尾崎紅葉
文学史的通念では紅葉は文語体作家だが、正確に言えば正しくない。紅葉にとって文語体で書くか言文一致体で書くかは大きな問題ではなかった。紅葉は島崎藤村と並ぶ明治時代で最も器用な作家だった。どんな書き方もできた。むしろそこに紅葉独自の〝作家性〟がある。漱石は紅葉の『金色夜叉』は二、三十年で忘れ去られるが、藤村の『破戒』は明治文学の金字塔になると言った。しかし『破戒』について「僕は西洋の小説を読んだような気がした」とも述べた。藤村がドストエフスキーの『罪と罰』のテーマと文体を真似て『破戒』を書いたのは今日ではよく知られている。
漱石は東洋文学と西洋文学の質的差異と同一性をとことん検討することで日本近代文学の祖となった。しかし紅葉や藤村は欧米文学を模倣し、それを従来の日本文学と折衷させる道を選んだ。つまり何はともあれ完成度の高い文学作品(小説)を書くこと、現実に話題となり売れる小説を書くという〝結果を出すこと〟で明治文学(同時代文学)を牽引しようとした。文学者の現世の生き様としては、どちらが幸せなのか微妙なところである。ただ紅葉に関しては、彼の文語体と言文一致体の使い分けに過度にこだわってもムダである。文体はどうあれ紅葉作品のテーマは男女の痴話話、つまりは現世の諸相を描くことにある。
鷲見柳之助はその妻を亡ってはや二七日になる。去る者は日に疎しであるが、彼はこの十四日をばまだ昨日のように想っている、時としては、今朝のようにただの今のようにも想う。余り想い窮めては、まだ生きているようにも想っている。なるほど病のために敢無くはなった、氷のように冷えて、美しい目も固く瞑いだ、棺へも斂めたれば、葬送も出した、谷中の土に埋めて、榡の位牌になってしまって、現在ここにあるからは、仮でもなく、確に死んだに極っている。如何にもその軀は葬られて、その形は滅したに違いはないが、彼の胸の内には、その可愛い可愛い妻の類子は顕然と生きているのである。
(尾崎紅葉『多情多恨』明治二十九年[一八九六年])
紅葉は明治二十二年(一八八九年)に『二人比丘尼』を刊行すると同十二月に読売新聞に小説記者として入社し、翌二十三年(九〇年)にあっさり帝国大学を退学して小説に専念した。漱石は朝日新聞に小説記者として入社したが、先に読売新聞が声をかけたことが知られている。紅葉の後釜はイヤだという意識があったのかもしれない。それはともかく紅葉は二十九年(九六年)に読売新聞に『多情多恨』を連載すると、翌三十年(一九〇〇年)から『金色夜叉』の連載を開始した。三十六年(〇三年)に三十六歳の若さで死去するまで書き継いだ未完の大作である。
漱石の『吾輩は猫である』第一回が俳誌「ホトトギス」に掲載されたのは明治三十八年(一九〇五年)一月、藤村の『破戒』が自費出版で刊行されたのが三十九年(〇六年)三月である。日本の近現代小説は実質的にこの二作から始まる。しかし紅葉はその十年も前に、文体だけ見れば現代小説とまったく遜色のない言文一致体小説を書いた。だが紅葉が言文一致体小説の先駆者であり完成者だと言われることはない。近代文学の祖とも言われない。うわべをなぞるだけではダメということである。文学の世界の評価は長い目で見れば的確で公平なのだ。ただし紅葉文学の特徴ということで言えば、『多情多恨』は一種奇妙ともいえる偏りを見せている。
『多情多恨』の主人公は学校の先生の鷲見柳之助である。柳之助は妻の類子を亡くして嘆き暮らしている。その悲しみは尋常ではない。いつまで経っても類子を慕う気持ちが薄れない。六〇〇枚近い長編小説だが、作品の最後まで異様なほど類子に執着している。ただし欧米的な意味での純愛小説ではない。「然までに可愛がられた、大事がられた彼の妻は、決して然までに夫を思わなかった。いわば通一遍であったけれども、柳之助は少しも不足に思わぬのみか、それが女子の性と信じていた」とある。類子が薄情だったわけでない。普通の奥さんだっただけだ。だから異様に類子を慕い、どうしても忘れられないと嘆く理由は柳之助の側にある。
おまけに柳之助は人嫌いである。心を許した友人は葉山誠哉一人きりしかいない。そして葉山の妻、お種のことが嫌いである。はっきりした理由はない。単に虫が好かないだけなのだ。子供もおらずひらすら嘆き暮らす柳之助を心配して、葉山が自分の家に下宿してはどうかと勧めてくれる。お種がいるので気が進まなかったが、寂しさに耐えかねて柳之助は葉山邸に下宿することにした。ところが下宿してみると、控えめに夫の世話を焼き、一人息子を可愛がるお種に柳之助はじょじょに好意を持ち始める。もちろん柳之助は亡き妻類子の肖像画を油絵に描かせたりして、相変わらず嘆き暮らしているのである。
ただ親友の葉山に対してそうであるように、お種に心を許し妻を亡くした歎きを語り始めると、柳之助は心理的にお種を頼り始める。あげくの果て、類子を思って眠れず苦悩する夜に、お種と息子の保が眠る座敷の襖を開けて枕元に座り込んでしまう。自分の苦しみを語りたいだけなのだが、深夜二時を回っているので非常識もいいところだ。お種は驚くが、同居してから柳之助の心を理解するようになっているので乱暴されるなどとはまったく考えない。実際柳之助はそんなことをする男ではない。
間の悪いことにお種の枕元に座ったのは葉山の出張中だった。狭い家の中のことである。お種の舅、つまり葉山の父親がお種との仲を疑い、息子に柳之助を家から追い出すよう強く命じる。葉山は柳之助の性格を知り尽くしておりお種との姦通なぞまったく疑っていない。しかし父親の命には逆らえない。柳之助は葉山邸を出て、だが近くの高級下宿で暮らすことになった。小説の最終部は「転居したその夕方から柳之助は遊びに来たが、次の日からは降っても照っても毎日一度ずつ訪ねて来ぬことはない。お種も自から心待にして、好きな物でもあれば、必ず取っておくようにするのである。/下宿の床の間には正面にお類の肖像画を飾って、胡麻竹の井字の写真掛に保を連れたお種の立ち姿が床柱の花入の釘に掛けてあるばかりで、幅もなければ花もなしに。」である。
近代小説は人間の自我意識の苦悩を描くことで成立したわけだから、妻を亡くして嘆き悲しむ柳之助は近代小説の主人公の資格を持っている。一方で柳之助は、明治三十年代後半に現れ現代文学の基礎となった漱石や藤村小説の主人公が有している自我意識のある部分をきれいさっぱり欠落させている。妻を亡くした柳之助の悲しみは、彼自身にはもちろん、他者がどうなだめて救いの手を差し伸べても微動だにしないのである。つまり『多情多恨』では確かに人間の自我意識の苦悩が描かれているが、まったく深みがない。柳之助の心理は変化も深化もしない。
『多情多恨』を読んだ人の多くが気づくように、柳之助が渇望するように求めているのは母性である。その意味で紅葉門から泉鏡花が出たのは必然かもしれない。柳之助が妻の類子に頼り切りだったのは言うまでもないが、親友の葉山を除いて彼が心を開くのは、お類の母親(義母)と葉山の妻・お種の二人の女性だけである。お種が柳之助の訪問を「心待にして、好きな物でもあれば、必ず取っておくようにする」のは男女の恋愛感情ゆえではない。大きな子供だと見切ったからである。柳之助が人嫌いなのも子供の人見知りと変わらない。では紅葉はこれだけ長い小説を書きながら、柳之助が求めているのは母性だと気づかなかったのだろうか。
この問いに対する答えは紅葉という作家の場合、意外なほど難しい。現代的な視線で批評すれば、紅葉の人間の自我意識理解が一面的だったから、呆れるほど苦悩するにも関わらず、柳之助の心の動きが平板なのだと言うことはできる。しかししっくりこない。むしろ柳之助は自分の苦悩と〝和解〟することを強硬に拒んでいるように読める。柳之助は、つまりは紅葉は苦悩と和解した方が楽であり、読者も深く納得して安堵すると知っていたはずだ。なにせ大衆の支持を頼りとする流行作家なのだ。しかし絶対そうしない。そこに紅葉の、実に奇妙な小説主題がこめられている。
「吁、宮さん恁して二人が一処に居るのも今夜限だ。お前が僕の介抱をしてくれるのも今夜限、僕がお前に物を言ふのも今夜限だよ。一月の十七日、宮さん、善く覚えてお置き。来年の今月今夜は、貫一は何処で此月を見るのだか! 再来年の今月今夜・・・・・・・・・十年後の今月今夜・・・・・・・・・一生を通して僕は今月今夜を忘れん、忘れるものか、死んでも僕は忘れんよ! 可いか、宮さん、一月の十七日だ。来年の今月今夜になつたらば、僕の涙で必ず月は曇らして見せるから、月が・・・・・・・・・月が・・・・・・・・・月が・・・・・・・・・曇つたらば、宮さん、貫一は何処かでお前を恨んで、今夜のやうに泣いて居ると思つてくれ。」
宮は挫ぐばかりに貫一に取着きて、物狂しう咽入りぬ。
「那様悲い事をいはずに、ねえ貫一さん、私も考へた事があるのだから、それは腹も立たうけれど、どうぞ堪忍して、少し辛抱してゐて下さいな。私はお肚の中には言ひたい事が沢山あるのだけれど、余り言難い事ばかりだから、口へは出さないけれど、唯一言いひたいのは、私は貴方の事は忘れはしないわ――私は生涯忘れはしないわ。」
「聞きたくない! 忘れんくらゐなら何故見棄てた。」
「だから、私は決して見棄てはしないわ。」
(尾崎紅葉『金色夜叉』『前篇』明治三十一年[一八九八年])
原作を読んだことがなくても、多くの人が一度は聞いたことがある貫一お宮の熱海での決別シーンである。『金色夜叉』で最もよく知られたこの場面は小説冒頭で起こるんですね。つまりこの決別が長い長い『金色夜叉』のテーマになっている。
貫一は両親を亡くし十五歳の時から鴫沢家で育てられた。当主隆三が貫一の父親に恩義があり、衣食住の世話から学費まで出してくれたのだ。貫一は今は高等学校卒業を間近に控え、帝国大学に進学する予定の青年である。鴫沢家には子供はお宮しかおらず、貫一は大学を出たらお宮と結婚して鴫沢家を継ぐはずだった。しかし稀に見る美女のお宮を財産家の富山重平が見初めてしまう。いつも大きなダイヤモンドの指輪をはめ、世の中金だと思い込んでいるキザで嫌味な男として描かれている。新劇の舞台などではお宮は金(ダイヤモンド)に目がくらんだと簡略化されているが、事はそう単純ではない。
年金などの社会保障制度が貧弱だった当時、結婚や養子縁組によって家と家との結びつきを深め、お互いに助け合うことは社会全般で広く行われていた。確かに鴫沢家はそれなりに財産があった。しかし富山家は富豪でありお宮の結婚は良縁だったのである。お宮もそれはわかっていた。幼い頃からいっしょに育った貫一を愛していたが、自分の結婚が両親の生活を楽にし、経済的にも社会的出世という面でも貫一の助けになると思ったので富山の求婚を受け入れた。はっきりとは書かれていないが富山との結婚はお宮の一種の自己犠牲である。
なるほどお宮を許婚にしておきながら、財産家の富山が現れたからそれを破棄するというのは残酷で信義にもとる。しかし育ての親の鴫沢隆三は可能な限りの誠意を尽くして貫一にこらえて欲しいと懇願している。お宮は嫁にやれないが約束通り鴫沢家の家督は貫一に譲る、大学ももちろん出させる、洋行したいなら大学進学前でもなんとかすると申し出る。しかし貫一は納得しない。貫一を説得する際、お宮がいると話しにくいので隆三はお宮と母親を熱海に行かせていた。隆三と話した翌日、貫一は突然熱海に現れ引用のような決別になった。それどころか貫一はそのまま行方知れずになってしまう。隆三は貫一を裏切ったわけだが、貫一もまた隆三の育恩をあっさり踏みにじった。貫一が当時の社会常識に無知だったはずはない。しかしあくまで強い強い自我意識を貫いた。このあたりがどうしても社会常識を破れない当時の人々の心を捉えたのですね。貫一お宮のような悲恋は当時は珍しいことではなかった。
「死んでも僕は忘れんよ!」とお宮を罵倒したように、貫一はこの失恋の裏切りを決して忘れない。お宮は富山と結婚するが、貫一に許してほしいと頻繁に手紙を書く。貫一はそれを読みもしないで焼き捨ててしまう。鴫沢隆三は行方知れずになっていた貫一の居場所がわかると、貫一の不義理への怒りを押し殺して会いに来る。お前にはひどいことをしたと後悔しているが、お前もあんまりじゃないか、過去のことは水に流してどうぞ鴫沢家に戻って家督を継いでくれと申し出る。高等学校時代の親友は、女一人のために人生の道を踏み外すなど男子のあるべき姿ではないと貫一を諭す。貫一はまったくその通りだが、自分は死んだも同然の男なのだから放っておいてくれとあらゆる救いの手を拒絶する。しかし貫一がお宮をいまだ深く愛し、どうしようもなく執着しているのは明らかである。だが貫一はお宮は汚れた女であり、今さら取り返しがつかないと決して和解しようとしない。
この貫一の姿は妻の死が忘れられず、八方塞がりの悲しみに浸る『多情多恨』の柳之助と構造的にまったく同じである。『多情多恨』を書く前に紅葉は『源氏物語』を読んで多大な影響を受けたと言われる。しかし『多情多恨』を読む限り、『源氏』からの影響は男もよく泣くくらいしか見出せない。また東海大学の堀啓子氏の地道な調査によって『金色夜叉』を書く際に、紅葉がアメリカの作家バーサ・クレイの大衆通俗小説『女より弱きもの』を参照した(種本にした)ことが知られている。しかしそれだけだろうか。決して人生の痛恨事と和解も融和もせず、むしろ激しく拒否する柳之助や貫一の姿は異様だ。紅葉はなぜ和解を拒むのか。紅葉は不愉快極まりない拒絶の姿勢を貫くことで、何と戦っているのだろうか。(下編に続く)
鶴山裕司
(図版撮影・タナカ ユキヒロ)
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