に近づいてきて、「私ヲ使イナサイ」と囁いたともいえる。(中略)
精霊は歌人と共に生き続けてきた。歌人とは、恒常的に歌を作り、その歌があるレベルに達している人をいう(中略)。しかし歌を作るのは歌人と呼ばれる人たちだけではない。右に見てきたように非歌人も歌を作る。
(同)
高野さんの評論は「論考特集 短歌とポピュラリティ」用に書かれたものです。ポピュラリティというなら文学では小説が一番でしょう。テレビ番組の名物コーナーになり得るという点では俳句がそれに続くかもしれません。ですから短歌のポピュラリティは――文学の中で最も素晴らしい芸術だという短歌事大主義に陥らなければ――多くの読者を抱え誰でも簡単に詠めるという意味での大衆性ではありません。
では歌人が主張したい短歌のポピュラリティとはなんでしょうか。高野さんが書いておられる短歌の「精霊」――「私ヲ使イナサイ」と囁く精霊でしょうね。
この精霊の働きは特殊です。高野さんは政治家や戦没軍人の短歌を引用して「非歌人も歌を作る」と書いておられます。専門歌人ではない素人が詠んでも短歌は人の心を打つことがあるということです。もちろん名歌と呼ばれる短歌を詠むのは簡単ではありません。しかし歌人は短歌を詠むのは実は俳句より簡単だということを知っています。名作を生むのは短歌でも俳句でも難しい。しかしジンと来る短歌は意外なほどたくさん生まれています。俳句では間違いなく修練を積んだ俳人でなければまともな俳句を詠めませんが短歌では素人でも人を感動させる歌を詠めるのです。
それは短歌が必ずしも技巧的な洗練によって優れた歌になるわけではないことを示しています。短歌を詠んだことのない人でも切羽詰まった瞬間に自らの生の証しを残そうとするときその内面がふと短歌として溢れ出ることがある。そういった歌の上手い下手を論じるのは無駄です。短歌は人間の生に密接に結びついているのです。それが短歌のポピュラリティであり歌誌を読んでいて手が止まる理由でしょうね。短歌では技法は秀歌名歌を生むための決定的な要素ではないのです。
角砂糖みたいに職場に溶け込んできたり入社二ヶ月経ちて 萩原慎一郎
非正規の友よ、負けるな、ぼくはただ書類の整理ばかりしている
僕も非正規君も非正規秋が来て牛丼屋にて牛丼食べる
屋上で珈琲を飲む かろうじておれにも職がある現在は
〈青空〉と発音するのが恥ずかしくなってきた二十三歳の僕
マラソンで置いてきぼりにされしとき初めて僕は痛みを知った
ぼくたちはロボットじゃないからときに信じられない奇跡を起こす
停留所に止まってバスを降りるときここは月面なのかもしれず
桃食めばひとつの種が残りたり 考えていることがあるのだ
更新を続けろ、更新を ぼくはまだあきらめきれぬ夢があるのだ
ヘッドホンしているだけの人生で終わりたくない 何か変えたい
図書館に行けば数十年後でも残る言葉があるのだろうか
空を飛ぶための翼になるはずさ ぼくの愛する三十一文字が
今号では三十二歳で自殺した萩原慎一郎さん唯一の歌集『滑走路』についての座談会が掲載されています。座談会参加者の佐々木定綱さんは非正規雇用が問題になっている社会を前提に「けっこう苦しんでいる人たちが多いし、自分に引き寄せて読める人も多いと思う」と語っておられます。カン・ハンナさんは韓国人で短歌を詠むご自身の経験から「韓国でも日本でも厳しい環境の中で若者がどういうふうに生きていくのが大事なのかということを考えるきっかけになる一冊だと思う」と語っています。
ベテラン歌人の今野寿美さんは「萩原君が一番訴えたいところはそれこそ滲むように出てきている。歌の力を信じたくなるという、それに尽きるような気もします」と高く評価なさり同じくベテラン歌人の真中朋久さんは「「なのだ」「のだ」がいっぱいある。それから不用意に使っている完了形がある。完了形を使うと終わっちゃうんですよね。そういう技術的なことを彼と話したかったなと思います」と歌の技術面を語っておられます。
萩原さんの短歌は口語短歌ですが技法として意志的に口語を選んだ気配はありません。彼が置かれた苦しい状況をストレートに歌うには口語がふさわしかったということです。また今野さんが指摘されたように作歌技術は未熟です。しかし評者のみなさん全員が指摘されたようにその短歌には切迫感があります。
ただ残酷なようですが萩原さんが自殺せず『滑走路』が最後の歌集にならなかったらこの作品集がこれほど話題になったかどうかはやはり考えるべきでしょうね。萩原さんの遺稿が絶唱になっているかどうかは時間が経たなければ冷静に判断できないということです。
実人生での悲劇は人を動揺させ感動させることがあります。短歌はそれを最もビビッドに表現できる文学です。しかし夭折歌人の歌を最高とすれば短歌の表現は貧しくなる。生き続け歌を詠み続ける者は夭折者の絶唱を超えた短歌の深みを表現しなければならないということでもあります。
高嶋秋穂
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