No.097『特別展 国宝 東寺-空海と仏教曼荼羅』展
於・東京国立博物館
会期=2019/03/26~06/02
入館料=1600円(一般)
カタログ=2700円
弘法大師空海の真言宗根本道場であり、真言宗総本山の東寺(教王護国寺)に伝わる密教美術の展覧会であります。ただし東寺は最初から真言宗のお寺だったわけではない。桓武天皇は延暦十三年(七九四年)に奈良から京都に遷都した。当時中国は唐王朝で、桓武は唐の都・長安にならって平安京の正門として羅城門を作り、その左右に東寺と西寺を建立した。当初東寺と西寺は鎮護国家の祈祷を行うための官寺で、特定宗派のためのお寺ではなかった。
『特別展 国宝 東寺-空海と仏教曼荼羅』展図録より
奈良に行くと法隆寺や東大寺、興福寺など巨大なお寺だらけだが、奈良時代末になると仏教寺院の勢力が強まり、政治に口出しするなど様々な支障が生じた。そのため桓武天皇は遷都に際して南都(奈良)寺院の移転を認めなかった。新都には東寺と西寺の二つの官営寺院しか建立を許さなかったわけだ。しかしその後平安京は――奈良ほどの巨大寺院は作られなかったが――お寺だらけになった。平安時代を通じていかに仏教が盛んだったかがわかる。
明治維新前後の国粋主義思想の隆盛によって天皇は神道の最高祭主というイメージが確立されたが、歴史を振り返れば天皇家は仏教の最大庇護者だった。水が上から下に流れるように、天皇家の篤い仏教帰依により貴族から庶民に至るまで仏教が浸透・定着していったのだった。様々な思想は仏教によってもたらされたのであり、『源氏物語』を頂点とする平安国風文学は仏教がなければ生まれなかったと言ってよい。
ただ巨大寺院の維持運営には莫大な費用がかかる。有力な庇護者が付かなかった西寺は平安初期には消滅してしまった。羅城門がどんな建造物だったのかはっきりわからないが、こちらも天元三年(九八〇年)の倒壊以来再建されなかった。芥川龍之介が荒廃した羅城門を舞台に同名小説を書き、それを元に黒澤明監督が映画を撮ったことで有名ですね。羅城門、西寺ともに消滅してしまったので、東寺にはその旧蔵品も納められている。
『兜跋毘沙門天立像』
一体 木造、彩色 像高一八九・四センチ 中国唐時代・八世紀 東寺蔵
兜跋毘沙門天立像は羅城門の楼上に安置されていたと伝えられる仏像である。こういった仏像を見ると遠い目になってしまいますねぇ。スラリとした立ち姿で、肉厚で動的な鎌倉仏とはまた違う、内に秘めた強い力が像から外に放射されているようである。巨大とは言えないが一九〇センチ近い像だから、この像を楼上に戴いた羅城門もかなりの大きさだったはずだ。兜跋毘沙門天は中国で生まれた仏様で、城門の守り神として信仰された。そのため鎧を着て戟を持つ武人の姿である。東寺の毘沙門天は唐時代の作品で、平安遷都と羅城門造営に当たって中国から招来(輸入)されたものである。
平安遷都を行った桓武天皇は、坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命して東北地方を平定するなど朝廷の支配エリアを広げ権力基盤を強化した。しかし次の平城天皇の代になると、よくあることだが揺り戻しが起こった。平城天皇は在位三年で早々と弟の嵯峨天皇に譲位して上皇となり平城京に居住していたが、都の貴族に平城京遷都の詔を出して復位を試みた。薬子の変(弘仁元年[八一〇年])である。この変は失敗に終わり、それにより治世が定まり王都としての平安京が定まった。なお『伊勢物語』の主人公で女性にモテた、というか女を口説くための和歌は上手かったが冷や飯食いで高い官位を得られず、失意の内に関東に下ったと言われる在原業平は平城天皇の孫である。
空海は宝亀五年(七七四年)に讃岐国(現・香川県)多度郡で生まれた。平城京で学び厳しい修行を積んだ後に、延暦二十三年(八〇四年)六月に遣唐使の一員として入唐し、翌年五月に長安青龍寺の恵果和尚に師事した。恵果は即座に空海の宗教者としての高い資質を見抜き密教の奥義を伝授した。八月には早くも恵果から、弟子を持ち密教を教えることができる阿闍梨位の灌頂を受けている。空海は恵果の元で経典の筆写などを精力的に行い、十二月に恵果が六十歳で入滅すると弟子を代表して和尚の顕彰碑の碑文を起草した。空海が帰国したのは大同元年(八〇六年)十月のことである。わずか二年の留学だが、空海は留学体験を「虚しく往きて実ちて帰る」と回想している。恵果和尚から密教のすべてを学んだというより、留学によって自らの仏教思想の裏付けを得たのだろう。
ただ朝廷は空海の留学期間を二十年と定めていた。それを二年で切り上げてしまったので、空海は太宰府に留め置かれ入京が許されなかった。嵯峨天皇が即位するとようやく帰京が許された。薬子の変に際しては嵯峨天皇側について鎮護国家の大祈祷を行っている。空海の法名は次第に高まり、弘仁七年(八一六年)に修禅道場として高野山の下賜を請い嵯峨天皇から勅許を得た。弘仁十四年(八二三年)には東寺を下賜された。東寺が真言密教の根本道場となったことで、空海真言密教の力が強まったのは言うまでもない。
平安初期の密教は最澄開祖の天台密教=台密と、空海開祖の真言密教=東密に大きく二分される。最澄は空海より一回りほど年上だが桓武天皇の信頼厚く、三十歳頃にすでに桓武天皇の内供奉十禅師をつとめている。空海とともに入唐し天台山で天台教学と密教を学んだが、空海より一年早い延暦二十四年(八〇五年)に帰国している。これは予定通りで、空海は無名の仏僧だったが最澄の地位はすでに確立されていた。帰国するとすぐに桓武天皇の命で高尾山神護寺で日本初の灌頂を執り行った。平安時代初期には最澄が仏教界を牽引し、次第に空海の影響力が強まっていったのだった。以前取り上げた宇多法皇開基の仁和寺も空海系の密教寺院である。
『御請来目録』
空海撰、最澄筆 一巻 紙本墨書 縦二七・一×全長八八五センチ 平安時代・九世紀 東寺蔵
『風信帖』
空海筆 一巻 紙本墨書 縦二八・八×全長一五七・九センチ 平安時代・九世紀 東寺蔵
『御請来目録』は最澄筆だが、空海が朝廷に提出した、唐から持ち帰った経典や仏画、法具などの目録の写しである。今の言葉で言うと唐からの輸入品リストである。当時はコピー機などないから、必要が生じると文書類はすべて書写されていた。また日本の仏僧はほぼすべての知識を中国から得ていたわけで、どんな経典類が請来(移入)されたのかを知る必要があった。目録とはいえ内容に関する空海のメモがある。また空海が唐から何を持ち帰り、それが現在東寺などに所蔵されているどれに相当するのかを特定する際の基礎資料にもなっている。
『風信帖』は空海が最澄に宛てて書いた書状である。最澄は空海が太宰府から京に戻れるよう尽力し、唐から帰国後も親しく交流した。最澄は密教に関しては年下の空海を師としていた。空海が卓越した知識を持っていた証左である。しかし宗教上の教義の違いなどから弘仁七年(八一六年)頃に決別したようだ。『風信帖』は空海と最澄の交流を物語る貴重な資料であり、空海の書の代表作でもあることから国宝に指定されている。
美術展はちょっと不思議なところがあって、あまり『風信帖』の出品が宣伝されていなかったせいか、まったく並ばずにじっくり見ることができた。『御請来目録』と『風信帖』を見比べると空海の書の方が堂々としていて流麗で、圧倒的に美しい。最澄の書が字であり情報を伝達するものだとすれば、空海の書は書き手の精神性が表れた美術になっている。
もちろん思想家として空海の方が優れていたという意味ではない。ただ空海と最澄の書には美意識に関して大きな違いがある。空海の方が美に敏感だ。この空海の高い審美性が、東密がじょじょに人々の心を捉えていった大きな要因になっている。
『真言七祖像』より『金剛智』
李真等筆 献本着色 縦二一一・五×横一五七・二センチ 平安時代・弘仁十二年(八二一年) 東寺蔵
『真言七祖像』は空海が唐から持ち帰った仏画である。インドや中国で真言密教を確立した七人の祖師が描かれている。内五幅は唐の永貞元年(八〇五年)に、師の恵果が空海に持ち帰らせるために李真ら十名の宮廷画家に描かせたものである。縦二メートル、横一・五メートル近い巨大な仏画で、制作当初は絢爛豪華で相当な費用がかかっている。当時の遣唐使がいかに潤沢な資金を持っていたのかがうかがい知れる。唐の宮廷画家が描いたほぼ唯一の遺例だという。残り二幅は弘仁十二年(八二一年)に曼荼羅を修理する際に、空海が新たに描かせたものである。恵果の五祖に二祖を加えたところに空海の密教思想が表れている。東密では後に空海を加えて真言八祖像となった。
各祖像には上部に僧名を大書し、下部にそれぞれの行状文が付けられている。唐から持ち帰った五幅の行状文は後から加えられているので、弘仁十二年に残り二幅を作った際に空海が新たに追加したものである。また『金剛智』像がそうだが、上部の僧名は太い刷毛のような筆を使った飛白体と呼ばれる特殊な文字で書かれている。中国皇帝が好んだ書体だが、日本で飛白体を使ったのは空海が初めてだろう。
空海の密教は〝真言〟密教であることからわかるように、言―言葉を重視した。特に無から世界が生み出される際に大日如来が最初に発した言葉がアであることから、ア音を神聖とした。そのため東密は阿字真言(阿字観)とも呼ばれる。ただ空海は経典を黙読して内容を理解し、音読して唱えるだけでなく視覚効果をも重視した。それは祖師の名前を荘厳するために、皇帝用の文字・飛白体を使ったことにもはっきり表れている。空海にとって密教の文字は神聖文字であり、美しくあらねばならないという美意識があった。
『両界曼荼羅図(甲本)』より『胎蔵界』
献本着色 縦四三三・三×横三九六・四センチ 平安時代・建久二年(一一九一年) 東寺蔵
『両界曼荼羅図(甲本)』より『金剛界』
献本着色 縦四二八・八×横三九五・八センチ 同
空海は経典だけでなく仏画や仏具を唐から持ち帰ったが、そこには師・恵果の、密教の教えは文字だけでは伝えることができないという思想があった。『両界曼荼羅図(甲本)』は空海が恵果から贈られた曼荼羅の写しである。劣化が進んだので空海帰国後の弘仁十二年(八二二年)に最初の写しが作られ、建久二年(一一九一年)に第二回目の写しが制作された。『両界曼荼羅図(甲本)』が第二回目の写しである。由緒正しい曼荼羅であり、東密では現図曼荼羅、根本曼荼羅と呼び曼荼羅の基本として重要視している。縦横四メートル近い巨大な曼荼羅である。
曼荼羅というとすぐにチベットを思い浮かべてしまうが、チベット密教の曼荼羅図は後期密教経典に即しており、空海請来の曼荼羅図の方が初期密教の教えを反映している。東密系、というか日本の密教の曼荼羅図の多くは『胎蔵界』と『金剛界』から構成される。それぞれ密教の根本経典『大日経』と『金剛頂経』を典拠にしている。ただし密教経典の数は多く、経典に即して様々な宗派が生まれたことから曼荼羅の種類も多岐に渡る。また密教は〝秘密の教え〟という意味である。人間がまだ知らない世界の神秘を解き明かし、人間が決して知りようのない世界の神秘を示唆する宗教だということだ。そのため宗派ごとに秘教化が行われるのが常である。
ただ日本の曼荼羅の基本は、どの宗派でも大日如来を中心とする図像である。大日如来の上には釈尊(仏陀)が描かれている。神格化されたが仏陀は仏の教えに到達した覚者であり修行者なのだ。ちょっと乱暴にまとめると、曼荼羅は大日如来を中心に重要な仏がその周囲を取り巻き、外縁部には異教の古い仏たちをも習合する仏の世界の俯瞰図である。それが極彩色の絵図で表現される。経典を読んだだけではピンとこない仏の世界が目で直接的に理解できるわけだ。その巨大な大きさ、絢爛豪華な色彩、そして教義(仏典の意味内容的な教え)が理路整然と美しく図像化された曼荼羅が、理性だけでなく感性にも訴えかけて多くの貴人を惹き付けたのだった。
また曼荼羅は大日如来を中心に世界が放射状に拡がり、周縁の仏が円を描いてぐるぐると大日如来の周囲を回っている姿でもある。様々な違和を取り込んで世界が全体として調和している姿を描いている。この循環的世界観が仏教に限らず東アジア圏一体の古い思想であるのは言うまでもない。
日本では平安時代に日本古来の神道の神様は、実は仏の化身であるという本地垂迹説が現れた。元寇で神風が吹いて神道がクローズアップされた鎌倉時代には、いやその逆だ、仏は実は神の化身なのだという反本地垂迹説が説かれた。教義的には大問題だが、こういった教義が現れること自体に、曼荼羅に表象される東洋的循環的世界観が大きく影響している。
また空海は『胎蔵界』『金剛界』曼荼羅だけを重視したわけではない。曼荼羅には、
・『大曼荼羅』――仏の姿を具体的に描いた曼荼羅
・『三昧耶曼荼羅』――仏の姿をシンボルで描いた曼荼羅
・『法曼荼羅』――仏の姿を文字(梵字)で描いた曼荼羅
・『羯磨曼荼羅』――仏の姿を立体像で表した曼荼羅
の四種類があり、「四種曼荼羅各々離れず」――それぞれ違う形で仏の世界を描いた曼荼羅であり、その本質は同じだと述べている。
空海時代の曼荼羅は初期密教の熱気を反映してどれも大きいが、絵図よりも立体像で仏の世界を表現する方が難しいのは言うまでもない。しかし東寺講堂には空海指導の下に作られた立体曼荼羅――『羯磨曼荼羅』が残っている。二十一体で構成されるが長年の間に失われたものがあり、空海時代に作られた像は現存十五体である。今回の展覧会では江戸時代の再興仏像四点、空海時代の仏像十一点の計十五点が展示された。大日如来を中心に置いた五仏(如来)の左右に五菩薩、五大明王が安置されている。『大威徳明王騎牛像』『帝釈天騎象像』は空海時代の作で、それぞれ牛と象にまたがる古い形である。
『(東寺)講堂諸仏の配置図』
『特別展 国宝 東寺-空海と仏教曼荼羅』展図録より
『大威徳明王騎牛像』
一体 木造、彩色 像高一〇〇・九センチ 平安時代・承和六年(八三九年) 東寺蔵
『帝釈天騎象像』
一体 木造、彩色 像高一〇五・四センチ 平安時代・承和六年(八三九年) 東寺蔵
空海が構想した立体曼荼羅――『羯磨曼荼羅』は斬新だった。それらは有機的な関連性を持つ仏像群であり、視覚的衝撃が治まると、なぜこのような配置なのか、その理由は何なのかを人々に考えさせる。仏教は汚濁にまみれが現世に生きる人間が、仏に祈ることで救済を求める宗教である。空海は即身成仏――現世にいながら悟りを得ることを理想としたが、それが実際に可能であるかどうかは別として、仏に近づき悟りを得ようとする指向自体が宗教である。曼荼羅や立体曼荼羅は、たとえ経典の意味がよく理解できなくても、それを見る(拝む)者に視覚的な理想世界を示す役割を担っていた。
『両界曼荼羅図(種子曼荼羅)』
二幅 献本着色 各縦七〇×横五八・四センチ 室町時代・十六世紀 東寺蔵
『両界曼荼羅図(種子曼荼羅)』は曼荼羅の規則に沿って『胎蔵界』と『金剛界』から構成されるが、仏の姿を描かず古代インドのサンスクリット語、梵字で仏を表現した『法曼荼羅』である。今回出品されていた『両界曼荼羅図(種子曼荼羅)』は比較的新しく室町時代の作だ。種子(梵字)と輪郭を版画で刷って着色してあるので同じ物が複数作られたはずである。室町になると禅宗が流行し始め密教系の曼荼羅図は小さくなる。春日曼荼羅など神道曼荼羅が最も盛んに作られたのも室町時代である。
『法曼荼羅』は『大曼荼羅』の簡易版と捉えることもできる。が、真言密教にとって文字は重要だ。種子、サンスクリット語のビーシャは唯識哲学ではすべての現象を生み出す核=種子である。空海真言密教も唯識の教えを引き継いでいるので阿字真言なのだ。核のない生成はあり得ない、つまり多様な現実事象を生み出す根底には種子があるという考え方である。
この思考方法は現代哲学にも通じる。人間意識は意識界と無意識界に大別されるが、無意識界を底の底まで下降すると無に至る。無は何もないという意味の無ではなく、有を生み出すエネルギー総体である。ただ無が有に変わるときには何らかの触媒が必要だ。それが種子である。また種子は複数層に分かれていて、人類共通の現実存在を生み出す種子と、民族や宗教ごとに異なる現実存在を生み出す種子があると考えられる。言語ごとの特性によって現実存在のあり方は変わる。いずれにせよ種子は言葉と密接に結びついている。人間が言葉を持ち、それが種子のフィルターを通して現実事物と結びつかなければわたしたちの多様な現実世界は存在しない。密教は心理学、それに言語学とも密接な繋がりを指摘できる宗教哲学なのである。
鶴山裕司
(2018/06/18)
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