若い男の人だ。たぶん、わたしの半分くらいの歳。ふるえた手から携帯が床に落ち、居間いっぱい、割れるような音が響いた。侵入者は、拷問を思わせる窮屈でたまらなそうな海老みたいに膝を折り曲げ丸まった姿勢で、おとなしくしたままだ。(中略)
硝子越しに閉じ込められたように透けて見おろせる青年は、作業着の上に黒いダウンジャケットを着ている。(中略)テーブルの隅に、風に揺れる柳の葉めいた、力が入らなくてよろけた右上がりのボールペンの字を書いたメモがあった。
〈とつぜん、失礼します。
なにもしませんから、このまま、朝までいさせてください。ぜったい、危がいを加えることはありません。よかったら持ちものをしらべてください。〉
(木村紅美「わたしの拾った男」)
木村紅実さんの「わたしの拾った男」の主人公は、四十九歳の祥江という女性だ。両親はすでに亡くなっていて、弟がいるが夫婦でインドネシアに赴任している。OLとして働いていて、実家のマンションで一人暮らしをしている。ある日残業で遅くなって家に帰ると玄関のドアが開いている。朝急いでいたので鍵をかけ忘れたらしい。当然、祥江は泥棒を警戒する。恐る恐る家に入ると悪い予感が的中して、居間の隅に若い男がいた。ただ奇妙なのは男が眠りこけていたことだ。泥棒やレイプ目的ではないらしい。テーブルの上に走り書きのメモがある。「このまま、朝までいさせてください。ぜったい、危がいを加えることはありません」。祥江は結局警察に通報しなかった。疲れていたから、面倒に巻き込まれたくないから、男が無害そうに見えたからなど理由はいくつかある。
もちろん祥江はずっと男を警戒している。自分の部屋に戻り内鍵をかけて眠るが携帯を手放さない。眠りも浅い。男が気になる。様子を見に行くとメモが増えていた。「ふとんをありがとうございます。信じてもらえないかもしれませんが、ぼくは、記おく、をなくしています」「名まえも、うちがどこかもわかりません。でも、自分は外をうろついちゃいけないらしいってことだけは、なぜだかわかります」「せめて名まえを思い出すまでここにいさせてくれませんか」とあった。祥江は男をほおっておく。つまり奇妙な同居が始まる。男の名前は「クロ」。昔祖父母が飼っていた、保健所で殺処分になる前に引き取られた犬の名前をつけた。祥江は犬の代わりに得体のしれない、しかし無害そうな男を飼い始めたわけである。
「森さんが辞めればいいのにね」
「同感。あのおばさんの仕事ぶりを思うと、こっちは地道に働くの阿保らしいったら」
「他の会社だったら、とっくにリストラされてるよ」
ヒートテックのうえに、オレンジの濃淡のぼやけた縞模様が編みこまれたセーターを着込む。輸入品の売れ残りで、暮れに社員向けのセールのワゴンに積まれていたものだ。アクリルの糸がむずむずする。二、三回着ただけでほつれが目立つけれど、五百円だし仕方がない。
「あんな鈍くても、コネだけで正社員になれる時代があったんだよねえ」
毛玉を引っぱって取ると、空調設備の唸りにまざって、ここで契約の子たちが交わしているのかもしれないわたしについての陰口が聞こえてくる錯覚がした。やけになまなましく、どこかで運わるく耳に挟みこびりついたのが再生されているようでもある。
(同)
今は〝人並み〟という基準が揺らいでいる時代だが、祥江は少なくとも生活に困ってはいない。家はあるし会社で働いて給料をもらっている。ただ世間が狭い。お休みの日に出かける先は、病院に入院している数少ない親族の伯母の所くらいだ。医者からはあと数ヶ月の命と言われている。伯母の病床で祥江はつとめて明るく振る舞う。ただ「あのね、いまいる課の、バツイチで、毎日、爪を黄緑やら紫に塗ってくる契約の子。ぜんぜん波長が合わなくて悩んでるって、まえにも話したじゃない?」と、話題は会社の愚痴くらいしかない。身体ががきついせいか、専業主婦でOLの苦労とは無縁の生活を送ってきたせいか、伯母は話に乗ってこない。「もう、今日はいいよ。遠くまでありがとう」と祥江を追い払う。
伯母の元には従兄も見舞いに来る。無職で伯母の家に同居して、伯母が所有するアパートの家賃収入で暮らしている男だ。病院を出た後に、二人で食事して話すこともある。しかし従兄との距離は伯母よりもさらに遠い。「そのあとはお決まりの、むかし、営業マンとして勤めていた土地転がしの会社の羽振りのよかったころの自慢話が始まる。(中略)適当に頷きながら、いつも、耳から耳へとすり抜け、意識は自然と、家にいるクロへと吸い寄せられた」とある。
大人の女である祥江は、ピシャリと扉を閉じさえすれば、男はそれ以上自分の内面に踏み込んで来られないことを知っている。だからクロのことが気になる。彼女はクロを飼っている。
祥江は伯母に対しては無防備に心のある部分を開く。また会社の女性社員とは同僚という以上の交流はないが、彼女たちの声はストレートに祥江の心に響く。女性社員たちが自分に対して言っているだろう陰口が、増幅されて聞こえてきたりする。女の言葉は水のように祥江に浸透してくるのだ。
しかし男は違う。祥江の方から扉を開くか、男が強引に扉をこじ開けるかしなければ交流は生じない。クロは厳重であるはずの扉を破って祥江の内側に、家の中に入り込んできた。ただ違和のように停滞して祥江の家に留まり続けているだけだ。祥江かクロが行動を起こさなければ、開けた扉の前に再び現れた新しい扉は開かない。
〈枕の下にコンドームがあります。かならず着けるように〉
どんな事態になっても眼は見てしまわないよう、アイマスクをかけた。(中略)焦らされているようで枕に顔を埋めて待った。やっと廊下へ現れると、指示通りに来ないで部屋のドア越しに佇んだ。(中略)
ついに後じさり、引きあげた。呼吸音が遠ざかって寝室のドアが閉まる。初めて言いつけに背いた理由を知りたくてたまらず、アイマスクを外し天井を仰いだ。(中略)
うつらうつらと眠り、目ざましが鳴り出すまえに起きあがった。月曜から曇っている。けさはいっそう、薄暗い水の底のようにさむざむとした居間のテーブルに載ったわたしの伝言メモのうえに、クロのメモが重なっていた。寝ぼけまなこをこすって読んだ。
〈目をあわさないで、これ以上、近づくことはできません。お世話になっていますのに命令をやぶり、ごめんなさい。ここにはいさせてください。〉
わたしはメモをまとめて手のひらでくしゃくしゃに丸め、屑籠へ放り込んだ。
(同)
同居を許したが、祥江はクロと決して顔を合わせないルールを作っていた。弟の部屋に住まわせそこから出ないよう命じた。トイレを使うときは合図を決め、風呂に入る時間を自分と重ならないようにした。掃除などのルールも厳密に決めて自分の生活が乱されないようにした。食事は一日二回だったが、祥江が弁当などを買ってきてリビングの机の上に置いておいた。それをクロは一人で食べ、後片付けも祥江の指示した通りにやるのだった。クロは過敏なほど祥江の命令に従った。ただクロはセックスして欲しいという祥江の命令だけは拒んだ。
その理由が「目をあわさないで、これ以上、近づくことはできません」というものであるのかどうか、文字通りの意味で受け取っていいのかどうかはわからない。ただ祥江もアイマスクをしてクロが来るのを待っていたわけだから、二人の間に理解や愛が生じた上でのセックスの要求でないことは確かだ。祥江は中途半端に扉を開いてクロを招き入れようとした。またクロは扉を強引に蹴破って中に入ってくる男ではなかった。おとなしいがクロは祥江になつかない。
「あの子には、王子、と呼ばれているのね」
「冥王星、から落ちてきたことにしてるんですけど」
「めいおうせい?」
すっとんきょうな声で訊き返すと、笑いをかみ殺すのがわかった。
「あいつが、太陽系の惑星の名前でいちばんかっこよくて好きだって言うから。まあ、ごっこ、です」
おどけたように言い、くしゃみする。何年まえだったか、惑星から除外されたのではなかっただろうか。どうでもいいことだ。廊下は玄関のドアからすきま風が入って寒い。
「わたしのことは、恨んでるでしょう」
「いえ、あなたは、ひとりでいるのが好きな人でしょう? 職場ではいけ好かなかったりするおおぜいの人と働いて、家に帰れば、ぼくがいる、というのは、いくら言うとおりにできるだけ気配をなくすように注意して暮らしていても、そりゃ、ストレスだろうなって。この辺りで逃げだすのは、当然かな、って思いました」
飢えさせられたのは、言いつけに背いた罰とは考えていないらしい。わたしはベッドに座りこみ、ガウンのまえをかきあわせた。
(同)
大雪が降って交通網が麻痺した日、祥江は家に帰らずホテルに泊まって会社に出社した。会社への忠誠心からではない。セックスしてほしいという祥江の命令にクロが背いたことに、怒りと不安を感じていたからだ。祥江が食事を用意してやらなければクロは飢える。しかし祥江はそれを命令に背いたクロへの罰だと考えた。だが祥江が家を留守にしていた数日間に、意外な出来事が起こっていた。
クロが祥江の部屋に迷い込んできた夜、マンションでは別の事件が起こっていた。酔っ払った男が階段を踏み外して大怪我したのだった。男には妻子がいて、子供はまだ小学生高学年だった。マンション中の話題になったので祥江も事件を知っていた。男の妻と顔を合わせた際、なにかあったら娘さんをわたしの部屋で預かりますよ、とも言った。社交辞令のつもりだった。ただ大雪で停電になった夜、母親が不在で不安になった娘は祥江の部屋を訪ねた。ドアを開けたのはクロで、女の子を部屋に上げてしまったのだった。
祥江はクロが女の子にイタズラしたのではないかと疑い、それを恐れた。もしそうなら自分も警察に捕まって事情聴取を受けるだろう。しかしクロは女の子と折り紙をして遊んでいただけだと言う。女の子はクロのことを「王子」と呼んでいた。「冥王星、から落ちてきた」王子という設定だ。女の子は祥江の家でクロと二人っきりで過ごしたことを母親には告げず、祥江が家を空けていた間、感謝の印に母親が作ってくれたご飯をタッパーに詰めて持ってきてクロと二人で食べていたのだった。
クロは女の子と必要以上に仲良くなったわけではない。たとえていえば、ペットが訪問客にあっさりなついてしまったのに似ている。祥江は実質的にクロの飼い主だが、クロに愛情を感じたことも、自分から愛情を示したこともない。クロも同じだ。彼は「あなたは、ひとりでいるのが好きな人でしょう? 職場ではいけ好かなかったりするおおぜいの人と働いて、家に帰れば、ぼくがいる、(中略)そりゃ、ストレスだろうな」と言う。
祥江とクロは男と女で、愛の交歓の一つの儀式としてセックスして、他者同士だが、普通の他者よりも深い理解を求め合える存在である。しかし祥江とクロの間にある扉は開かない。祥江が心を開かないからだけではない。クロも祥江には心を開かない。彼は祥江の鏡像のような存在だ。祥江の心を見透かしている。異性であることで、さらに祥江の頑なさと孤独を際立たせる。もちろん祥江に絶望はない。絶望的な状況に置かれながらそれを感じないところに祥江という女性の普通の生活が成り立っている。
「わたしは辞めます」
そう口を突いた瞬間、自分をおおう殻が初めて粉々に砕けた。
「え?」
「矢崎さんは、わたしの穴埋めに正社員になってお休みを取ってもいいんじゃないですか。そのあいだの代用は、あなたがやるのはどうですか。わたしがここ何年かしていた仕事なんて、明日からだって、引き継ぎなしで兼用でこなせますよ」
「そんなわけには」
絆創膏に締めつけられた傷口から、また血があふれ外へ漏れそうになっているのに気づき、いったんだまって引っ込んで貼りなおした。会社のロッカーの鍵を手にドアをあけると志田さんはまだいる。
「退職願いは週明けに部長に送ります。席にある腰掛けとロッカーの荷物は、あなたの責任で、ここへ着払いで送ってください」
(同)
祥江を決定的な行動にせき立てるのは女だ。派遣社員で男性社員に媚びを売って可愛がられているバツイチの矢崎さんを祥江は嫌っている。しかし女性社員たちから嫌われているのは祥江かもしれない。矢崎は妊娠しているが、女性社員の中で彼女を正社員にして産休を取らせようという署名運動が起こっていた。祥江は曖昧な態度を取っていたが、クロが少女を家に上げた、あるいはクロがあっという間に少女になついた事件後に彼を家から追い出すと、会社を辞めてしまう。退職宣言をすると「自分をおおう殻が初めて粉々に砕けた」とある。
しかしこの殻は、会社と矢崎への不満が爆発して砕けたという以上のものではない。生きていて他者と交流を持つ限り、扉は、殻は幾重にも人間を取り巻いている。祥江は社会と交流を断つ形で精神の安定を得ようとしている。
毎週のように見舞いに行っていた伯母は亡くなった。クロは祥江が追い出した。似たもの同士の男女は背中を向けあい、しかし同じような孤独を選択した。クロは「自分は外をうろついちゃいけないらしいってことだけは、なぜだかわかります」とメモに書いた。当面の間かもしれないが、祥江も外界を遮断して内に閉じるだろう。
クロとあっという間に仲良くなった女の子は何事もなかったように暮らしている。ときおり男と歩いているのを祥江は見る。少女が男好きだからではない。それが普通の女の子の成長の過程だということを祥江は知っている。だが祥江はそれを選択できなかった。小説の末尾で祥江のトラウマになった事件が示唆されるが、それは本質的問題ではない。動こうと思ってもどうしても動けない女がいる。それが彼女の常態なら絶望は頭の上を通り過ぎてゆく。
お互いに堅固であるはずの垣根を破って男女が結ばれるハッピーエンド小説だけが小説ではない。現実には祥江のような選択を重ねてゆく女性の方が多いだろう。フィクショナルな設定を架構しても、小説の核がリアリズムにあるならその後味はデロリとして悪い。救いがないからだ。あるいは今は、どこに、何を救いとして設定していいのか、誰にもわからない時代なのかもしれない。
大篠夏彦
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